クイーン「地獄へ道づれ」について。
1980年10月4日付の全米シングル・チャートでは、クイーン「地獄へ道づれ」がダイアナ・ロス「アップサイド・ダウン」に替わって1位に輝いていた。日本では日本武道館での山口百恵の引退コンサートを翌日に控え、その週の「ザ・ベストテン」では松田聖子が夏にリリースしたシングル「青い珊瑚礁」がまだ1位だった。「オリコン全国ヒット速報」にはビルボードではなくレコード・ワールドという業界誌の全米チャートが掲載されていたのだが、それでも「地獄に道づれ」はこの週だったかどうかは定かではないが1位になっていたと思う。ビルボードは日本では「ミュージック・ラボ」という業界誌と提携していて、付録として付いていたチャートの紙が旭川のミュージックショップ国原ではコルクボードに画びょう(関西では押しピン)で設置され、客が自由に持ち帰ることができるようになっていた。
クイーンというと当時、日本でもすでに人気はひじょうにあって、NHKでライブの映像が放送されたりもしていた。「タモリ倶楽部」で「空耳アワー」がはじまるかなり以前から同様のコンセプトでやっていたラジオ関東(現在のアール・エフラジオ日本)「全米トップ40」の名物コーナー「坂井隆夫のジョークボックス」では、「キラー・クイーン」の「Gunpowder, gelatine」という歌詞のところが「がんばれタブチ」とも聴こえることが話題になっていた。「タブチ」とは1979年に阪神タイガースから西武ライオンズに移籍した田淵幸一選手のことであり、当時、いしいひさいちによるギャグマンガ「がんばれ!!タブチくん!!」がアニメ映画化されるほどのヒットを記録した。
「ボヘミアン・ラプソディー」「伝説のチャンピオン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」といった、どこかアンセミックな楽曲の印象が強かったクイーンにしては、この「地獄に道づれ」というのはディスコ・ソング的な要素もあって、どうも様子が違っているなという感じがした。この曲が収録されたアルバム「ザ・ゲーム」からは少し前に「愛という名の欲望」がヒットしていたが、これもロカビリー的な軽快な感じで、あまりクイーンらしくはないのではないかと感じていた。しかし、これがアメリカにおいてはシングル・チャートで初の1位を記録したのであった。イギリスではこれ以前に「ボヘミアン・ラプソディー」が1位、「キラー・クイーン」「伝説のチャンピオン/ウィ・ウィル・ロック・ユー」が2位などヒット曲が多かったが、アメリカでは「ボヘミアン・ラプソディー」が9位で「伝説のチャンピオン/ウィ・ウィル・ロック・ユー」が4位で、それ以外にトップ10以内に入った曲はなかった。
「愛という名の欲望」はイギリスではドクター・フック「すてきな娘に出会ったら」に阻まれて最高2位に終わっているので、4週連続で1位を記録したアメリカでの方がヒットしたということになる。これが「地獄へ道づれ」になるとアメリカでは1位だったのに対し、イギリスでは最高7位とさらに差が開いていく。ちなみに「地獄へ道づれ」が7位を記録した週の全英シングル・チャートで1位だったのはポリス「高校教師」で、以下、ランディ・クロフォード、スティーヴィー・ワンダー、ケリー・マリー、マッドネス、エルヴィス・プレスリーと続いていく。
クイーンはメンバー全員が作詞・作曲をするバンドだが、「地獄へ道づれ」をつくったのはベーシストのジョン・ディーコンであった。「ザ・ゲーム」のアルバムでは他に「夜の天使」をつくっていたし、過去には「マイ・ベスト・フレンド」をヒットさせていた。「地獄へ道づれ」といえばなんといってもあのベースラインが特徴的であり、現在では関西テレビのバラエティー番組「千原ジュニアの座王」で芸人がモノボケの用意をする際のBGMとしても使われている(歴代50回の座生に輝き、モノボケでは無敗だった笑い飯の西田幸治が先日、トム・ブラウンの布川ひろきに初の敗北を喫した)。
また、松本人志が90年代に「ダウンタウンのごっつええ感じ」でやっていた「MR.BATER」というコントがあるのだが、喫茶店の回における「これキリマンジャロやなくてちりめんじゃこやん」というくだりで、「ちりめんじゃこやん」というフレーズをこのベースラインのメロディーに乗せて歌っている。
シックがこの前の年に全米シングル・チャートで1位を記録した「グッド・タイムス」からの影響は明白である。この曲のベースラインは当時、まだローカルなサブ・カルチャーに過ぎないという印象であったラップのバックトラックとして使われることも多く、シュガーヒル・ギャング「ラッパーズ・ディライト」が無断で使用したままヒットして、後に著作権をめぐって揉めたりもしていた。シックのバーナード・エドワーズによると、ジョン・ディーコンはシックのレコーディング現場を見学に来ることもあり、その時に曲の着想を得たのではないかともいわれている。
70年代後半はディスコ・ブームであり、ロック系のアーティスト達がディスコ・サウンドを取り入れるケースも少なくはなかった。代表的な例としてはローリング・ストーンズ「ミス・ユー」やロッド・スチュワート「アイム・セクシー」などが挙げられるのだろうが、当時、小学生で「マギー・メイ」も「セイリング」も聴いたことがなかった私はロッド・スチュワートをディスコ・シンガーだとばかり思っていた。「アイム・セクシー」を収録したアルバム「スーパースターはブロンドがお好き」のジャケットなどまさにそんな感じだったのだが、このタイトルはおそらくマリリン・モンローが出演した映画「紳士は金髪がお好き」のパロディーだと思われるものの、当時、北海道の足寄町出身であることを強調していた松山千春がラジオで「スーパースターは足寄がお好き」というコーナーをやっていた。
キッスの「ラビン・ユー・ベイビー」などは少し前に「Spitz 草野マサムネのロック大陸漫遊記」の「ディスコビートのロックで漫遊記」の回でもかかっていたが、旭川市立光陽中学校で優等生だったS君までもがシングルを買っていたのが印象的である。
「地獄へ道づれ」もこのようなブームに乗っかったものかと思いきや、当初はシングル・カットするつもりすらなかったらしい。フレディ・マーキュリーはこの曲を気に入っていたようなのだが、ドラマーのロジャー・テイラーはディスコ的なビートやサウンドを要求されたことにかなりの難色を示していたという。ところがそれまでクイーンのレコードとは無縁であった、ソウル・ミュージックやディスコ・ソングなどをかけがちなラジオ局が「ザ・ゲーム」から「地獄へ道づれ」をかけはじめたのだという。クイーンの音楽の受け方としては、それまでにないパターンだったらしいのだが、それに加えて、クイーンのファンでライブを見に来ていたマイケル・ジャクソンがこの曲をシングル・カットするべきだと熱烈にアドバイスをしたということもあったらしい。
それでシングル・カットされた「地獄へ道づれ」は全米シングル・チャートでクイーンにとって2曲目となる1位に輝いたのみならず、ディスコ・チャートとソウル・チャートでも最高2位を記録するというクロスオーバー・ヒットとなったのであった。
この曲のシングル・カットを薦めたマイケル・ジャクソンはクイーンのファンであるばかりか、フレディ・マーキュリーと一緒に音楽をつくってもいたというのだが、すべては未発表のままとなっている。マイケル・ジャクソンはこの翌々年にリリースしたアルバム「スリラー」がモンスター級のメガヒットを記録するのだが、「今夜はビート・イット」に至っては、アル・ヤンコビックによるパロディー・ソング「今夜もEAT IT」までヒットしていた。他にもマドンナやニルヴァーナなどのパロディー・ソングもリリースしていたアル・ヤンコヴィックだが、1981年には「地獄に道づれ」のパロディーで「遅刻へ道づれ」というのも出していたようだ。原題は「Another One Bites The Dust」に対して「Another One Rides The Bus」である。
また、1982年に公開された映画「ロッキー3」では制作段階ににおいて「地獄へ道づれ」が使われていたということなのだが、許諾を取っていなかったため、監督・脚本・主演のシルヴェスター・スタローンが別のバンドに新曲を依頼し、それが大ヒットしたサバイバー「アイ・オブ・ザ・タイガー」になった。
この時点に限っていえば、クイーンのレコードはイギリスよりもアメリカでの方がヒットしていたのだが、翌年に「グレイテスト・ヒッツ」からの先行シングルとしてリリースされたデヴィッド・ボウイとの「アンダー・プレッシャー」はイギリスでは1位になったがアメリカでは最高22位、音楽性が大きく変わったアルバム「ホット・スペース」から「ボディ・ランゲージ」はイギリスで25位に対しアメリカでは11位とよりヒットしたわけだが、それ以降は1991年に「ボヘミアン・ラプソディー」がリバイバルで2位まで上がったのを除いて1984年の「RADIO GA GA」で記録した16位が最高である。一方、イギリスでは16年ぶりに再び1位に輝いた「ボヘミアン・ラプソディー」を除いても、11曲がトップ10以内にランクインしている。