ニルヴァーナ「ネヴァーマインド」について。

ニルヴァーナの2作目のアルバム「ネヴァーマインド」は1991年9月24日に発売されたということなので、2021年で30周年ということになる。「ネヴァーマインド」が発売される30年前は1961年で、ビートルズがレコードデビューを果たすのはその翌年である。「ネヴァーマインド」が発売されてからまだそれほど経っていない時期に渋谷のセンター街のHMVで買って、携帯CDプレイヤー、ディスクマンで聴きながらバスで六本木に向かった。六本木WAVEで仕事があったからである。

HMVはイギリスの歴史あるレコード店チェーンだったが、1990年11月16日に日本における第1号店である渋谷店をオープンさせた。現在はドン・キホーテが入っている建物の1階の一部と地階であった。この約2ヶ月前にあたる9月22日には新宿のマルイシティ地階に、やはりイギリスで創業されたヴァージン・メガストアの日本第1号店がオープンしていた。海外資本のレコード店といえば、それまで渋谷の宇田川町や横浜にタワーレコードがあったのだが、あくまでアメリカ盤中心という印象が強く、イギリス盤などを求めるとすれば、六本木WAVEまで足を伸ばす音楽ファンが多かったように思える(より小規模なジャンルに特化した専門店ならば他にもあったような気もするのだが)。「外資系CDショップ」という言葉が使われるようになったのも、HMV、ヴァージン・メガストアの日本進出以降だったのではないだろうか。

イギリスでは80年代の後半にハウス・ミュージックが盛り上がり、スマート・ドラッグと呼ばれるものと共にレイヴ・パーティーなるものが流行っている、というようなことを日本の音楽雑誌などで読んでいた。やがて、インディー・ロックとハウス・ミュージックとを融合したような音楽が流行りはじめ、それらのメッカはマンチェスターにあるハシエンダと呼ばれるクラブだったことから、マッドチェスター-・ムーヴメント、日本では一部でおマンチェなどとも呼ばれるようになる。マッドチェスター御三家といえば、ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツだったわけだが、他の地域出身のバンドたちもこぞってダンス・ミュージックの要素を取り入れたインディー・ロックをやっていた。「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」でブレイクしたブラーなども当時はこういったムーヴメントに便乗して出てきた印象が強く、どうせすぐ消えるのだろうなと思っていた者は私を含め少なくはなかったようだ。

ダンス・ミュージックを取り入れたインディー・ロックという点ではジーザス・ジョーンズの「ダウト」がボーカリストのマイク・エドワーズが美青年だったこともあり、日本でもひじょうに人気があった。シングル・カットされた「ライト・ヒア、ライト・ナウ」はこの年の夏、アメリカではシングル・チャートの最高2位を記録した。同じ頃にはやはりダンス・ミュージックの要素を取り入れたインディー・ロック・バンドでアイドル的な人気もあったEMFの「アンビリーヴァブル」が全米シングル・チャートで1位に輝いたりもしている。

ダンス・ミュージックもハウスからいろいろ派生していって、ブリープとかアンビエントとかハードコアとかいろいろあった。イエロー・マジック・オーケストラやクラフトワークの時代以降、半ば死語化していたような印象もあるテクノという言葉が再び第一線に復活してきたのも、この頃だったような気がする。クラフトワークのリミックス・アルバムが発売され、売れたりもしていた。この年の初めの方には808ステイトやThe KLFなどのCDを六本木WAVEで買っていた記憶もあり、その時に寄った青山ブックセンターではイギリスの雑誌「THE FACE」の表紙がアニメ「ザ・シンプソンズ」のホーマー・シンプソンだった。電気グルーヴがメジャー・デビューしたのもこの年であり、アルバム「FLASH PAPA」はしっかりマンチェスターでレコーディングされていた。GO-BANG’Sの「Bye-Bye-Bye」は素晴らしい失恋ソングのクラシックだが、収録アルバム「SAMANTHA」のミックスダウンがマンチェスターで行われていたことについては、フリッパーズ・ギター「GROOVE TUBE」のメンバー自身による解説内でもイジられていた記憶がある。

「GROOVE TUBE」を収録したフリッパーズ・ギターのアルバム「ヘッド博士の世界塔」は7月10日に発売され、これも30周年だったわけだが、ネオ・アコースティック的な音楽性からダンス・ビートやサンプリングを取り入れたものにあまりにも変わりすぎたという意見もあったものの、この流れはイギリスのインディー・ロックの動きとも同期するしていたわけで、そういった文脈で聴いていたリスナーにはそれほど違和感がなかった。この「ヘッド博士の世界塔」でも参照されているといわれるプライマル・スクリームはアンビエント・テクノのジ・オーブとコラボレートした「ハイヤー・ザン・ザ・サン」という素晴らしいシングルをリリースするのだが、これがダンス・ミュージックの要素を取り入れたインディー・ロックの1つの到達点だったような気がしないでもない。

一方で、80年代後半のアメリカではノイジーなインディー・ロック・バンドに勢いがあるというような話をやはり音楽雑誌で読んだりはしていたのだが、あくまでアンダーグラウンドなシーンでの話という感じで、ヒット・チャートに影響を及ぼすほどではなかった。とはいえ、その界隈におけるカリスマ的なバンドだというソニック・ユースがメジャーのゲフィンと契約し、1990年にリリースした「GOO」をそこそこ成功させたことは話題になっていて、このシーンは今後ますます盛り上がっていくのだろうなという感じはあった。ちなみに、ソニック・ユースの「GOO」が全米アルバム・チャートで記録した最高位は96位であり、それほど大ヒットという感じではないのだが、それでもこの時点におけるソニック・ユースにとっての過去最高であり、こういったタイプの音楽としてはこれでも成功と見なされていたということなのだろうか。

このジャンルではダイナソーJr.とピクシーズがフロントマンのキャラクターが立っていたこともあり、日本の音楽雑誌でもよく取り上げられていた印象がある。この年、ダイナソーJr.は「グリーン・マインド」、ピクシーズは「世界を騙せ」とそれぞれニュー・アルバムをリリースし、話題にもなっていた。ダイナソーJr.は轟音ギターが印象的ではあるのだが、メロディーがポップでボーカルが脱力系という妙味が素晴らしく、先日は「SPIITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記」でも特集が組まれていた。ピクシーズはこのアルバムでさらにラウドでヘヴィーなサウンドを打ち出し、先行シングルの「プラネット・オブ・サウンド」にもそれはよく表れていた。

ちなみに私が中高生だった80年代前半には、パンク/ニュー・ウェイヴ系とハード・ロック/ヘヴィー・メタル系は仲良くしてはいけないという風潮がなんとなくあり、表面上はそれに準じていたのだが、実際にはスターリンとアースシェイカーのコピーバンドを掛け持ちしている友人がいたりもして、それほど厳密ではなかったと思われる。とはいえ、なんとなくモテそうというのが主な理由でパンク/ニュー・ウェイヴ派だった私は、ハード・ロック/ヘヴィー・メタルをなんとなく毛嫌いして、聴いたり好きになったりしないようにしていた。ところがこの頃、パンク/ニュー・ウェイヴ的な精神性のバンドもラウドでヘヴィーな音楽をやるようになっていて、サウンド的にはその辺りに偏見がなくなってきていた。

80年代後半に個人的に最も熱心に聴いていたのはパブリック・エナミーやデ・ラ・ソウルなどのヒップホップなのだが、その聴き方というのも、最新型のポップ・ミュージックとしてだったり、パンク/ニュー・ウェイヴ的な価値観においてだったような気がする。それで、スラッシュ・メタルのアンスラックスがチャックDをフィーチャーしてパブリック・エナミーの「ブリング・ザ・ノイズ」をカバーするのだが、このバージョンなどはかなり気に入って聴いていた。そして、気がつけばメタリカのニュー・アルバムまで買って、聴きまくっているという、自分でも信じがたい状況になっていた。

当時、「クロスビート」という雑誌にアメリカのカレッジ・ラジオのデータを元にしたというCMJチャートというのが載っていて、刺激を求めてこれを参考にCDを買ったりもしていた。あとは「remix」という雑誌がイギリスのインディー・ロックなどを「ロッキング・オン」や「ミュージック・マガジン」とはまったく異なったスタンスというか、「NME」や「メロディー・メイカー」により近いかたちで取り上げているように思え、これもかなり参考にしていた。チャプターハウス「パール」などは、この雑誌のチャートで1位に選ばれているのを見て、買ったような気がする。

金曜の深夜にフジテレビ系で放送されていた「BEAT UK」も個人的にはひじょうに重要であった。セイント・エティエンヌ「ナッシング・キャン・ストップ・アス」、エレクトロニック「ゲット・ザ・メッセージ」、フランキー・ナックルズ「ホイッスル・ソング」など、この番組で初めて聴いて好きになった曲も少なくはない。あとは、クリスタル・ウォーターズ「ジプシー・ウーマン」、カラー・ミー・バッド「アイ・ワナ・セックス・ユー・アップ」などがとにかくヒットしていた印象がある。

この年、アーノルド・シュワルツェネッガーが主演した映画「ターミネーター2」が話題になっていて、当時はチケットも売っていた六本木WAVEのモニターでも予告編的な映像がよく流れていた。ガンズ・アンド・ローゼズの「ユー・クッド・ビー・マイン」が主題歌に使われていて、待望のニュー・アルバム「ユーズ・ユア・イリュージョン」もⅠとⅡの2タイトルが9月17日に発売された。他にも年末にかけては、マイケル・ジャクソン「デンジャラス」やU2「アクトン・ベイビー」といった大物アーティストによるニュー・アルバムが予定されていて、クリスマス・シーズンの全米アルバム・チャート上位をこれらが賑わすことが予想されていた。

それで、ガンズ・アンド・ローゼズ「ユーズ・ユア・イリュージョン」の翌週に発売されたのが、ニルヴァーナの「ネヴァーマインド」なのだが、各音楽誌でも扱いはそれほど大きくもなかったものの、話題のニュー・アルバムとして紹介されてはいた。ソニック・ユースと同じく、アメリカのアンダーグラウンドなシーンの出身で、ソニック・ユースと同じゲフィン系のメジャーレーベルと契約して初めてのアルバムとして、そこそこ注目されてもいたとは思う。しかし、当時の感覚として、このジャンルにおいてもソニック・ユースはもちろん、ピクシーズ、ダイナソーJr、マッドハニーなどと比べても格下感はなんとなくあったのではないかというような気はする。

「ロッキング・オン」では当時、こういったタイプの音楽のことを「殺伐系」などとも呼んでいて、「ネヴァーマインド」のアルバム・レヴューに付けられた見出しが「売れそな殺伐」だったような気がする。確かに「ネヴァーマインド」のサウンドはラウドでヘヴィーではあるものの、整理されていて聴きやすく、それがあれほど売れた理由の一つだったような気はする。この聴きやすいサウンドは意図されたものであり、完成した当時はバンドも気に入っていたようなのだが、後にあまりにも売れすぎたことにより、生々しさが足りないのではないかというような気分にもなって、次作の「イン・ユーテロ」にも影響していったと思われる。

「ネヴァーマインド」は確かに売れそうではあったのだが、こんなに売れるとは誰も予測していなかったというのが正直なところであろう。当時、話題の新作の一つとして「ネヴァーマインド」を買っていた私の感想というのは、やはりとても聴くやすいしメロディーが良いな、というものであった。特に「リチウム」などにそれを感じたりしていた。同じぐらいの時期にレッド・ホット・チリ・ペッパーズの「ブラッド・シュガー・セックス・マジック」も買ってよく聴いていたのだが、HMVで店員の女性が先行シングル「ギヴ・イット・アウェイ」に合わせて体を揺らしながら、気怠そうに品出しをしている感じがとても良かった。

私が当時、個人的に付けていたお気に入りの曲トップ40では、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ「ギヴ・イット・アウェイ」が1位で、ニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が2位という週が長らく続いていた。「ギヴ・イット・アウェイ」はファンク的な要素があるのと比較して、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」にはインパクトはあるものの、あくまでロックでしかないという、いま思うとまったくもって的外れかつしょうもない理由によってであった。

全米アルバム・チャートを毎週追っていると、「ネヴァーマインド」の順位がおもしろいようにどんどん上がっていった。私は特にニルヴァーナの熱心なファンではなかったし、「ネヴァーマインド」以前の曲を聴いたこともなかった。それでも「ネヴァーマインド」のようなアルバムがチャートの順位を上げていく様を見るのは痛快であり、一方でなぜこのようなことが起こっているのかよく分かってはいなかったのも事実ではある。

音楽的にはもしかするとヘヴィー・メタルのファンまでをも取り込みかねない要素がありながら、アティテュードとしてはあくまでインディー・ロック的というところが幅広い層に受けた理由の一つではあるような気もするのだが、それだけではおそらくここまで大ヒットしたことの説明にはならない。なんだかよく分からないところも多々あるのだが、いろいろな要因が重なって、このようなことになったのだろうとは思う。

「ネヴァーマインド」に収録された曲の多くには、カート・コバーンが恋人のトビ・ヴェイルと別れた頃のネガティヴな感情が反映しているともいえる。トビ・ヴェイルはライオット・ガール・シーンを象徴するフェミニスト・パンク・バンドのメンバーであり、ボーカリストのキャスリーン・ハンナは共通の友人でもあった。キャスリーン・ハンナが酔っていた時にふざけてカート・コバーンの部屋の壁に落書きした「カート・スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」というタイトルが、「ネヴァーマインド」の1曲目に収録され、先行シングルとしてもリリースされた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のタイトルの由来だとされている。

どこかパンク・スピリットのようなものを感じたりするこのフレーズに良さを感じて、カート・コバーンはこれをタイトルに引用したのだが、キャスリーン・ハンナにはそのような意図はなかった。「ティーン・スピリット」とはアメリカの女子の間でポピュラーなデオドランドであり、日本でいうところのエイトフォーのようなものだろうか。友人であり同じバンドのメンバーでもあったキャスリーン・ハンナはトビ・ヴェイルがティーン・スピリットを使っていることを知っていた。それで、トビ・ヴェイルと付き合っているカート・コバーンもまた同じ匂いがするという意味で、「カート・スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」と落書きをしたようだ。

「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のビデオは高校の体育館でのバンド演奏をイメージし、多くのエキストラをあつめて撮影された。エキストラたちはひじょうに長い間、待たされたりするなどで不満が溜まっていたらしく、暴動的なシーンはエキストラたちのリアルな解放感を記録したものとなったようだ。チアリーダーなども出演しているのだが、全体的にダークなトーンで統一されていて、まるで陽気なアメリカン・ハイスクール・ライフを描きがちなそれまでのポップ・カルチャーに対するアンチテーゼのようでもあった。

この曲は全米シングル・チャートで最高6位のヒットを記録し、サウンドは重くてもメロディーはポップでもあるわけだが、コーラス部分の歌詞が「ハロー、ハロー、ハロー、どれぐらいロウ?」、最後が「否定」を意味する「denaial」という単語を絶叫で繰り返しと、明らかに暗い内容を歌っていた。しかし、これが時代の空気感にハマったのだろうか。

日本ではバブル景気が終わったことになっていたとはいえ、一般大衆にはまだそれが実感されてはいなかった。小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」、CHAGE & ASKA「SAY YES」、槇原敬之「どんなときも。」といったトレンディーな曲がヒットした。バレンタインデーの少し前、調布パルコの特設売場に客はいなく、疲れ果てた男子大学生風のアルバイトがラジカセでKANの「愛は勝つ」を流していた。テレビの報道番組は湾岸戦争の様子を伝え、マッシヴ・アタックはアタックという単語が戦争を連想させるからと、一時的にマッシヴのアーティスト名で作品をリリースした。夏にはカルピスウォーターがとにかく売れまくっていて、六本木WAVEの裏にあった公園の自動販売機では何ブースをも使っていたにもかかわらず、いつも売り切れていたような気がする。マクドナルドはマックチャイという中華弁当の販売を開始し、山田邦子をCMに起用したが、これはあまり流行らずに知らないうちになくなっていた。

そして新しい年が明け、1992年1月11日付の全米アルバム・チャートでは、「ネヴァーマインド」はマイケル・ジャクソンの「デンジャラス」を抜いて、ついに1位に輝いたのだった。ニルヴァーナが売れただけではなくて、アメリカのオルタナティヴ・ロックそのものが注目をあつめ、次のニルヴァーナを探すような動きも出てきた。六本木WAVEには土地柄もあって、外国人の客も少なくはなかったのだが、この頃から「パージャン」と聴こえるアーティストの問い合わせをよく受けるようになる。調べてもよく分からないまま時は過ぎていったのだが、少し経ってあれはパール・ジャムというバンド名をネイティヴが発音するとあのように聴こえるのだと理解した。

ニルヴァーナのようなタイプの音楽のことをグランジ・ロックと呼ぶらしく、それはあっという間に広がっていった。オルタナティヴ・ロックはすっかりメインストリーム化していき、後戻りすることはもはや無かった。「ネヴァーマインド」が歴史を変えたアルバムと呼ばれるゆえんだが、しかもその楽曲のクオリティーが約30年後の今日においても色褪せず、新しい世代にも影響をあたえたり支持されたりし続けているというのがまたすごい。

カート・コバーンが若くして命を絶ったことを、1994年4月の午後に渋谷ロフト店内にあったWAVEで、「ネヴァーマインド」のシングル・カットされていないある1曲がかかった少し後で知った。新曲でもないのに何だろうと思って、かけているCDのジャケットを映し出すモニターを見ると、「カート・コバーン自殺」と書かれていた。特に驚きはしなかったのだが、ポップ・ミュージックにおける伝説というのは自分たちの時代にはもう起こらないと思っていたのが、もしかするとこれがそうなるのかもしれない、と感じたりはした。

「ネヴァーマインド」といえば水中で赤ちゃんが釣り針に取り付けた1ドル紙幣に向かって泳いでいるジャケットも印象的だが、あのモデルとなった赤ちゃんももちろん成長して大人になっている。「ネヴァーマインド」発売25周年の年には記念の写真を撮って公開していたが、30周年を前にしてあれは児童ポルノにあたり、性的搾取であるとバンドを提訴したのであった。いまのところ、この動きに対する反応はわりと冷ややかなようなのだが、場合によってはあのジャケットがもう使えなくなる可能性もあるのだろうか。

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