500曲で振り返る凡庸なポップソングリスナーの生涯 <第2回>
006. 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(1975)
「アンタ あの娘の何なのさ!」のフレーズが印象的なダウン・タウン・ブギウギ・バンドの4枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで5週連続1位、この曲で「NHK紅白歌合戦」にも初出場、「日本レコード大賞」では企画賞を受賞した。
元々はアルバム「續 脱・どん底」の収録曲だったのだが、シングル「カッコマン・ブギ」のB面として再レコーディングされたバージョンである。
リーゼントにサングラス、衣装はツナギというビジュアルにもインパクトがあり、ボーカルはほとんどがセリフ、コミックソングというかノベルティソング的に捉えられてもいたような気もするが、それだけ当時の子供たちにも受けていた。
私は北海道の苫前町という町で小学生だったのだが、おそらく上級生がこの曲の「アンタ あの娘の何なのさ!」というセリフを真似していたのとプール清掃の記憶がなぜか結びついている。
また、プロ野球ではこの年に広島東洋カープが初優勝し、赤ヘル旋風なるものが巻き起こったことになっているのだが、同じおそらく上級生が「カープ カープ カープ 広島 広島カープ」などと応援歌的なもの(正確には「それ行けカープ 〜若き鯉たち〜」も歌っていたことをなぜかよく覚えている。
後に懐かしのメロディーとして軽い気持ちでこの曲を聴いてみると、ロックチューンとしてあまりにもカッコよく、演奏も最高であることに驚かされた。
山口百恵「横須賀ストーリー」「プレイバックPart2」、ジュディ・オング「魅せられて」、中森明菜「DESIRE-情熱-」をはじめ、数々のヒット曲を手がけることになる、阿木燿子のこれが作詞家としてのデビュー作となる。
007. ファンタジー/岩崎宏美(1976)
岩崎宏美の4枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高2位を記録した。すでにシングル「ロマンス」「センチメンタル」が連続して1位に輝くなど、この時点で大人気スターであった。
オーディション番組「スター誕生!」出身で歌唱力に定評があり、筒美京平によるディスコミュージックと歌謡曲とを絶妙にミックスしたような良質な楽曲にも恵まれたといえる。
個人的に初めて買ってもらった歌謡曲のレコードというのが細川たかしのデビューシングル「心のこり」であり、理由は「私バカよね おバカさんよね」という歌詞のフレーズが面白かったからである。
細川たかしと岩崎宏美とは、1975年末の音楽賞レースで新人賞を争っていた。その時点では細川たかしの方を応援していたはずなのだが、いつしか岩崎宏美の楽曲に良さを感じるようになっていた。
おそらくこの時期の代表曲は「ロマンス」で間違いがないのだが、個人的に初めてグッときてその後もずっと大好きなのが「ファンタジー」の方である。
苫前町というのは本当に小さな町で、レコード店というものが無く、唯一レコードが買える店は小島時計店というその名の通り時計屋さんであった。また、「テレビマガジン」などの雑誌は小阪商店という酒屋で買っていた。
しかし、それとは別にちゃんとした書店も1軒だけあったはずで、年の瀬には家計簿が付録に付いた「主婦の友」か何かを母がそこで買っていたはずである。
小学3年から4年に上がろうかという頃にその店に1人でいると、店内でこの曲が流れ、なんだか切なくてとても良いなと感じたのであった。ポップミュージックに対してそのレベルでの愛着を覚えたのは生まれて初めてのことであった。
「ギターの弦 人さし指 はじいてひいて あなたのこと考えてる 私はひとり」と歌いはじめられる悲しい歌なのだが、どこか都会の孤独というようなものも感じられて、そこがなんだかとても良い。
そして、「地下鉄の出口で ふと心に感じたあなたのまなざしを 立ちどまり私も ただあなたを見つめてた」という歌詞があるのだが、苫前の小学生であった私はこの時点で地下鉄というものに乗ったことはもちろん見たことすらない。というか、それが一体どのようなものであるのか、想像すらできていないのである。
しかし、そこに都会的な何かを感じてもいて、無自覚的に憧れてもいた。この曲そのものが当時の私にとっての淡いファンタジーだったのかもしれない。
この頃になると子供向けに編集されたスター名鑑のようなものを買って読んだりもしていたのだが、岩崎宏美は東京都江東区深川の出身ということであった。北海道にも母方の祖父母が暮らしていた旭川の隣に深川という駅があり、ウロコダンゴという菓子が名物であった。そこにすらなんとなく親しみを覚えていた。
008. しあわせ未満/太田裕美(1977)
太田裕美の7枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高4位を記録した。
「木綿のハンカチーフ」が太田裕美の代表曲であるのみならず、日本のポップミュージック史における金字塔とでもいうべき超名曲であることはいうまでもないのだが、その約1年1ヶ月後にリリースされた「しあわせ未満」もとても良く、個人的にはかなり好きである。
小学4年から5年に上がる少し前であった当時は、タイトルや歌詞に算数で習ってからそれほど経っていなかったであろう「未満」という単語が入っていることが印象的だったぐらいなのだが、後に聴き直すにつれどんどん好きになっていった。
作詞が松本隆で作曲が筒美京平なのは、デビューシングル「雨だれ」からずっとそうだったのだが、アイドルポップスとニューミュージックの中間あたりの狙いがあり、実際そのように受け入れられていたような印象がある。
サウンドもボーカルも洗練されているのだが、歌詞に登場するのは経済的にそれほど豊かではないカップルであり、それは「あどけない君の背中が 部屋代のノックに怯える」という歌詞にもあらわれている。
そして、「ぼくの心の荒ら屋に住む君が哀しい」というフレーズがなんとも切ない。日本社会が経済的に豊かになっていくにつれ、メインストリームの大衆ポップミュージックも四畳半フォーク的なものからニューミュージック、さらにはシティポップ的なものへと移行していくのだが、この「しあわせ未満」という楽曲はその境界に位置しているようにも思えるのである。
009. マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美(1977)
尾崎亜美の3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位のヒットを記録した。小林麻美が出演する資生堂のCMソングに起用され、「あっ 気持ちが動いてる たった今 恋をしそう」というところがテレビからお茶の間によく流れていたはずである。
いわゆるシティポップ的な楽曲であり、演奏はティン・パン・アレーによるものである。とはいえ、当時、シティポップという言葉はまだ一般的に使われていなかったような気はする。
個人的にこの曲がヒットした年の春には父の仕事の都合で苫前から旭川に引っ越すことになるのだが、当時は友人たちと離ればなれになることがとても辛く、なかなかその事実を受け止めることができなかった。
子門真人「およげ!たいやきくん」はフジテレビ系の子供向け番組「ひらけ!ポンキッキ」から生まれた国民的メガヒットとなり、曲の主人公であるたい焼きそのものまでブームになるのだが、苫前にもこの曲をスピーカーから流しながら、たい焼きを販売するトラックが訪れることがあった。
また、引っ越しをする少し前には父方の実家があり、幼少期に住んでいたこともある留萌出身の森田公一がトップギャランを率いて「青春時代」を大ヒットさせていたのだが、苫前小学校の廊下を上級生が「青春時代のまん中は胸にとげさすことばかり」と歌っていると、栄浜から通っていたひょうきん者の友人が「うっ、胸にとげがささって痛い」などとふざけて羽交い締めにされていた。
卒業式を送る会的な校内イベントでは歌が上手い下級生の男子が新沼謙治「嫁に来ないか」を歌って概ね好評だったように記憶しているのだが、最後の校長先生の総括でもっと子供らしい歌を歌いなさい的な本気のダメ出しをされていて、地獄のような雰囲気になっていたことを小学生なりにうっすらと覚えている。
ピンク・レディーはすでにデビューしていてテレビでデビューシングル「ペッパー警部」をミニスカートで大股開き的な振り付けをまじえて歌い踊るのをすでに何度も目にしていたのだが、小学生ながらにこういうのを堂々とテレビで流しても良いのだろうか的な衝撃と動揺はなんとなくあったような気がする。
当初はどことなくキワモノ的なイメージも漂わせていたような気がしなくもなかったのだが、この頃には2枚目のシングル「S・O・S」も大ヒットしていた。
010. 哀愁トゥナイト/桑名正博(1977)
ロックバンド、ファニー・カンパニーのボーカリストとして活動していた桑名正博のソロアーティストとしては2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでの最高位は99位であった。
当時はオリコン週間シングルランキングの存在すら知らなかったのだが、後にこの最高位を知って、意外にも売れていなかったのだなと驚かされた。この翌々年にカネボウ化粧品のCMソングに使われた「セクシャル・バイオレットNo.1」が大ヒットし、フジテレビ系の伝説の音楽番組「ビッグベストテン」でも初回の1位になるのだが、交通渋滞に巻き込まれたことにより、到着が生放送の番組終了間際となり、歌うことができないということがあった。
それはそうとして、個人的に旭川に引っ越してもちろんその都会ぶりには驚かされることばかりであった。母方の祖父母の家があったので、何度も遊びに来たことはあったのだが、とにかくデパートや映画館がたくさんある大都会というイメージで、まさか住むことになるとは想像すらしていなかった。
苫前の友人たちとの別れをあんなに悲しんでいたというのに、旭川の生活がはじまってしまうと、すっかりその都会的な快適さに適応してしまった。というか、日本社会が経済的に豊かになってくのにつれて、ポップミュージックのみならず、いろいろな面で都会的な価値観を志向するようにもなっていて、個人的にはいろいろな要素がタイミング的に合致したような気もする。
そして、ポップミュージックのリスニングスタイルとしては、自分の部屋でラジオを聴くようになったことがひじょうに大きい。同時にテレビのプロ野球中継を主体的に見るようにもなっていたのだが、夜9時少し前に試合の途中でもテレビ中継が打ち切られると、茶の間から自分の部屋に移動して、ラジオで中継の続きを聴くようになった。
北海道放送ことHBCラジオで「ジャンボミュージックナイター」という番組をやっていて、それはプロ野球のナイター中継が終わった後にはじまり、プロ野球の結果を話題にしたり音楽をかけたりしながら進行していく。
この番組で「哀愁トゥナイト」はよくかかっていたのだ。作詞は松本隆で作曲が筒美京平、歌謡ロック的なのだがシティポップ的な要素もある。「男と女 抱きあう前までゆらめくけれど」「身体はなせば 心寒々冷えるだけ」などとかなり大人な内容が歌われていて、当時、小学5年になったばかりの私がその内容を理解していたわけではまったくないのだが、なんとなくカッコよさは感じていた。