フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」とバブル景気についての個人的な記憶。

(前回から続く)

フリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」を聴いて衝撃を受けた時、私はすでに23歳だった。この音楽にたとえば14歳辺りで出会えていたとしたらどんなに良かっただろうと考えたりもするのだが、その頃にはYMOやRCサクセションや佐野元春がいた訳であり、それはそれで良かったのではないかと思う。

そして、大滝詠一「A LONG VACATION」も14歳の頃にリリースされ、ヒットしていたのだが実際にレコードを買ってちゃんと聴いたのは15歳になってからだった。そして、山下達郎「FOR YOU」もその頃だった。中学校を卒業して高校に入学すると、この辺りの音楽について語り合える男子や女子がわりと多くて楽しかった。とはいえ、オフコースや中島みゆきにも人気はかなりあって、私は東神楽町から通学しているニューミュージック好きの女子グループからチューリップの姫野さんに似ているなどといわれていた。休み時間の持ちネタは田原俊彦のものまねだったのだが。

それはそうとして、1991年7月10日にフリッパーズ・ギターの3作目のアルバム「ヘッド博士の世界塔」がリリースされると、オリコン週間アルバムランキングの8位に初登場するのだが、ASKA「SCENE Ⅱ」とWink「Queen of Love」を挟んで2ランク上には6月18日発売ですでに1位に輝いている山下達郎「ARTISAN」がまだランクインしている。ひじょうに強いということができる。

山下達郎の「RIDE ON TIME」は1980年の夏にオリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録していたのだが、「ザ・ベストテン」ではランクインしていなかった。70年代後半はニューミュージックが全盛で、暗くてシリアスな方が本格的で価値が高いのではないかという印象がなんとなくあったのだが、80年代は歌謡界の大スター、ジュリーこと沢田研二が落下傘を背負ったド派手な衣装でパフォーマンスした「TOKIO」で幕を開けた。作詞はコピーライターの糸井重里である。「TOKIO」とは日本の首都、東京のことなのだが、同じく東京を「TOKIO」と表現したのがYMOことイエロー・マジック・オーケストラの「テクノポリス」で、70年代の終わり近くにリリースされていたのだが、80年代に入ると社会現象的ともいえるブームを巻き起こした。未来的なシンセサイザーを駆使したサウンドは若者達から圧倒的な支持を得る一方で、大人からは一体これのどこが良いのかさっぱり分からないというような反応があったようにも思える。

それから、田原俊彦「哀愁でいと」や松田聖子「青い珊瑚礁」の大ヒットからはじまるアイドルポップスの復権が起こったのもこの年である。それまでは、自分で曲をつくって歌うニューミュージックのシンガーソングライターの方が職業作家がつくった曲を歌うだけのアイドルや歌謡曲の歌手よりもエラいというような風潮がなんとなくあり、しかも歌謡界ではベテラン歌手がまだまだ好調で、フレッシュアイドルにとっては受難の時代であった。山口百恵が1980年秋での結婚、引退を発表し、ポスト百恵は誰かということが話題になり、そこに松田聖子がハマったという側面もあった。あとは、漫才ブームである。それまで、中高年が楽しむ演芸というような印象があった漫才が、なぜか若者達に急激に受けはじめ、B&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜介などはアイドル的な人気となった。その頃、本人が出演したカセットテープのテレビCMの影響もあって山下達郎「RIDE ON TIME」がヒットして、後にシティ・ポップなどと呼ばれるようになるタイプの音楽が一般大衆に広まるきっかけとなった。

これらを総合すると、時代の空気感が一気にライトでポップな方向性に向かっていったということがいえる。軽くて明るいのが正義で、重くて暗いのは悪とでもいうような、それがタモリのニューミュージック批判などにもつながっていったのだろうか。

アメリカの社会学者、エズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が出版されたのが1979年で、これはベストセラーになるのだが、日本は経済的に成長していて、いずれはアメリカをも抜くのではないかというような、かなりの伸びしろを社会全体が享受していたような印象がある。四畳半フォークからニューミュージック、さらにはシティ・ポップ(と後に呼ばれるようになる音楽)という嗜好の変化は、こういった国全体の経済成長の影響を受けているような気がする。

バブル景気のきっかけとなったのは、1985年秋のプラザ合意だといわれているが、偶然にもこの年に私は旭川の高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめている。パルコ出版から出版されていたサブカルチャー的な娯楽雑誌「ビックリハウス」が休刊になったのを悲しみつつも、おニャン子クラブやとんねるずによる80年代的な軽チャーノリに丸ノリしていたことをまったく否定はしない。翌年、大学に入学し、キャンパスが厚木だったので小田急相模原に引越し、オリエンテーションからの帰りにオウム堂というレコード店で岡田有希子の「ヴィーナス誕生」を買って新築のワンルームマンションに帰り着き、テレビをつけると逸見政孝アナが彼女が事務所ビルの屋上から飛び降りて、もうこの世にはいないことを報道した。

丸井の赤いカードでDCブランドの高価な服を買い、アルバイトで稼いだ金でその支払いをする。ギャツビーから肌が日焼けしているように見える化粧品が出て、なんと私もそれを買って使用していた。村上春樹「ノルウェイの森」は赤と緑の表紙の上下巻で新刊として新宿の紀伊国屋書店に平積みされている時点で買って、それは流行っていたからなのだが、やがてよく分からない「純愛」ブームのバイブルとしても捉えられるようになる。タイトルは飛行機内で流れるビートルズの同名曲のインストにちなんでいて、田中康夫がエッセイかコラムで痛烈に批判していた。松任谷由実はいわゆる「恋愛三部作」を1987年からリリースしはじめてカリスマ化するのだが、原田知世と三上博史が主演してホイチョイプロダクションの馬場康夫が監督した映画「私をスキーに連れてって」にも楽曲がフィーチャーされていて、公開されたのはその最初の年であった。

1981年に漫才ブームの中心メンバーをキャスティングして放送開始された「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマは、EPOの「DOWN TOWN」であった。山下達郎や大貫妙子が在籍した伝説のバンド、シュガー・ベイブのカバーである。その後、このエンディングテーマは山下達郎「土曜日の恋人」、松任谷由実「土曜日は大キライ」「SATURDAY NIGHT ZOMBIES」などに変わっていく。

たとえばフリッパーズ・ギターの音楽に14歳ぐらいで出会い、「電気グルーヴのオールナイトニッポン」を熱心に聴いていた世代というのは、私よりもチト(河内)年下になる訳だが、この人達にとって、山下達郎とか松任谷由実というのは仮想敵的な存在であったというような話を聞くことがある。

それで、「ヘッド博士の世界塔」がオリコン週間アルバムランキングに初登場した週、すでに発売されて久しいにもかかわらずまだ3ランク上にランクインしていた山下達郎「ARTISAN」を当時の私は聴いていない。つまり、大人になりきれていなかったということなのだろう。

バブル景気は1991年2月、つまりフリッパーズ・ギターが「グルーヴ・チューブ」をリリースするよりも前に終わったとされているのだが、バブル景気の象徴だといわれることも少なくない大型ディスコ、ジュリアナ東京の開業はこの年の5月15日である。バブル景気についての実際と一般大衆的な認識との間にはかなりの格差があったであろうことが推測される。個人的にはめちゃくちゃ景気が良かったという印象もそれほどないのでよく分からないのだが、大学で同じ年に入学した知り合い達がめちゃくちゃ有名な企業への内定を次々と獲得し、さらにはそれを断ったりもしているところに、おそらく景気は良いのだろうなと感じるところがあった。

山下達郎についていうと、1983年6月8日にリリースされたアルバム「MELODIES」もすぐに買っていて、収録曲の「クリスマス・イブ」は季節感がそれほど感じられない時期に初めて聴いていた。先行シングルの「高気圧ガール」は全日空のCMソングで4月23日に発売されていたのだが、この曲はFMラジオからカセットテープに録音して、風呂に入りながらよく聴いていた。同じカセットテープにはイエロー・マジック・オーケストラ「君に、胸キュン。」、一風堂「アフリカン・ナイツ」、沢田研二「晴れのちBLUE BOY」なども録音されていたはずである。

このようにリアルタイムのポップ・ミュージックとして楽しく聴いていた山下達郎だが、大学に入学してそれほど経っていない頃にリリースされた「POCKET MUSIC」は買ったもののそれほど熱心には聴かず、スタジオアルバムはそれ以降、買わなくなってしまった。1989年にリリースされたアルバム「JOY」は買って、やはり良いなと思ったりもしていた。このライブアルバムでは竹内まりや「プラスティック・ラヴ」がエモーショナルにカバーされていて、当時はアルバム「VARIETY」に収録された曲のうちの1つぐらいの認識だったので、意外にもなかなか良い曲だったのだな、と感じたりもしていた。

フリッパーズ・ギター「恋とマシンガン」の少し前に山下達郎はシングル「Endless Game」をリリースしていて、これは買ったのだが、不倫をテーマにしたテレビドラマ「誘惑」の主題歌で、それほど感情移入できなかった。山下達郎の音楽と一緒に大人にはなれず、フリッパーズ・ギターや岡村靖幸を聴いていたということになる。

山下達郎の「クリスマス・イブ」は「MELODIES」がリリースされた1983年の12月にシングル・カットされたが、その時の最高位は44位であった。すでにアルバムがかなり売れていたので、無理もないともいえる結果だった。しかし、これが1988年にJR東海のテレビCMに使われることによってリバイバルし、翌年にはオリコン週間シングルランキングの1位に輝いた。

高度資本主義社会と性愛至上主義的な価値観とはおそらく密接な関係があったように思えるのだが、クリスマスにいわゆるシティホテルの高価な部屋や高級レストランを予約するようなことがひじょうに流行り、雑誌で特集されたりもしていた時代に、松任谷由実の「純愛三部作」だとか山下達郎の「クリスマス・イブ」だとか村上春樹の「ノルウェイの森」だとかもヒットしていたように思える。

金をたくさん持っている妻帯者の大人が女子大生と不倫をするというようなムーヴメントも確実に存在していて、私の身の回りにもそのような女子が少なくなかったのだが、岡村靖幸「聖書<バイブル>」などはそれをテーマにしてもいるのだ。現在のパパ活と何が違うのかと思われもするのだが、当時は若い女性の方もそれほど金に困っているという訳でもなく、悲壮感のようなものはほとんどない。もっとゴージャスな世界を垣間見ることができる、という好奇心や上昇志向が主な理由だったように思える。

こういうのがまあ時代の気分ではあった訳だが、個人的にはまったく好ましくは思っていなく、これに対立する概念として「青春」のようなものがあり、それがたとえば岡村靖幸「靖幸」やフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」でもあった訳である。

「ヘッド博士の世界塔」は「カメラ・トーク」の翌年にリリースされたアルバムで、音楽性はかなり変わっていたようでいて、精神性は芯が通っているというか、必然的にこうなるよな、という感じではあった。「カメラ・トーク」のようなヒリヒリとするリアリティーはそれほど感じなかったのだが、やはりこれはすごいものだと思った。

バブル景気的な豊かさは世の中にあるが、自分とはほとんど関係がない、とはいえその影響や恩恵はおそらく受けていたのだろう。それがこれからも続いていくのか、終わりかけているのかはそれほど深刻に意識していなかった。フリッパーズ・ギターが「ロッキング・オンJAPAN」で評されていたフニャモラーな感じが、自分に最もフィットするし誠実でもあるように感じられた。良くも悪くも、それが真実だったのだろう。

(次回に続く)

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