倉田まり子「ストーミー・ウェザー」をファッションプラザオクノ地下の玉光堂で買った日曜日は1980年6月22日だったのかもしれない。

旭川

倉田まり子の楽曲がいつの間にかApple Musicのカタログに追加されていたことを先日知り、アルバム「ストーミー・ウェザー」をおそらく約46年ぶりぐらいに聴いたわけだが、iPhoneのディスプレイにはオリジナルの発売日もちゃんと記載されていて、それによると1980年6月21日とのことであった。カレンダーで確認すると当日は土曜日であり、私はこのレコードを発売されてからわりとすぐに旭川のファッションプラザオクノ地下の玉光堂で買った記憶があったので、それは翌日、6月22日だった可能性がひじょうに高い。

当時、私は旭川市立光陽中学校の2年だったはずなのだが、このレコードを買った日には妹が通っていたひまわり幼稚園の運動会があり、家族と一緒に見にいっていたのだった。しかし、途中でなんだか飽きてきて、一旦家に帰って水風呂を浴びて、それからカリフォルニアロードというドロップハンドルと変速機付きが特徴の青い自転車で旭川市街地まで行ったような気がする。当時、まだ熊本大学に在籍中だった宮崎美子が水着姿で出演したミノルタカメラのテレビCMが大ヒットして、斉藤哲夫が歌うCMソング「いまのキミはピカピカに光って」もオリコン週間シングルランキングで最高9位を記録した。作詞が糸井重里で、作曲・編曲はムーンライダーズの鈴木慶一である。このレコードが発売されたのも、倉田まり子「ストーミー・ウェザー」と同じくこの年の6月21日であった。

そして、この日、私は当時、13歳にして生まれて初めていわゆる男性誌と呼ばれる雑誌を旭川のそれほど規模が大きくない書店で買ってもいたかもしれないのだが、それは小学館から発行され、篠山紀信の「激写」というグラビアページが売りだった「GORO」で、やはり宮崎美子の水着グラビアが掲載されていたはずである。倉田まり子「ストーミー・ウェザー」をその後、懐かしんで繰り返し聴いたわけでもないのだが、なぜこの日のことを覚えているかというと、私にとって生まれて初めての洋楽アルバムであるビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」も一緒に買っていたからである。

少し前にNHK-FMの「軽音楽をあなたに」でビリー・ジョエルの特集のようなものが放送されていて、私はなんとなくそれをラジカセで録音していた。もちろん当時の言葉でいうところのエアチェックである。当時、ビリー・ジョエルの最新アルバムは「グラス・ハウス」であり、そこからも「ガラスのニューヨーク」は少なくともかかっていたのだが、それよりも前作「ニューヨーク52番街」からの「マイ・ライフ」「オネスティ」「ビッグ・ショット」の方が気に入ったので、これを買うことにしたのだと思う。

レコードの価格がシングルは600円から700円、アルバムは2,500円から2,800円に値上げされた直後だったのだが、洋楽については据え置かれていたような気がしないでもない。それでも出費はなるべく抑えたかったので、ビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」は国内盤よりも安価な輸入盤を買った。当時、旭川で輸入盤が買えたのはミュージックショップ国原とファッションプラザオクノ地下の玉光堂と西武百貨店のディスクポートぐらいだったような気がする。

ビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」が私にとって初めて買った洋楽のレコードだったかといえばそんなことはなく、それよりも少し前に旭川光陽中学校の近くというか豊岡4条1丁目の農協の並びにあった時計店でポール・マッカートニー「カミング・アップ」のシングルは買っていた。ポール・マッカートニーはこの年の1月に来日公演が予定されていたのだが、成田空港で大麻所持により現行犯逮捕されたため中止になっていた。当時、洋楽のレコードをまったく買ったことがなく、ビートルズの音楽もちゃんと聴いてはいなかったのだが、「カミング・アップ」はラジオでよくかかっていて、単純にニューウェイブっぽくてカッコいいと思って聴いていた。

1980年6月21日付の全米シングルチャートではポール・マッカートニー「カミング・アップ」が3週目の2位をキープしていて、翌週にリップス「ファンキータウン」を抜いて1位に輝くのだった。但し、アメリカでは日本盤やヨーロッパ盤などではB面に収録されていたウィングスとのライブバージョンがA面扱いになっていた。ビリー・ジョエルのアルバム「グラス・ハウス」からは「ガラスのニューヨーク」の次にシングルカットされた「ロックンロールは最高さ」が6位まで順位を上げてきているが、この4週後にはポール・マッカートニー「カミング・アップ」を抜いて初の1位に輝くのだった。

ビリー・ジョエルはこの時点ですでにメジャーに大成功した超人気アーティストだったのだが、全米シングルチャートでは「素顔のままで」「マイ・ライフ」で記録した3位が最高位で、日本のオリコン週間シングルランキングで1978年の夏に記録した「ストレンジャー」の2位よりも低い状態であった。この時に1位を阻んだのはピンク・レディー「モンスター」であった。

倉田まり子は1979年にシングル「グラジュエイション」でデビューしたアイドル歌手で、NHKの人気歌番組「レッツゴーヤング」のレギュラー、サンデーズのメンバーだったりと、テレビにもよく出演していた。また、雑誌のグラビアなどでも人気が高かったと記憶している。「男がいて女がいて 恋ができるの」というフレーズが印象的な3枚目のシングル「HOW! ワンダフル」は江崎グリコのチョコレート菓子、ポッキーのCMソングに起用され、当時、多くのリアルタイマーが耳にした記憶があると思うのだが、オリコン週間シングルランキングでは最高52位であり、セールスではこれが倉田まり子にとって最大のヒットとなった(最高位では「グラジュエイション」「イヴニング・スキャンダル」が上回っている)。

1970年代後半はニューミュージックブームであり、一方、歌謡界ではピンク・レディー、沢田研二、山口百恵、西城秀樹、郷ひろみをはじめとするビッグスターたちがまだヒット曲を連発し続けていて、フレッシュなアイドル歌手にとってはなかなか厳しめな時代であった。ヒットチャートで健闘したフレッシュアイドルといえば「夏のお嬢さん」がヒットした榊原郁恵やコンスタントにオリコン週間シングルランキング30位以内をキープし続け、1980年元旦発売の「春ラ!ラ!ラ!」では遂に「ザ・ベストテン」にもランクインを果たした石野真子ぐらいだろうか。

サザンオールスターズは1978年6月25日にシングル「勝手にシンドバッド」でデビューするのだが、以降、その斬新な音楽性で日本のポップミュージックシーンに衝撃をあたえ続けると共に、「気分しだいで責めないで」「いとしのエリー」「思い過ごしも恋のうち」「C調言葉に御用心」とすべてのシングルがトップ10ヒットを記録する。1980年からは音楽制作に集中するため、テレビなどのメディア出演を控え、シングルを毎月発売し続けるという活動にシフトするのだが、シングルのセールスは激減する一方で、アルバムは発売すれば確実に1位になるというアーティスティックな売れ方になっていく。

私はラジオで聴いた「勝手にシンドバッド」に度肝を抜かれ、カセットテープに録音した音源から歌詞を書き起こしたりもするうちにやはりレコードも買い、次の「気分しだいで責めないで」もお年玉で買うのだが、ボーカルの桑田佳祐は「ザ・ベストテン」でのパフォーマンス中に「ノイローゼ」などとシャウトしていたし、なんとなく一発屋的なフェイドアウトをしていくのか、などともうっすらと感じてはいた。中学校に入学する頃に3枚目のシングル「いとしのエリー」をラジオで聴いたが、サザンオールスターズにしては普通すぎるかな、というような印象でレコードは買わなかった。しかし、何度も聴いているうちに実はこれはすごく良いのではないかというような気分になっていき、ヒットチャートでも上がっていった。

ある朝、一緒に中学校に行こうと友人の家に寄ると、前日、旭川市民文化会館で行われたサザンオールスターズのライブに行ったという彼の姉が興奮覚めやらぬ様子で、レコードに合わせて「笑ってもっと baby」などと歌っていた。私もサザンオールスターズのロゴがプリントされた小銭入れを購入して日常的に使用するなどしていたのだが、おそらく1979年の年末あたりのFM番組で桑田佳祐が倉田まり子について好意的な発言をしていたと記憶している。それで、当時、わりと仲よくしていて卒業するまで実はずっと好きだったにもかかわらず想いを伝えられなかった同級生の女子が「HOW!ワンダフル」を口づさんでいたことなどもあって、倉田まり子のことを気にするようになっていった。

「グラジュエイション」「HOW!ワンダフル」「イヴニング・スキャンダル」「June浪漫」といったシングルレコードを買ったり、STVラジオで日曜の午前中に放送されていた「北海道ヤングヒット10」という番組にリクエストハガキを出すようにもなっていった。そして、これはどこにもそんな記録がなく、もしかすると完全な記憶違いというか、何らかの妄想なのではないかとっもはや疑いかけているのだが、テレビのものまね番組で、倉田まり子がテクノポップバンド、プラスチックスのボーカリスト、佐藤チカのものまねをしているのを見たような気がするのだ。しかも、曲はデビューシングル「トップ・シークレット・マン」のB面に収録されていた「デリシャス」である。

こんな事実だったかどうかもまったくもって定かではない、というかそんなことは実は一切無かったのではないか、という気分にもはや傾いてきている印象がきっかけで、それでも実際にその後、私はプラスチックスのレコードを買い、中学校の教室の机や自室のテープカッターなどにバンドのロゴを落書きする程度にはのめり込んでいくのであった。

YMOことイエロー・マジック・オーケストラがいつの間にか社会現象的なブームになっていて、旭川でも友人の何名かはレコードを持っていたので、いまさら買う気にはなかなかなれなかった。そして、中学校の男子トイレで用を足していると隣に頭髪をチックと呼ばれる固形整髪料で固めたツッパリ系の男子がいて、イエロー・マジック・オーケストラ「ライディーン」のメロディーを口ずさんでいる事態に直面して、このブームの強固さを思い知ったのであった。

そこで、P-MODEL、ヒカシューと共にテクノ御三家とされていたプラスチックスを聴くという行為は、地方都市のさえない公立中学校男子としてはなんとなく理にかなっているようにも思えた。ちなみにYMOはこの年の6月2日に、フジテレビ系の人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」に初出演し、「テクノポリス」「ライディーン」を演奏したのだが、これによってテクノブームというかYMOブームがより一般大衆化して、「テクノポリス」が発売から半年以上を経てオリコン週間シングルランキングでトップ10入りを果たすという事態にもなる。

ヒットチャートが大好きだったので、1979年の秋以降はフジテレビ系で放送されていた「ザ・ベストテン」のジェネリック的番組「ビッグベストテン」を視聴していたわけだが、同級生の大半はTBSテレビ系、というか北海道ではHBCテレビだが、「3年B組金八先生」を視聴していた。そんなわけで、田原俊彦、野村義男、近藤真彦のたのきんトリオなんていうのは知らなかったし、青春ドラマで人気の若手俳優がレコードを出すというのは井上純一の例などもあったが、それほどヒットするものでもない、というような印象がなんとなくあった。

それで、7月10日放送の「ザ・ベストテン」を見ていると田原俊彦がデビューシングル「哀愁でいと」で8位に初登場するのだが、クラスの男子たちは歌が下手だとかいろいろ言っていたけれども、私はそのポップ感覚に圧倒されていたのであった。そして、松田聖子のことはレコードデビュー前に、ニッポン放送系というか北海道ではSTVラジオで放送されていた「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」に出演していたパンチガールの一人として知っていたのだが、まさか後に大ブレイクするとは思っていなかった。

デビューシングル「裸足の季節」は資生堂の洗顔フォーム、エクボのCMソングに起用されていたが、出演していたのは松田聖子ではなく山田由紀子であった。松田聖子もオーディションを受けていたのだが、えくぼができないため出演できなかったらしい。この年の秋に山口百恵が三浦友和と結婚し、引退することが決まっていたため、芸能界や歌謡界では誰がポスト百恵になるか、というような話題がわりと盛り上がっていた。

岩崎宏美の実妹、岩崎良美がシングル「赤と黒」でデビューし、歌唱力も抜群だったため、わりと有力視されていたような気がする。また、松田聖子と同じくCBSソニーからレコードを出していた浜田朱里も、その雰囲気も含め、わりと注目されていた記憶がある。岩崎良美と松田聖子は7月3日の「ザ・ベストテン」で「今週のスポットライト」のコーナーに出演し、岩崎良美は翌々週に「涼風」で初登場を果たすのだが、松田聖子「裸足の季節」は最高11位に終わり、あと一歩のところでランクインを逃した。しかし、次のシングル「青い珊瑚礁」は大ヒットして、「ザ・ベストテン」で1位、オリコン週間シングルランキングでは最高2位を記録する。

ところで、松田聖子が「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」に出演した7月3日の時点で「青い珊瑚礁」はすでに発売されていたのだが、番組では「裸足の季節」を歌っていた。

ニューミュージックブームの陰で低迷していたフレッシュアイドル界だったが、田原俊彦と松田聖子のブレイクで勢いを取り戻したようなところがあり、他にも河合奈保子、柏原よしえ(後に柏原芳恵に改名)がこの年にデビューし、後にベストテンの常連歌手になっていく。

この頃、私は一度、東京に行ってみたくて仕方がなかったのだが、夏休みに父に連れていってもらえることになった。7月1日にイトーヨーカドー旭川店が開店したのだが、その時のセールで買ってもらったTシャツなども持っていったはずである。後楽園球場で日本ハムファイターズと西武ライオンズの試合があり、それはおそらく8月9日の土曜日だったような気がするのだが、チケットが買えたので生まれて初めて観戦することができた。

試合がはじまる前に柏原よしえがデビューシングル「No.1」を歌い、日本ハムファイターズの主軸打者であった同姓の柏原純一選手についても言及していた。柏原純一は後に阪神タイガースに移籍し、打撃コーチも務めるのだが、1999年6月12日に阪神甲子園球場で開催された読売ジャイアンツ戦において、当時、阪神タイガースに所属していた新庄剛志が槙原寛己が投じる敬遠球を打ち、サヨナラ勝利を収めた件にインスパイアをあたえたことでも知られる。

7月1日にはフジテレビ系というか、北海道ではUHBこと北海道文化放送で「THE MANZAI」が放送され、ツービート、島田紳助・松本竜介、B&B、横山やすし・西川きよし、西川のりお・よしお、ザ・ぼんち、春やすこ・けいこが出演し、私もそれを視聴していたのだが、翌日、中学校に登校すると、多くの友人がそれを話題にしていた。中には各コンビのネタで気に入ったフレーズをメモ書きしている者や、すでに皆が漫才のことを話題にしすぎてつまらない、などと逆張りをしているものさえいた。

いつの間に漫才がこんなにも流行っていたのだろうか、と少し思ったのだが、「THE MANZAI」の放送はこれがすでに3回目であり、視聴率は5月20日に放送された前回よりも約10%も上がっていたようである。

このようにテクノポップ、アイドル歌謡、漫才というようなよりライトでポップな表現を一般大衆が求めはじめたような感覚はあり、これが80年代的な気分として認識されていったような気もする。他には山下達郎「RIDE ON TIME」が本人出演のマクセルのテレビCMがきっかけでオリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録し、シティポップ的なサウンドのお茶の間化を加速させたりもしていた。最もヒットしていたのは、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」だったが。

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