フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」が発売された頃に聴いていた音楽について。

(前回から続く)

フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」がリリースされたのは1991年7月10日で、いまこの文章を書いている時点で発売30周年の記念日から数日前なのだが、その頃に私がどのような音楽を聴いていたのかということを思い出していくだけの回である。

ちなみにその頃に最も売れていた清涼飲料水はおそらくカルピスウォーターなのだが、個人的には六本木WAVEの休憩時間によく行っていた六本木公園の自動販売機でも何面も取っていたにもかかわらずいつも売り切れていたので、ほとんど飲めなかった。また、最もよく行っていたカレー店といえば六本木のMOTIであり、ランチタイムにはチキン、マトン、ダールのうちから選べたと思うのだが、最も美味しいと感じていたのはレギュラーメニューのバターチキンである。しかし、価格は高かった。

プライマル・スクリームの「ハイヤー・ザン・ザ・サン」は1991年6月22日付の全英シングル・チャートで40位に初登場し、それが最高位であった。つまり、それほど大きくヒットしてはいない。とはいえ、この年の「NME」で年間ベスト・シングルに選ばれるなど、評価は高かったように思える。

プライマル・スクリームといえば「NME」の「C86」というカセットテープに収録された「ヴェロシティー・ガール」が象徴するように、活動の初期にはインディー・ポップ的な音楽をやっていたのだが、紆余曲折の末、1990年にはダンス・ビートを取り入れた「ローデッド」が全英シングル・チャートで最高16位のヒットを記録する。この頃はマンチェスター出身のザ・ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツなどがインディー・ロックにダンス・ミュージックの要素を取り入れたような音楽をやって注目され、マッドチェスター・ムーヴメントなどと呼ばれてもいた。マンチェスターではなくスコットランド出身のプライマル・スクリームのこの曲もその流れに乗るものだったような気がする。

そして、インディー・ポップやネオ・アコースティック的な音楽を元々はやっていたが、やがてダンス・ビートやサンプリングを用いた楽曲が増えはじめたフリッパーズ・ギターもこういった動きに呼応していたような気がする。実際に「ヘッド博士の世界塔」に収録された「奈落のクイズマスター」などには、「ローデッド」からの影響が感じられなくもない。

「ハイヤー・ザン・ザ・サン」はアンビエント・テクノ・ユニット、ジ・オーブとのコラボレートにより、その音楽性をさらに前に進めたもののように思える。

当時、金曜の深夜にフジテレビで「BEAT UK」という番組が放送されていた。イギリスのヒット・チャートや注目の音楽などをコンパクトに紹介する、とても良い番組であった。土曜の午前中に起きるとこの番組を録画したビデオを見て、それから六本木WAVEに行くことが多かった。当時の全英シングル・チャートには匿名的なテクノユニットによる楽曲がランクインするケースもひじょうに多かった。

ところで、このテクノという言葉だが、個人的な記憶では一時的に死語のようなかたちになっていたような気もするのだが、もしかするとそんなこともなかったのかもしれない。テクノという言葉を初めて知ったのは80年代の初め、YMOことイエロー・マジック・オーケストラの社会現象的ともいえる大流行、さらにはプラスチックス、ヒカシュー、P-MODELのテクノ御三家などというのもあった。当時、中学生だった私はプラスチックスが特に好きだった。

テクノブームはわりと早く終息し、その影響はその後のポップ・ミュージックに大きく及びはしたのだが、YMOのメンバーは「高橋幸宏のオールナイトニッポン」で、テクノブームは音楽業界では無かったことにされている、というようなことを言ったりもしていた。

再びテクノという言葉が一般的になったのはこの年あたりだったのではないかというような気がする。80年代の後半に主に電子楽器によってつくられたハウス・ミュージックが流行し、そこから派生してテクノと呼ばれる音楽が盛り上がっていったとか、そういった印象である。この年にはYMOにも影響をあたえたといわれていたドイツのテクノ・ポップ・グループ、クラフトワークのリミックス・アルバム「THE MIX」やそこからシングル・カットされた「ロボット」がヒットしたりもしていた。日本では電気グルーヴがメジャーデビューしたのが、この年である。

おそらくこの年の5月ぐらいのことだったと思うのだが、やはり土曜日の午前中に「BEAT UK」を録画したビデオを見ていた。その週は確かインディー・チャートを紹介していたと思うのだが、そこでセイント・エティエンヌの「ナッシング・キャン・ストップ・アス」という聴き慣れない曲のビデオが流れ、それは60年代ポップスのエッセンスを当時のテクノロジーによってアップデートしたかのような、何だか素敵な感覚を味わわせてくれた。

そして、おそらく同じ日のインディー・チャートでこの曲のビデオも流れていたような気もするのだが、エレクトロニックの「ゲット・ザ・メッセージ」である。このエレクトロニックというユニットはニュー・オーダーのバーナード・サムナーと元ザ・スミスのジョニー・マーが結成したということでかなり話題になっていたのだが、この曲にはセイント・エティエンヌ「ナッシング・キャン・ストップ・アス」と同様に60年代ポップス的なエッセンスを当時のテクノロジーでアップデートした的な魅力が感じられ、すぐに好きになった。全英シングル・チャートでは最高8位のヒットを記録したのだが、J-WAVEで現在も放送されている「TOKIO HOT 100」にも当時はランクインしていたようなので、日本でもそこそこ人気があったのではないかと思える。

当時、全英シングル・チャートの上位にランクインしていた匿名的なユニットによる楽曲の中で、個人的に特に気に入っていたのがコーラ・ボーイの「7ウェイズ・トゥ・ラヴ」である。ハウス・ミュージック的なトラックにのせて、女性ボーカルが「7ウェイズ・トゥ・ラヴ」とずっと歌っているだけなのだが、これが何だかとても良い。渋谷センター街のONE-OH-NINE、つまり現在のドン・キホーテのビルにあったHMVで買ったと思うのだが、シングルCDのジャケットは江口寿史のイラストのパクりのような、スクーターのようなものに乗った女の子でこれもまた良かった。後に実はセイント・エティエンヌのメンバーによる変名ユニットであったということを知った。

https://youtube.com/watch?v=HtklNF-IjKQ

メジャーどころのヒットということでいうと、クリスタル・ウォーターズの「ジプシー・ウーマン」がやたらと流行っていた。ハウス・ミュージック的な音楽にのせてソウルフルな女性ボーカリストが歌っているのだが、「ラダディーラウダー」というような繰り返しに中毒性があり、強く印象に残っている。全英シングル・チャートで最高2位を記録した他、フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」が発売された週の「TOKIO HOT 100」では1位に輝いている。

また、映画「ニュー・ジャック・スウィング」のテーマソングであったカラー・ミー・バッド「アイ・ワナ・セックス・ユー・アップ」も全英シングル・チャートで1位のヒットを記録し、「BEAT UK」でも最後に流れていた印象が強い。この辺りのヒット曲はポップ・ミュージックとして普通に好きで、CDシングルを買ったりもしていた。

80年代後半のイギリスでアシッド・ハウスがブームになり、それはドラッグ・カルチャーにも結びついていたのだが、インディー・ロックにも影響をあたえていった、というのがインターネットも無かった時代になんとなく知っているつもりだったマッドチェスター・ムーヴメントとか、その辺りのことである。その中心となっていたのがマンチェスターにあったハシエンダというクラブでニュー・オーダーなどが所属していたファクトリーというレーベルが経営していたということだが、その後、ダンス・ミュージックの要素も取り入れたインディー・ロックはさらに流行していった、という感じだったと思う。

マッドチェスター御三家といえばザ・ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツで、インスパイラル・カーペッツといえばオアシスのノエル・ギャラガーがローディーをやっていたとか、牛のイラストが描かれたTシャツが当時はよく売れていたということが思い出される。その後、マンチェスター以外の街からもこういったタイプの音楽をやるバンドがどんどん出てくるわけだが、「ジ・オンリー・ワン・アイ・ノウ」のザ・シャーラタンズとか「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」のブラーとかはブームに便乗した一過性の人気だと思っていた私は明らかに先見の明がない。

そして、フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」がリリースされた1991年7月には、全米シングル・チャートにおいても、イギリスではすでにヒットした後のEMF「アンビリーヴァブル」が1位、ジーザス・ジョーンズ「ライト・ヒア、ライト・ナウ」が2位を記録したりしていた。この辺りは実は当時の日本の洋楽ファンにとってもいまさら感があったように思える。この頃、「ロッキング・オン」の裏表紙には確か毎号、東芝EMIの広告が掲載されていて、EMFもジーザス・ジョーンズも十分に告知されていたような記憶がある。ジーザス・ジョーンズはボーカリストのマーク・エドワーズがなかなかの美青年だったこともあり、日本でもわりと人気があったような気がする。

土曜日の六本木WAVEの休憩時間には近所の公園で話し込む回というのもあったのだが、何歳かだけ年下の女性で、以前はJUN SKY WALKER(S)のファンだったが、当時はフリッパーズ・ギターを好み、ザ・シャーラタンズの来日公演やそういったタイプの音楽を好む人達が集まるという吉祥寺のハッスルとかいうクラブに出入りしているという人と一緒のこともあった。彼女とは最後に六本木のレゲエが流れるおでん屋で2人きりで話した後で、長文の手紙をもらったことが思い出されるが、そんなことはどうでもいい。それで前日の深夜に放送されていた「BEAT UK」の話などもしていたのだが、カイリーちゃんがエロエロで良かった、と言っていた。カイリーちゃんとはオーストラリア出身のポップ・シンガー、カイリー・ミノーグのことで、80年代後半に「ラッキー・ラヴ」「ロコモーション」などをヒットさせるのだが、当時はわりと清純派アイドル的なイメージもあったのではないか。その後、よりクラブ・ミュージック寄りの楽曲を歌うようになり、イメージもセクシーな感じになっていった。この頃にヒットした「ショック!」などはその良いところが出た楽曲であり、ビデオだったのではないだろうか(個人的には「悪魔に抱かれて」こと「Better The Devil You Know」の方が好きだが)。

私が高校生ぐらいの頃、というと80年代前半なのだが、パンクやニュー・ウェイヴとハード・ロックやヘヴィー・メタルとは対立関係にある、というような図式があり、私はなんとなくモテそうだという印象からパンクやニュー・ウェイヴの方が好きだったので、ハード・ロックやヘヴィー・メタルはあまり好きではなかった。とはいえ、私が通っていた旭川の高校ではスターリンとアースシェイカーのコピーバンドを掛け持ちしている者などが普通にいたりもしたので、実際のところその辺りはよく分からないのである。

それで、80年代後半にはアメリカのオルタナティヴ・ロックでラウドでヘヴィーなものが流行りがちだとか、ビースティー・ボーイズがハード・ロックをサンプリングしていたり、パブリック・エナミーやLLクールJの新曲が収録された映画「レス・ザン・ゼロ」のサウンドトラックにハード・ロックやヘヴィー・メタルも収録されていたりというようなことが起こってくる。それで、当時、私が最もカッコいいと思っていたアーティストがヒップホップのパブリック・エナミーなのだが、その歴史的名盤「パブリック・エナミーⅡ」に収録されていた「ブリング・ザ・ノイズ」をスラッシュメタルのアンスラックスがカバーして、それにパブリック・エナミーのチャックDも参加しているということでシングルCDを買うのだが、これはかなりカッコよかった。

また、ラウドでヘヴィーなアメリカのオルタナティヴ・ロックということでいうと、ソニック・ユースがメジャーのゲフィンと契約し、最初のアルバム「GOO」が1990年に発売されてそこそこ売れるのだが、それでシアトルのサブ・ポップ・レーベルからリリースしていたニルヴァーナも同じくゲフィンと契約し、移籍後最初のアルバム「ネヴァーマインド」をフリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」をリリースした翌々月にリリースしたところ、誰もが予測しなかったほどの大ヒットとなり、これをきっかけにオルタナティヴ・ロックがメインストリーム化、ポップ・ミュージックの歴史に大きな影響をあたえていくのであった。

時を戻そう。それで、当時のアメリカのオルタナティヴ・ロックにおける人気バンド、ピクシーズがアルバム「世界を騙せ」からの先行シングルとして「プラネット・オブ・サウンド」をリリースするのだが、これもラウドでヘヴィーでとても良かった。

あとはアシッド・ジャズ・ブームというのもあったのだが、ブラン・ミュー・ヘヴィーズ「ネヴァー・ストップ」辺りがわりと流行っていた印象が強いが、ジャイルズ・ピーターソンのトーキング・ラウド・レーベルからこの頃は、インコグニート「オールウェイス・ゼア」、オマー「ゼアズ・ナッシング・ライク・ディス」辺りが全英シングル・チャートにランクインしていた。お洒落でコンサバティブなムードが、当時の六本木WAVE辺りにはよく似合っていたような気がする。ニュー・ウェイヴやオルタナティヴ・ロックなどに強いバイヤーももちろんいたのだが、全般的にはお洒落でコンサバティブな音楽を好む人々に支えられていたような印象がある。それで、1991年の3月ぐらいにはKLF「ホワイト・ルーム」を大量陳列するようなわりと攻めたことをやっていたエントランス付近が、翌年秋のリニューアル以降はアロマキャンドルのようなものを売るようになるのも必然だったような気がしないでもない。インコグニートの「オールウェイス・ゼア」はモーニング娘。プラチナ期の名曲「笑顔YESヌード」(2007年)に影響をあたえたような気もする。

R.E.M.のアルバム「アウト・オブ・タイム」はこの年の3月にリリースされ、すでに大ヒットを記録していたのだが、フリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」をリリースした頃、イギリスではシングル・カットされたノベルティー・ソング的な「シャイニー・ハッピー・ピープル」がシングル・チャートで最高6位を記録した後であった。この曲にはB-52’sのケイト・ピアソンがゲスト参加していた。

また、レニー・クラヴィッツの「ママ・セッド」は大人のロック・ファンにも大いに受けていたわけだが、60年代や70年代のクラシック・ロックから影響を受けたような音楽性からするとそれも十分に納得がいった。とはいえ、若い音楽ファンまでもがこういった音楽を好むということはあまり健全ではないのではないだろうか、などというひじょうに面倒くさいことを当時の私は考えてもいたのだった。それでも抗いがたい魅力がその音楽にはあったし、このCDも買っったしわりと気に入っていた。この頃にはシングル・カットされた「イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー」がヒットしていた。

季節は夏であり、後にサマー・クラシックスの1曲として認知されることにもなるDJジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンス「サマータイム」がリリースされたのもこの年である。サンプリングされているのはクール&ザ・ギャング「サマー・マッドネス」で、ザ・フレッシュ・プリンスは後に俳優として成功するウィル・スミスである。

(次回に続く)

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