オアシス「オアシス」について。

1994年の初め、「NME」の表紙はエラスティカで、その年にはNWONW(ニュー・ウェイヴ・オブ・ニュー・ウェイヴ)が流行るとされていた。エラスティカは前の年にリリースされたシングル「スタッター」がひじょうに好評だったのと、中心メンバーのジャスティン・フリッシュマンがスウェードの元メンバーでありブレット・アンダーソンと付き合っていたが、別れて脱退した後、ブラーのデーモン・アルバーンのパートナーであることも話題になっていた。

イギリスのインディー・レーベル、クリエイション・レコーズは90年代のポップ・ミュージック界において、すでに歴史に名を残すレベルの名盤をいくつもリリースしていた。特にすごかったのが1991年であり、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン「ラヴレス」、プライマル・スクリーム「スクリーマデリカ」、ティーン・エイジファンクラブ「バンドワゴネスク」といった優れた作品を矢継ぎ早に世に送り出していた。

「NME」の1994年2月12月号には、クリエイション・レコーズのアーティストによる楽曲を収録したカセットテープが付録として付いていた。「The Mutha Of Creation」というタイトルのカセットに収録されていたのはA面にブー・ラドリーズ、ティーン・エイジファンクラブ、オアシス、B面にシュガー、ライドであった。ブー・ラドリーズはこの前の年にリリースされたアルバム「ジャイアント・ステップス」が大好評で、「NME」が発表した年間ベスト・アルバムでもビョーク「デビュー」に次ぐ2位に選出されていた。シュガーはアメリカのオルタナティヴ・ロック・バンド、ハスカー・ドゥの中心メンバーであったボブ・モールドが結成したバンドで、1992年の「NME」年間ベスト・アルバムではR.E.M.「オートマティック・フォー・ザ・ピープル」などを抑えて1位に選ばれていた。

オアシスはこの時点でまだデビュー・シングルすらリリースされていないのだが、すでに期待の新人バンドとして話題にはなっていた。とにかく曲がとても良いということであった。このカセットに収録されていたのは「シガレッツ・アンド・アルコール」のデモ・バージョンで、デビュー・アルバムに収録されたバージョンよりもT・レックス「ゲット・イット・オン」に似ていた印象がある。

4月初めの土曜日に渋谷ロフトの1階にあったWAVEの店内でカート・コバーンが自殺したことを知ったのだが、意外性はそれほどなかった。ポップ・ミュージックにおける歴史的事件としてしか知らないジミ・ヘンドリクス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンらの若くしての死のようなことが自分達の世代にもリアルタイムで起こったか、ぐらいのわりと冷めた反応ではあった。オアシスのデビュー・シングル「スーパーソニック」がリリースされたのは確かその翌週であり、やはり渋谷ロフトの1階にあったWAVEでCDシングルを買い、それから当時付き合っていた女子大学生と一緒に宇田川町のモボ・モガで食事をしていた。その間も買ったばかりの「NME」最新号のレヴューのページなどを見ている私に、彼女はわりと不満げではあった。

家に帰ってから「スーパーソニック」を聴いたのだが、なんだかニール・ヤングの「シナモン・ガール」みたいだなと思った。インディー・ロックというものはクラシック・ロックよりはパンクやニュー・ウェイヴなどにアティテュードとしては近く、メインストリームに対するオルタナティヴなのだという認識はなんとなくあったのだが、オアシスの場合、スピリットとしてはパンク的なところもあるのだろうが、音楽としてはクラシック・ロックを参照としてもいるようだった。だとしても、わりと好意的には受け止めていた。

1991年秋にリリースされたニルヴァーナ「ネヴァーマインド」をきっかけに、オルタナティヴ・ロックがメインストリーム化し、ラウドでヘヴィーなサウンドに乗せて陰鬱なことを歌いがちなグランジ・ロックがトレンドにもなっていた。そういった意味では、オアシスのポジティヴィティーに満ちたロックこそがメインストリームに対するオルタナティヴだったのかもしれない。カート・コバーンが自らの命を絶った数日後にアオシスのデビュー・シングルが発売されたことは偶然なのだが、なんだかとても示唆的であるようにも感じられる。

その後、オアシスはボーカリスト、リアム・ギャラガーのクールなカリスマ性やインタビューにおける兄、リアムとの喧嘩が話題になったりもする。その後、「シェイカーメイカー」「リヴ・フォーエヴァー」とシングルをリリースする毎に、チャートでの最高位は上がっていった。特に初のトップ10入りを果たした「リヴ・フォーエヴァー」などはタイトルからしてポジティヴィティー全開であり、それ自体がニルヴァーナの「I Hate Myself and Want To Die」、つまり、自分のことが嫌いで死にたいというような曲名が象徴するグランジ・ロック的なメンタリティーに対するアンチテーゼのようにも感じられた。

そして、8月29日にこれらのシングルをすべて収録したアルバム「オアシス」(原題:Definitely Maybe)はリリースされた。私はこのアルバムを西新宿にあったラフ・トレード・ショップで、マニック・ストリート・プリーチャーズ「ホーリー・バイブル」と一緒に買ったはずである。アナログレコードは2枚組で、CDよりも1曲多かった。日本盤のCDにはまた別の曲も入っていて曲数が多かったようだが、個人的に当時はイギリス盤を買う以外の選択肢が考えられなかったので、これについてはよく知らずにいた。たちまち大ヒットし、全英アルバム・チャートでは初登場1位を記録した。渋谷ロフトの1FにあったWAVEなどでもわりと良い場所に陳列されていて、この時点でけして旬ではなかったインディー・ロックのアルバムにしては、カジュアルな若者達にも注目されているような印象があった。

当時、私はイギリスの雑誌を何冊も定期購読している一方で、日本語にはなるべく触れないようにするというひじょうに偏った日常生活を意図的に送っていたのだが、普段はインディー・ロックをほとんど好意的に取り上げることがないクラブ・ミュージックやファッション系の雑誌までもがオアシスに夢中だったような印象もあり、これは音楽という枠を超え、ポップ・カルチャーとして現象化するのではないかという予感もなんとなくした。そして、ほとんどそうなったのだった。

オアシスの前身となったのは1991年に結成されたレインというバンドで、途中からリアム・ギャラガーが2代目ボーカリストとしてオーディションで加入した。その後、バンド名をオアシスに変えるのだが、これはギャラガー兄弟の子供部屋に貼られていたインスパイラル・カーペッツのツアーポスターに記載の会場の1つ、スウィンドンのオアシス・レジャー・センターから取られたのだという。当時、ノエル・ギャラガーはインスパイラル・カーペッツのローディーだったのだが、オアシスのライブを見て自分が加入してリーダーでありソングライターとして指揮を取るのはどうかと考え実行する。クリエイション・レコーズとの契約が結ばれ、アルバムのレコーディングに入るのだが、どうにも満足のいく結果が得られず、紆余曲折の末、オーウェン・モリスの手によってようやく完成したのだという。これには、オアシスと同じマンチェスター出身のインディー・ロック・バンド、元ザ・スミスのジョニー・マーとニュー・オーダーのバーナード・サムナーが結成したスーパーユニット、エレクトロニックの作品での経験が役に立ったと語られている。

「オアシス」はクラシック・ロックやシンガー・ソングライターからの影響も感じられる音楽性でもありながらアティテュードとしてはオルタナティヴであり、その上、レイヴ・カルチャーやマッドチェスター、グランジ・ロックといったトレンドを経た後ならではのダイナミズムというようなものも備えていたので、表面的にはけして目新しくはないものの、まさに最新型のポップ・ミュージックでありカルチャーとして機能したのではないかと思える。オアシスで最も優れたアルバムは何かという話題になった場合、最近では2作目の「モーニング・グローリー」が優勢という印象があり、演奏やボーカル、楽曲のクオリティーといった場合に確かにそれも納得ではあるのだが、それ以外のサムシング・エルスの要素によって、個人的にはやはり「オアシス」なのではないかという気がしている。渋谷クラブクアトロで初来日公演を見たことなどによる、思い出補正はおそらく影響しているとは思うのだが。

「オアシス」はまず1曲目の「ロックンロール・スター」からしていきなり「今夜、俺はロックンロール・スター」などと歌われているわけだが、こういったスターになりたい的な願望というのは、この少し前ならばインディー・ロック的なアティテュードとは最も相容れない価値観だったような気もする。それを何の衒いも恥ずかしげもなく堂々と歌っているのがむしろ眩しすぎるという、こいういったところはとても重要だったのではないかというような気がする。「シェイカーメイカー」は2作目のシングルとしてすでにヒットしていたのだが、コカコーラのCMソングとして70年代にヒットしたニュー・シーカーズ「愛するハーモニー」にあまりにも似ているのではないかと指摘されてもいた。この曲は日本でも1972年にリリースされ、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いたとうとても有名な曲である。後にオアシスのトリビュート・バンド、ノー・ウェイ・シスがカバーして全英シングル・チャートで最高27位を記録していた。

「シガレッツ・アンド・アルコール」は「オアシス」から最後にシングル・カットされた曲で、全英シングル・チャートでの最高位は7位とすでにアルバムに収録されていたにもかかわらず、過去最高を更新した。カップリング曲としてビートルズ「アイ・アム・ザ・ウォルラス」のカバーが収録されていたことが影響していたと思われる。レーベルはさらに次のシングルとして「スライド・ウェイ」をカットしていたようなのだが、ノエル・ギャラガーがデビュー・アルバムから5枚のシングルはさすがに多すぎだとして止めていたらしい。

オアシスといえば初のトップ10ヒット「リヴ・フォーエヴァー」、2作目のアルバム「モーニング・グローリー」からシングル・カットされ大ヒットした「ホワットエヴァー」「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」といったバラードが代表曲とされがちだが、登場時にはロックンロールの快楽主義的な価値観を復活させた点が重要なようにも思えた。それはある意味、生命の肯定のように感じられるところもあり、当時のシーンに欠如したものでもあった。そういった意味で、個人的に「オアシス」におけるわりと重要な楽曲で、当時のオアシスを象徴しているのは「シガレッツ・アンド・アルコール」なのではないかと思ったりもする。

それでこの曲の歌い出しが「Is it my imagination」であり、カタカナにすると「イズ・イット・マイ・イマジネイション」となるのだが、リアム・ギャラガーによって歌われたものをできるだけ聴こえ方に忠実に文字起こしすると、「イズィッマーイイマージネイッシヨォォォン」であり、途中の「It’s a crazy situation」も同様に「イッツァクレーイジシッチュエイッシヨォォォン」と聴こえ、狂った状況なのだなということが伝わるようになっている。「NME」の付録カセットに収録されていたバージョンに比べると、T・レックス「ゲット・イット・オン」にはそれほど似ていなくなっている。

この曲にはワーキングクラスの生活にまつわる悲哀とプライドのようなものが歌い込まれてもいて、それが実に身に染みるのだが、「ロックンロール・スター」と合わせて聴くと味わいも深まる。

「ロックンロール・スター」というのは夢に見ている概念であり、実際に自分が世間からそう認められているわけではない。まだそういった立場から、リアルな生活者として表現されているのがこのアルバムであり、次からはもうすでに実際の「ロックンロール・スター」になっていたという点において、このアルバムにはならではのリアルさがあり、そこが特に好きなところではある。

「NME」によると盛り上がる予定だったNWONW(ニュー・ウェイヴ・オブ・ニュー・ウェイヴ)は失速していき、そもそも盛り上がりつつあったイギリスのインディー・ロックはブラーの素晴らしいアルバム「パークライフ」やオアシスの登場を決定打として、ブリットポップとして盛り上がっていく。この後のオアシスはもはや社会現象化したムーヴメントの中心的存在として、音楽的な本質とは離れたところでも注目されていくようになる。

しかし、そういった騒動における位置づけやポップ・ミュージック史における価値とは無関係に、このアルバムを楽しむことができ、希望のようなものをリアルに共有することができたということは、ある意味とてもラッキーだったのかもしれない。

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