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サザンオールスターズ「KAMAKURA」について。

サザンオールスターズの8作目のアルバム「KAMAKURA」がリリースされたのは、1985年9月14日であった。1978年のデビュー・アルバム「熱い胸さわぎ」から「10ナンバーズ・からっと」「タイニィ・バブルス」「ステレオ太陽族」「NUDE MAN」「綺麗」「人気者で行こう」とここまで確実に毎年1作ずつリリースしている。

1978年6月25日にリリースされたデビュー・シングル「勝手にシンドバッド」が当時の日本の流行歌としてはあまりにも奇抜すぎたため、その独特な言語感覚やボーカルスタイルからコミックバンドのように見られていなくもなかった。しかし、3作目のシングル「いとしのエリー」の大ヒットで人々の見る目は変わり、若者のハートを捉える新感覚のロック・バンドとして、「C調言葉に御用心」までのシングルを5作連続でベストテン入りさせる(そのうち、「いとしのエリー」と「C調言葉に御用心」はオリコン週間シングルランキングで最高2位まで上がった)。

1980年からは意図的にメディアへの露出を控え、音楽制作に集中するようになる。そうするとシングルのセールスは落ちていったのだが、アルバムは出せば必ず1位という状態になっていく。しかし、1982年にリリースした昭和歌謡風のシングル「チャコの海岸物語」がオリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録すると、それからはシングルもアルバムも売れるようになり、国民的人気バンドの名を欲しいままにしていった。

1983年のアルバム「綺麗」ではシンセサイザーの導入が印象的で、音楽的なクオリティーが高かったこともあり、批評家からも軒並み絶賛されるようになった。大衆からも支持されていて批評家からの評価も高いという、実に理想的な状態である。このアルバムからシングル・カットされた「EMANON」はアルバムと同日発売でジャケットのデザインもほとんど同じ、なかなかヒットしにくいタイプの曲調だったこともあって、ベストテン入りを久々に逃した。次のシングル「東京シャッフル」もである。しかし、この秋には原由子のモータウン風のソロシングル「恋は、ご多忙申し上げます」がオリコン週間シングルランキングで最高5位を記録した。

その翌年、1984年はシングル「ミス・ブランニュー・デイ」とアルバム「人気者で行こう」が共にヒットしたのだが、これらも評価はひじょうに高かった。そして、1985年なのだが、4月1日に夕方5時にフジテレビでバラエティー番組「夕やけニャンニャン」がはじまり、後にこの番組からデビューするおニャン子クラブや派生ユニットたちがヒットチャートをかき回すことになる。そして、1980年のはじめから「お笑いスター誕生!!」に出演し、番組内では人気があったお笑いコンビ、とんねるずだが「オールナイトフジ」で若者に人気が出てきて、その勢いのままこの番組への出演により、その指示を全国区に広げていく。そして、やはりヒットチャートをかき回していくのだが、いずれにも秋元康が深くかかわっていた。

サザンオールスターズは5月29日にシングル「Bye Bye My Love (U are the one)」をリリースし、これがオリコン週間シングルランキングで最高4位、TBSテレビ系の「ザ・ベストテン」では3週連続1位のヒットを記録する。実はこの前のシングルが前の年の10月21日にリリースされた「Tarako」で、歌詞が英語だったことも影響してかベストテン入りを逃がしていた。それだけにこの大ヒットは、サザンオールスターズが国民的人気バンドであることを再認識させるようでもあった。

6月15日に国立競技場で、「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」という大きなライブイベントが行われ、はっぴいえんどが再結成されたりもしていたのだが、細野晴臣によって「ニューミュージックの葬式」などといわれたりもする。確かこの番組絡みでもあったような気がするのだが、松任谷由実、小田和正、財津和夫によるシングル「今だから」がリリースされ、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いていた。この曲はオリコン週間シングルランキングで1位を記録した曲の中で唯一、CDでも配信でも聴くことができないのだという。佐野元春のシングル「Young Blood」はこのイベントのきっかけとなった国際青少年年のテーマソングでもあったため、やはり出演してライブを行ったのだが、ここに飛び入りでサザンオールスターズが登場し、「夕方Hold On Me」を共演するということもあった。

この年の大規模なライブイベントといえばこの翌月、7月13日にはアメリカとイギリスを結んで「ライヴエイド」が行われ、日本でもフジテレビが中継していた。しかし、日本のスタジオでの進行がどうやら芳しくなかったらしく、佐野元春が怒って帰るということがあったようだ。それで、「ライブエイド」に至るまでにはアフリカ難民の救済を目的としたチャリティー・シングル、バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」、USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」があった。特に「ウィ・アー・ザ・ワールド」のレコードは日本でも売れ、ビッグスターたちが競演するビデオが話題にもなった。「Bye Bye My Love (U are the one)」のサブタイトルには、これに対するアンサー的な意味合いもあるらしい。「you」を「U」と表記するのは、この前の年に「パープル・レイン」を大ヒットさせたプリンスの影響だろうか。

「国際青年年 ALL TOGETHER NOW」が開催された3日後には豊田商事の会長がマスコミが外で取材をしている中、マンション内で刺殺され、この犯人役を翌年に公開された内田裕也監督の映画「コミック雑誌なんかいらない」でビートたけしが演じた。翌週、6月24日には松田聖子と神田正輝がサレジオ教会で結婚、7月5日にはおニャン子クラブがシングル「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビューを果たす。発売前日には池袋サンシャインシティのアルパ噴水広場でイベントが予定されていたが、予想を大きく上回る人が集まりすぎたため、やむなく中止せざるをえなかった。

サザンオールスターズの新しいアルバムは当初、7月に発売されるといわれていたのだが、延期されるということであった。この年の3月から6月にかけて、テレビドラマ「ふぞろいの林檎たちⅡ」が放送されていて、番組ではサザンオールスターズの楽曲が全面的に使われていた。1994年に小沢健二は「愛し愛され生きるのさ」において、「10年前の僕らは胸をいためて『いとしのエリー』なんて聴いてた」と歌うが、その後に続くのは「ふぞろいな心は まだいまでも僕らをやるせなく悩ませるのさ」という歌詞である。

そうこうしているうちに夏は来て、やがて過ぎ去ろうとしていたのだった。サザンオールスターズのアルバムはまだ発売されていない。個人的にはこの年の春に旭川の高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめていたのだが、大学受験には失敗していたので、予備校生という立場であった。杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語」がこの年にはヒットしていたが、同じく林哲司が作曲した「デビュー~Fly Me To Love」によって、河合奈保子がオリコン週間シングルランキングで初の1位に輝いた。尾崎亜美によるシティ・ポップ歌謡的な楽曲、岡田有希子「Summer Beach」もこの夏の忘れられないヒット曲である。そして、夏の終わりといえば松本伊代「ポニーテイルは結ばない」がとても良く、収録アルバム「センチメンタル ダンス クラブ」もかなり気に入っていた。8月11日には所沢の西武ライオンズ球場にRCサクセションのライブ「Alright Now」を見に行ったのだが、仲井麗市のソロ曲「ONE NITE BLUES」がブルージーでカッコよかった。この曲を収録したアルバム「THE 仲井戸麗市 BOOK」は8月31日に発売されて、巣鴨のDISC 510こと後藤楽器店で買ったような気がする。

私が所沢でRCサクセションのライブを見た翌日、日本航空機の墜落事故があり、全米シングル・チャートの歴史上、1位に輝いた唯一のアーティスト、坂本九も命を落とした。その全米NO.1ヒット、「スキヤキ」こと「上を向いて歩こう」を、その前の夜もRCサクセションが歌っていた。そのニュースを翌日の昼間にテレビで見ていた記憶があるのは、予備校がお盆休みに入っていたからだろうか。その少し後に飛行機に乗って、少しだけ帰省した。高校の同級生でいまだに文通をしていた女子とミュージックショップ国原で待ち合わせをして、西武百貨店の2階にあったアメリカンボックスというレストランで食事をしたり、高校時代のたまり場であったガウスというジャズ喫茶に行ったりもした。それから、飛行機で東京に戻ったわけだが、母の「頑張りなよ」という言葉が耳に残っていた。

阪神タイガースはこれはもう本当に優勝してしまうのではないかというような勢いで、勝ち続けていた。優勝すれば21年ぶりということで、当時、私は18歳だったので、生まれてから初めてということになるのだろう。土曜日の夜は「オレたちひょうきん族」を見ていて、EPO「DOWN TOWN」だった(10月からは山下達郎「土曜日の恋人」に替わる)。「KAMAKURA」のレコーディング時、原由子は産休に入っていたため、コーラスでEPOやジューシィ・フルーツのイリヤが参加している。「鎌倉物語」の原由子のボーカルは、自宅でマイクを立ててレコーディングされたといわれる。

「オレたちひょうきん族」の人気によって視聴率が低迷した「8時だョ!全員集合」は、この年の9月で放送を終了することになっていた。「オレたちひょうきん族」の「タケちゃんマン」のコーナーにおいて、明石家さんまはこの当時、敵役の妖怪人間知っとるケを演じていたのだが、数あるギャグの中で女性の乳房をもむような動きをしながら「やめられまへんな」というものがあった。子供たちも見ているであろうこの番組としては、わりとギリギリなギャグでもあったわけだが、大橋荘には風呂がなかったので、土曜日は「オレたちひょうきん族」が終わったぐらいのタイミングで、近所の銭湯、草津湯に行くことが多かった。この銭湯は赤瀬川源平の「超芸術トマソン」でも取り上げられていたような気がする。草津湯の脱衣所にはテーブルタイプのゲーム機も置かれていて、コインを入れて遊べるようになっていた。風呂から上がって服を着ていると、ゲームで遊んでいた小学校低学年ぐらいの子供が「やめられまへんな」と明石家さんまのギャグを真似していていた。

ヒット曲では斉藤由貴のストロベリー・スウィッチブレイド歌謡「初戀」もかなり気に入っていたのだが、その頃にFMラジオで初めて聴いて衝撃を受けたのが、ピチカート・ファイヴというまったく知らないバンドによるデビュー・シングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」であった。同じカセットテープに、サザンオールスターズの新曲「Melody(メロディ)」もFMラジオから録音していた。当時の言葉でいうところのエアチェックである。夏の終わりというのは実に物悲しいものであり、ましてや予備校の夏休みに少し帰省してから東京に戻ってきて、マイルドにホームシックな気分もあったりはしたので、なおさらなんとなくメランコリーな気分にはなっていたような気がする。そこでこの心に沁みわたるバラードであり、しかも「いい女には forever 夏がまた来る」という救いに満ちたフレーズである。もちろん私は「いい女」などではないわけではあるが、これがひじょうに心に響いたのだった。

ところで、当時、私が住んでいたのは文京区千石にあった大橋荘というアパートであり、予備校生という立場上、贅沢はいえるはずがないのに加えて、どうせ大学に入学するまでの一年間だけと思って住んでいたのだった。家賃は確か2万6千円で、風呂はなく、壁がひじょうに薄いこともあり、夜間に友達を連れてきたりステレオを持ち込むことが禁止されていた。ポップ・ミュージック好きの私にとってはステレオが聴けないのは死活問題にも近いように思えたりもしたのだが、ラジカセの音量を絞って音楽を楽しんでいた。レコードプレイヤーだけは持ってきていたのだが、コードでラジカセとつないでもどうもうまくいかない。それで、買ったレコードは定期的に世田谷に住んでいる友人の家に持っていって、カセットテープにダビングしてもらっていた。

サザンオールスターズの新しいアルバムはどうやら2枚組らしく、タイトルは「KAMAKURA」ということである。「KAMAKURA」のテレビCMでは、明石家さんまが「Melody(メロディ)」に合わせて口パクをしていた。「Melody(メロディ)」はオリコン週間シングルランキングで最高2位、「ザ・ベストテン」では後に2週連続1位を記録することになる。おニャン子クラブからは河合その子がソロデビューして、シングル「涙の茉莉花LOVE」が9月1日にリリースされると、オリコン週間シングルランキングで初登場1位を記録した。とんねるずも「雨の西麻布」で初のトップテン入りを果たし、「ザ・ベストテン」で「Melody(メロディ)」が最後に1位だった週には、C-C-B「Lucky Chanceをもう一度」を挟んで3位で、翌週には2位にまで上がっていた。

予備校で春に近くで講義を聞いていたことから、最初に話すようになったのは、千葉県の柏というところから通っている男子だった。彼の家には泊まりに行ったりもしたのだが、とんねるずのアルバム「成増」を買って家に置いてあったのが印象的である。あまりやることもなく、近所でキャッチボールなどをした記憶もある。彼もやはりサザンオールスターズが好きで、「ふぞろいの林檎たちⅡ」のことを一緒に話したりもした。いよいよ「KAMAKURA」が発売されるのだが、お金が厳しくて買えないというので、私が買ったレコードを貸して、代わりに彼の家のステレオでカセットテープにダビングしてもらうことにした。それで、「KAMAKURA」はそのカセットテープでしか聴いていなかった。「KAMAKURA」のレコードは彼に貸したままでそのうち返してもらうことになっていたのだが、後期から予備校のクラスが変わり、話す機会があまりなくなったこともあって、結局、返してもらわなかった。おそらくずっと千葉県の柏の彼の部屋に、とんねるずの「成増」などと一緒にあったのではないかと思う。

カセットテープで聴くことができたのでまあ良かったのだが、やはりレコードでも持っていたいということになって、それから数年後の夏休みに旭川に帰省している時、マルカツデパートでやっていた中古レコード市のようなもので、サーカス「Mr.サマータイム」や岩崎良美「ごめんねDarlin’」の7インチシングルなどと一緒に買ったのだった。確か1,000円だったのではないかと思う。消費税はまだ導入されていなかった。

「KAMAKURA」はそれはもう壮絶なアルバムであった。あらゆるジャンルのポップ・ミュージックを取り入れ、咀嚼した上で、サザンオールスターズの作品以外の何ものではないものに仕上げてしまっている。しかも、当時としては最新のサウンドというか、イエロー・マジック・オーケストラのマニピュレーターでもあったという藤井丈司によるところも大きいのだろうが、めくるめくポップワールド全開という感じである。LPレコード2枚組、全20曲入りのボリュームに大満足だったわけだが、バンドとしてもこの時点においてやれることはすべてやり切ったというような感じだったのだという。原由子の産休という理由が最も大きかったとは思うのだが、バンドはこの後、活動休止期間に入り、翌年はサザンオールスターズがデビューしてから初めて新曲が発売されない年となった。とはいえ、桑田佳祐はKUWATA BANDでヒットを連発し、「スキップ・ビート(SKIPPED BEAT)」「ONE DAY」ではオリコン週間シングルランキングで1位にも輝いた。この時点でサザンオールスターズは「ザ・ベストテン」では何度も1位を記録していたものの、オリコン週間シングルランキングで記録した最高位は2位であった(初めて1位に輝くのは活動再開後、1989年にリリースした「さよならベイビー」であった)。

1枚目のA面1曲目、「Computer Children」はサウンドが当時としてはひじょうに新しく、サザンオールスターズとしても新境地を切り拓くような楽曲であった。歌詞の内容は、コンピュータに夢中になり、外で遊ばなくなった子供たちをテーマにしたようなものとなっている。任天堂がファミコンことファミリーコンピュータを発売したのは1983年7月15日だが、大ヒットした「スーパーマリオブラザーズ」のソフトは「KAMAKURA」の前日、1985年9月13日に発売されている。

「真昼の情景(このせまい野原いっぱい)」にはアフリカのポップスからの影響が感じられ、「古戦場で濡れん坊は昭和のHero」は感覚的な歌詞と複雑なリズムが特徴的な不思議な楽曲である。すでに国民的人気バンドの新作としてはかなり攻めまくった作品のように思えるが、それでいて不思議と大衆性も感じられるところがすごい。「愛する女性とのすれ違い」はいかにもサザンオールスターズらしい、切なくも共感を呼ぶラヴ・バラードなのだが、サウンドがそれまでに比べ、より電子的になっているように思える。「君だけにモテる俺さ」というフレーズなど絶妙であり、やはり桑田佳祐のラヴ・ソングというのは、それほどモテるわけではない自分という立場から書かれているところが、共感を呼びやすいのだろう。「死体置場でロマンスを」は「マチルダBABY」「メリケン情緒は涙のカラー」に続くミステリー路線で、「欲しくて欲しくてたまらない」は桑田佳祐作品によくある下ネタ的な内容でもあるのだが、音楽的にはスティーヴィー・ワンダー「可愛いアイシャ」的なところもあり、シリアスな感覚である。

「Happy Birthday」はサウンドに新しさが感じられもするが、わりと王道的なバースデー・ソングで、こういうのも普通に収録されているのがまたとても良い。そして、大ヒットシングル「Melody(メロディ)」がここに来てやっと出てくる。やはり良い曲だなと思って聴いていると、次が「吉田拓郎の唄」である。当時、引退を表明していたという吉田拓郎に対するメッセージソングだが、「お前の書いた詩は 俺を不良くさせた」と歌われているように、自らのヒーローに対する絶妙で微妙な感情が歌われているように思える。吉田拓郎が人気絶頂だった頃、私はまだ小さな子供だったのでよく知らなかったのだが、ニュー・ミュージックからシティ・ポップ、あるいはテクノやニュー・ウェイヴの時代にはフォーク的なものを敵視していたようなところがあり、吉田拓郎というアーティストが一体どれぐらいすごいのかということをよく知らずにこの曲を聴いていた。そして、こんなことを歌って大丈夫なのだろうかと思ったりもしていた。

「鎌倉物語」は原由子がメインボーカルの歌謡ポップス的なとても良い曲で、イントロには松田聖子「渚のバルコニー」あたりを思わせるようなところもある。

そして、ここからがLPでいうと2枚目なのだが、「顔」はなんだかとても実存的なことを歌っているようである。続いて大ヒットシングル「Bye Bye My Love (U are the one)」、これも当時の一般的な日本の流行歌としてはかなり異質ではあるのだが、アルバムの中ではわりとオーセンティックに聴こえたりもする。「Brown Cherry」はザ・ジャクソンズにミック・ジャガーがゲスト参加した「ステイト・オブ・ロック」を思い出したりもするのだが、歌詞は桑田佳祐らしい手の込んだ下ネタである。「Please」はAOR/シティ・ポップ的で良いなと思って聴いていると、最後にクリーム「サンシャイン・ラヴ」が出てきたりもする。「星空のビリー・ホリデイ」はしっかりとした本格的なバラードで、メロディーメーカーとしての才能を再認識させられる。

「最後の日射病」は関口和之の作詞・作曲で、メインボーカルも取っている。「綺麗」収録の「南たいへいよ音頭」でも感じたことだが、ワールド・ミュージック的というかなんだかとても不思議な魅力があり、アルバムにおいても良い感じのスパイスになっているように思える。「夕陽に別れを告げて~メリーゴーランド」は高校生の頃を回想したノスタルジックな曲で、この路線は90年代以降のサザンオールスターズの音楽性にもつながっていったのではないかというような気がする。「怪物君の空」にはポリス「シンクロニシティーⅡ」のサザンオールスターズ的な解釈のように思えなくもないところがあるような気がするが、もしかするとまったくそうではないのかもしれない。とはいえ、ポリス「シンクロニシティー」のアルバムは当時のポップ・ミュージック界において、一つの到達点のように見なされていたようなところはあり、少なくとも意識はされていたのではないかと思える。

それで、「Long-haired Lady」は大人の洒落たラヴ・ソングである。当時の特に若い男子の中には、サザンオールスターズの音楽をこのような世界への憧れも込みで聴いていたようなところもあるのではないかというような気がする。このナチュラルな感じがたまらなく良い。2枚組のラストは「悲しみはメリーゴーランド」で、「歴史が曲げた心には 隣の人が泣いている」と、外国との関係性について言及していると思われる。こういったテーマは「綺麗」に収録された「かしの樹の下で」からも連なるものであり、この曲をこのバラエティー大作のラストに置いた意味は大きいのではないかとも思える。

というわけで、いまやサザンオールスターズの全作品は定額制ストリーミングサービスでも配信されていて、アクセスすることがひじょうに簡単になってきている。いまや大御所のベテラン国民的バンドのサザンオールスターズだが、かつてはものすごく大衆的である一方で、ひじょうに実験的なことをやっていた時代もあった。このアルバムの同時代的なインパクトというのはリアルタイムであったからこそ実感できたというところもひじょうに大きく、それはいろいろな歴史的名盤と呼ばれる作品にもいえることであろう。よって、これを実際にリアルタイムで聴いていた私にはそのあたりを客観的に判断することがほぼできなくなってはいるのだが、この1つのアルバムに詰め込まれたアイデアや情報量というのは驚異的であり、それを当時、日本で最も人気があったバンドがやっていたという熱量のようなものは感じられるのではないかというような気もする。

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