500曲で振り返る凡庸なポップソングリスナーの生涯 <第6回>

026. ハリウッド・スキャンダル/郷ひろみ(1978)

郷ひろみの28枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高13位、「ザ・ベストテン」では最高8位を記録した。出演していたテレビドラマ「ムー一族」の挿入歌として樹木希林とのデュエットで大ヒットした「林檎殺人事件」のコミカルさから一転して、ゴージャスなサウンドをバックに郷ひろみのボーカリストとしての魅力を堪能できる超名曲である。

スター同士のロマンスやスキャンダルをテーマにした楽曲で、「薬をたくさん飲んだけれども 眠っただけよまだ生きてる」などとドキッとさせられるフレーズもある。

郷ひろみといえば「男の子女の子」「花とみつばち」「よろしく哀愁」をはじめ、筒美京平楽曲のイメージが強いのだが、この曲の作曲・編曲はピンク・レディーで大ヒット曲を連発していた都倉俊一である。

郷ひろみの芸名はジャニーズ事務所に所属した後、フォーリーブスのバックダンサーとして踊っていたときに、旭川のファンからかけられた「レッツゴーひろみ」という声援に由来しているという。

027. ラブ・ステップ/越美晴(1978)

越美晴のデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高33位を記録した。後にコシミハルとしてテクノポップ的な作品を発表したり、細野晴臣とのユニット、Swing Slowを結成したりもするのだが、オーディション番組「君こそスターだ!」出身で、ニューミュージック系のシンガーソングライターとしてデビューしていた。

この曲は当時、ラジオでよく流れていたし、テレビでピアノを弾きながら歌う姿もわりと目にした記憶がある。ニューミュージック全盛で歌謡ポップス界ではベテラン勢が健在であり、新人アイドル歌手にとってはわりと受難の時代だったような気がするのだが、一方でニューミュージック系の若手女性アーティストがアイドル的な仕事をさせられるようなこともわりとあったように思える。

越美晴もNHKのアイドル番組「レッツゴーヤング」にサンデーズの一員として出演したり、スポーティーな服装でハードルを飛越させられたりもしていた。

それはそうとしてこの曲は「そうよそうよ恋なんて ひとときだけの戯れよ その時だけ楽しければそれでいい」というようなフレーズがキャッチーでありながら大人の世界を垣間見させてくれているようでもあり、ラジオで聴いているうちにすっかり気に入ってしまった。

それで、おそらく長崎屋の2階あたりにあったような気がするレコード売場でシングルを買ったはずである。旭川の長崎屋はジャンボソフトクリームが有名であり、少なくとも高校生の頃まではあったような気がするのだが、いつの間にかなくなっていた。

また、「サン、サン、サンバード、長崎屋のサンバード」というような歌詞の曲が店内でよく流れていたのだが、それを母方の祖母がずっと「長崎屋のハンバーグ」と聴き間違えていたことなども懐かしく思い出される。

028. チャンピオン/アリス(1978)

アリスの14枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングでも「ザ・ベストテン」でも1位となる大ヒットを記録した。

ニューミュージック全盛期だったのだが、アリスは特に男子に人気が高かったような気がする。中学1年ぐらいの頃にレコードコンサートといって、教室を暗くしてレコードをかけてみんなで聴くというイベントがあったのだが、上級生たちが松山千春推しの女子とアリス推しの男子とで軽く言い合いになっていたことなどが思い出される。

さらに上級生の男子たちは「美しき絆〜Hand in Hand」を合唱していた。この曲はミルクランド北海道のキャンペーンソングに起用されたようなのだが、それについてはまったく覚えていない。

それで、「チャンピオン」なのだが、若き挑戦者に敗れるボクシングのチャンピオンについて歌ったわりとドラマティックな楽曲になっている。

1977年に「冬の稲妻」がヒットして、「オールナイトニッポン」を聴いているとこの曲と共にモーリスギターのCMが流れ、「モーリス持てばスーパースターも夢じゃない」などと言っていた。

また、KKベストセラーズという出版社からワニの豆本という小さい本が出版されていて、「谷村新司の天才・秀才・ばか」というのがたくさん出版されていた。これはアリスの谷村新司が文化放送の深夜番組「セイ・ヤング」(途中からは「ペパーミントストリート 青春大通り」)でやっていたコーナーをまとめたものなのだが、中学生の頃にこれを一部の友人と回し読みするのが地味に流行った。

029. HERO(ヒーローになる時、それは今)/甲斐バンド(1978)

甲斐バンドの11枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングで1位、「ザ・ベストテン」では最高3位のヒットを記録した。1974年にシングル「バス通り」でデビューし、翌年には「裏切りの街角」がオリコン週間シングルランキングで最高7位のヒットを記録していたのだが、たとえば当時の旭川の小学生には知られていないこともあり、ニューミュージックのまた新しいグループぐらいに認識していた。

この曲はセイコーの腕時計のCMソングとして起用され、1979年の元旦になったのと同時にメンバーが出演するテレビCMが民放各局で一斉に流れた。キャッチーなコーラスと「生きるってことは一夜かぎりのワン・ナイト・ショー」「今が過去になる前に 俺たち走り出そう」というようなキラーフレーズ満載の歌詞は小学校から中学校に上がる少し前の私は周囲の友人たちの心をガッチリと掴んだ。それで、この曲のシングルもお年玉で買ったはずである。

高校を卒業し、東京で1年目の生活を送っていた1985年に「高島平のブライアン・フェリー」と勝手に呼ぶことになる人物と知り合うのだが、彼が甲斐バンドの大ファンであり、過去の楽曲なども強制的に聴かされることになった。個人的にはボブ・クリアマウンテンがミックスした「ラヴ・マイナス・ゼロ」などをわりと気に入っていたのだが、デビューアルバム「らいむらいと」に収録され、大森信和がリードボーカルでほんわかしたムードの「アップルパイ」も味があって良かった。

翌年の春、大学受験も一段落着いて、予備校で知り合った仲間たちと葛飾区か江戸川区の公園で草野球をするのだが、そのときにメンバーの1人から甲斐バンドの解散を知らされ、「高島平のブライアン・フェリー」はわりと本気で落ち込んでいた。

私が大学に入学し、小田急相模原に住みはじめ、彼が二浪目に入って少しした頃、新宿駅南口で待ち合わせ、アドホック新宿ビルの上の方の階にある洒落たバーに行った。最近はM-BANDが気に入っていると話していたのだが、それが彼と会った最後であった。私と誕生日が2日しか違わない彼は、その後、舞台俳優として活躍しているようだ。

030. 愛のデュエット/ジョン・トラボルタ&オリビア・ニュートン・ジョン(1978)

映画「サタデー・ナイト・フィーバー」でブレイクしたジョン・トラボルタと人気シンガーのオリビア・ニュートン・ジョンが共演したミュージカル映画「グリース」は欧米ではこの年の夏に公開され、サウンドトラックアルバムやシングルカットされた楽曲と共に大ヒットしたのだが、日本では12月の公開であった。

テレビでもCMスポットが流れたり、情報番組で紹介されたりしていて、そのアメリカンポップ的なムードがとても良かったのだが、結局は見にいけなかった。サウンドトラックからヒットしたうちの1曲がこの「愛のデュエット」で、アメリカやイギリスのヒットチャートでは1位に輝いたのだが、日本のオリコン週間シングルランキングでも最高25位と洋楽としてはわりとヒットした方である。

オリビア・ニュートン・ジョンは「カントリー・ロード」「ジョリーン」といったカントリーテイストの楽曲が日本でもヒットしていて、わりと清楚なイメージがあったのだが、「グリース」ではそれを打破するようなところがあり、それが受けていたのかもしれない。