スウェード「スウェード」
イギリスのインディー・ロック・バンド、スウェードのデビュー・アルバム「スウェード」は1993年3月29日にリリースされ、全英アルバム・チャート初登場1位、1週間で10万枚以上をを売り上げた。イギリスでは1984年のフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド「ウェルカム・トゥ・ザ・プレジャードーム」以来、最も速く売れたデビュー・アルバムということであった。
当時、イギリスの新人バンドがこれだけの売り上げを記録することはひじょうに稀であったのだが、この頃からブラー、レディオヘッド、パルプといったバンドが少しずつ人気を集めるようになり、翌年のブラー「パークライフ」の大ヒット、オアシスのブレイクなどによって、イギリスのインディー・ロック系の音楽を指すブリットポップは、ポピュラー音楽界の1つの大きなトレンドになっていく。
1992年の5月、六本木ウェイヴの休憩室でポンパドウルのパンを食べながら「NME」を読んでいると、スウェードというバンドのことが取り上げられていた。いまとなっては内容をよく覚えていないのだが、なかなかおもしろそうなバンドだという印象は受けた。「NME」のライバル誌的な位置づけであった「メロディー・メイカー」ではスウェードをデビュー前から表紙で大きく取り上げていた。これらの雑誌の特徴として、新しいバンドやアーティストを青田買い的に大きく持ち上げては、また次の新しい対象があらわれると手の平を返すといったところもあり、シリアスな音楽ファンからは真剣に相手にはされていないようなところがあった。
私はポピュラー音楽が大好きだとはいっても所詮はただのミーハーであり、このようなハイプに乗っかるのは大好きであった。その頃のポピュラー音楽界の状況はというと、やはり前の年の秋にリリースされたニルヴァーナ「ネヴァーマインド」が大ヒットしたのがひじょうに大きかった。ある程度の商業的な成功を目論んだサウンド・プロダクションがなされていたことは明白ではあったのだが、本来はそこまで売れるタイプの音楽ではなかった。根本的な精神はパンク・ロックでありながら、サウンドはよりラウドでヘヴィーなアメリカのインディー・バンドが一部の音楽ファンの間では人気があり、それが次のトレンドになるのではないかという予感はなんとなくあった。ソニック・ユースがメジャー・レーベルのゲフィンと契約し、最初のアルバムである「GOO」がある程度売れていたのだが、ニルヴァーナも同じレーベルと契約し、リリースされたのが「ネヴァーマインド」であった。
日本では「ロッキング・オン」がこれらの音楽のことを「殺伐系」などと命名していたのだが、「ネヴァーマインド」のレビューには「売れそな殺伐」という見出しが付いていたと記憶している。それでも扱いはそれほど大きくはなく、まさかあそこまで売れるとは想定していなかっただろう。
1991年はクリエイション・レコーズがマイ・ブラディ・ヴァレンタイン「ラヴレス」、プライマル・スクリーム「スクリーマデリカ」、ティーンエイジ・ファンクラブ「バンドワゴネスク」というオール・タイム・ベスト級のアルバムを3タイトルもリリースするなど、他にもいろいろあったはずなのだが、このニルヴァーナの想定外の大ヒットのインパクトがあまりにも強すぎて、霞んでしまうほでであった。他にはマイケル・ジャクソン、ガンズ・ン・ローゼズ、U2が大ヒットした前作に続く待望のニュー・アルバムを発表したりもしていた。
イギリスのインディー・ロック界においては、年のはじめからジーザス&メリー・チェイン「ハニーズ・デッド」、ライド「ゴーイング・ブランク・アゲイン」、シャーラタンズ「ビトウィーン・10th・アンド・11th」、キュアー「ウィッシュ」、カーターUSM「1992愛のアルバム」といったアルバムがリリースされ、売れてもいたのだが、トレンドはアメリカのラウドでヘヴィーなインディー・ロック、次のニルヴァーナを探せというようなムードがあり、「メロディー・メイカー」ではパール・ジャムなどを推し、「NME」ではスーパーチャンクを表紙にしたりしていた。
ストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズといった、いわゆるおマンチェ系(マンチェスター出身のバンドを中心に盛り上がったインディー・ロックとダンス・ミュージックとを融合した音楽のことを、一部の日本の音楽ファンの間ではこのように呼んでいた。だいたいの雰囲気を知るには、「remix」という雑誌のバックナンバーをあたるのが手っ取り早い)の流れで「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」をヒットさせたロンドンのバンド、ブラーはよりヘヴィーでラウドに路線変更したシングル「ポップシーン」」をリリースしたが、これはあまり売れなかった。
スウェードはグラム・ロックの影響を受けていて、ボーカリストにはいまのシーンには欠如しているカリスマ性があるとか、そのような紹介がされていたような気がするのだが、いまとなっては確認のしようもない。確かに1990年代のはじめぐらいにおいては、ステージ上のアーティストとフロアのオーディエンスとの垣根を取り払う方がすごいというような風潮があったような気がする。
当時は今日のようにインターネットで簡単に試聴するというような環境ももちろん無いので、実際にレコードを手に入れて買うまでは、雑誌に書かれた内容から推測するしかないわけである。スウェードのデビュー・シングル「ザ・ドラウナーズ」は1992年5月11日にリリースされるのだが、「NME」「メロディー・メイカー」両誌において「シングル・オブ・ザ・ウィーク」に選ばれていた。「NME」ではスウェードをヴァーヴ、アドラブルと並べて、ニュー・グラムなるカテゴリーのバンドとして紹介していたような気がするのだが、それはまったく定着しなかった。
渋谷のウェイヴ、シスコ、フリスコや西新宿のヴィニール、ラフ・トレード・ショップなどに行くのだが、このシングルはなかなか置いていなかった。そもそもプレス数が少なかったのではないだろうか。あれだけ「NME」「メロディー・メイカー」で取り上げられていたにもかかわらず、全英シングル・チャートの最高位は49位であった。数週間後、ついに私はラフ・トレード・ショップで「ザ・ドラウナーズ」の12インチ・シングルを見つけ、もちろんすぐに買って帰ったのであった。家に帰り、さっそくターンテーブルに載せて、プレイヤーの針を落とした。スピーカーからは期待を高めるようなドラムのリズム、続いてものすごくカッコいいギターによるイントロ、これはかなり良いのではないか。そして、ボーカルはなんだか粘っこく、最近のインディー・ロックには無かったタイプであり、おそらく好き嫌いが別れるのだろうが、私はものすごく好きであった。ある時期のデイヴィッド・ボウイを思わせるようなところがあり、また、ボーカルのスタイルや曲調はかなり異なるが、全体的な湿度のようなものがザ・スミスにも通じるような気がした。
それから何度も繰り返し聴いた。もちろんハイプにあえて踊らされるという思いも存分にあったが、それ以上の魅力がこのレコードにはあった。それはおそらく性的な感覚なのだ。どこか後ろめたさもあるような、爽快ではなく陰鬱なセックスのイメージが感じられる。それは男性が女性を一方的に支配するようなタイプのものではもちろんなく、寧ろその逆である。「ザ・ドラウナーズ」には「ポピュラーな曲に合わせて彼の部屋でキスをする」という歌詞がある。後にボーカルのブレット・アンダーソンは音楽誌のインタビューにおいて、自分はホモセクシュアルの経験がないバイセクシュアルである、というような発言をする。また、ファースト・アルバム「スウェード」のアートワークは2人の人物がキスをしているものなのだが、その性別はよく分からないものになっている。
当時、私はこの曲のビデオをリアルタイムで観てはいないと思うのだが、後に海賊版のビデオを何千円も出して買った。もちろん、YouTubeなどまだ無い時代の話である。私が曲を聴いてイメージしていたグラマラスで密室的なセックスのイメージが、パフォーマンスにおいて爆発していた。
当時、私は六本木のCDショップで契約社員として働いていたのだが、そこにはアーティストや業界関係者などもよく客として来ていた。ある日、20代ぐらいの女性からスウェードについての問い合わせを受けた。J-WAVEでかかる小洒落た音楽や後に「渋谷系」と呼ばれるようなソフトロックやネオアコ、ダンス・ミュージックなどを推しているスタッフはいたが、当時、この売り場ではイギリスのインディー・ロックにはまったく力を入れていなかった。私は国内盤の担当だったので、イギリス盤しかリリースされていないスウェードのCDシングルを仕入れる権限はまったく無かった。しかし、スウェードに興味を持ってくれたことがとてもうれしくて、個人的に自分が持っていたレコードをカセットテープに録音して持って行った。じつはその方はソニーの社員で、後にイギリスにライブを観に行って、国内盤を出すことになったと伝えてくれた。
2枚目のシングル「メタル・ミッキー」は9月14日にリリースされ、これは全英14位を記録した。日本のレコード店にもすぐに入荷して、簡単に買うことができた。前作よりもアップテンポで、グラムロック色が濃い。そして、またしても性的なムードが横溢しているような最高の曲であった。この年の夏にモリッシーがアルバム「ユア・アーセナル」をリリースしたのだが、それもどこかグラムロックを感じさせるもので、というかプロデューサーがデヴィッド・ボウイやイアン・ハンターとの活動で知られるミック・ロンソンだったのでおそらく確信犯なのだが、個人的にはこのタイプの音楽がかなり盛り上がっている時期であった。
この年、「ザ・ドラウナーズ」は「NME」「メロディー・メイカー」の両誌において、シングル・オブ・ジ・イヤーに選ばれた(「メタル・ミッキー」は「NME」で10位、「メロディー・メイカー」で4位であった)。
翌年、1993年2月22日にリリースされるのだが、この曲において全英チャート7位と初のトップ10入りを果たした。この曲はイギリスで最も有名な音楽賞であるブリット・アワードの授賞式でパフォーマンスされ、テレビでも放送されたようである。この音楽賞はひじょうに保守的なものとして批判を受けることもあり、「NME」はこれに対抗するブラット・アワードなるものを設立し、それが現在のNMEアワードになっている。つまり、イギリスのごく一般的な家庭が観るようなこの授賞式において、スウェードはドラッグの名前から取ったタイトルを持ち、やはりそのような内容を歌ったインディー・ロックを、ひじょうにセクシャルな身ぶりによってパフォーマンスしたのであった。
そして、3月29日にデビュー・アルバム「スウェード」がリリースされ、全英1位に輝くのである。私は当時、訳あってCDショップを退社し、コンビニエンスストアの夜勤のアルバイトで生活費を稼いでいた。夜勤明けで京王線と井の頭線を乗り継いで、渋谷の宇田川町にあったフリスコというCDショップで、このCDを買った。グラマラスなロックと美しいバラードがバランスよく収録されていて、アルバムもすぐに気に入った。川崎クラブチッタで行われた初来日公演にも行ったのを覚えている。それからこのライブハウスには行く機会がなかなか無く、次に行ったのは2015年の夏、モーニング娘。’15「Oh my wish!/スカッとMy Heart/今すぐ飛び込む勇気」のリリースイベントであった。そう、鞘師里保が「私の居場所はここですよ」と言ったあの日のことである。
「スウェード」からは1曲目に収録された「ソー・ヤング」がシングルカットされ、これは全英チャート最高22位であった。この曲はドラッグによるオーバードーズをテーマにしている。
スウェードは元々はブレッド・アンダーソンと当時の恋人であったジャスティーン・フリッシュマンによって結成された。その後、2人は別れ、ジャスティーンはブラーのデーモン・アルバーンと交際するようになった。「スウェード」に収録された曲には、当時のブレット・アンダーソンの個人的な体験も大きく反映しているといわれているようだ。
スウェードはこのデビュー・アルバムの大成功の後、アメリカ・ツアーを行い、次作の「ドッグ・マン・スター」を制作するのだが、その過程でギタリストでソングライターであったバーナード・バトラーが孤立し、バンドを脱退することになった。
スウェードのディスコグラフィーにおいては、「ドッグ・マン・スター」を最高傑作と評価されることが多く、また、商業的にはメンバー・チェンジ後の「カミング・アップ」が最も成功したともいえるであろう。
しかし、デビュー・アルバムである「スウェード」には、若さゆえの危うさや脆さも感じられ、ひじょうに魅力的だと思うのである。ブレット・アンダーソンは性的に充足されていない状態でこそ良い作品ができるというような発言もしているのだが、このアルバムの本質というのはそのような部分なのかもしれない。
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