クリストファー・クロス「南から来た男」【名盤レヴュー】

1981年2月25日、ニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールでは第23回グラミー賞の授賞式が開催されていたのだが、この回で話題になったのはなんといっても最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀アルバム賞、最優秀新人賞の主要4部門を受賞したクリストファー・クロスであろう。次にグラミー賞の主要4部門を受賞するアーティストが現れるのはこの39年後、2020年のビリー・アイリッシュであった。2003年にはノラ・ジョーンズのアルバム関連が主要4部門を受賞するということがあったのだが、最優秀楽曲賞はソングライターに贈呈されるため、受賞曲の「ドント・ノー・ホワイ」の作者ではないノラ・ジョーンズは受賞していない。

それはそうとして、1981年のグラミー賞において主要4部門にクリストファー・クロス以外にはどのようなアーティストや作品がノミネートされていたのかというと、最優秀レコード賞にベット・ミドラー「ローズ」、ケニー・ロジャーズ「レイディ」、フランク・シナトラ「ニューヨーク・ニューヨーク」、バーブラ・ストライザンド「ウーマン・イン・ラブ」、最優秀楽曲賞にアイリーン・キャラ「フェーム」、ベット・ミドラー「ローズ」、ケニー・ロジャース「レイディ」、フランク・シナトラ「ニューヨーク・ニューヨーク」、バーブラ・ストライザンド「ウーマン・イン・ラブ」、最優秀アルバム賞にビリー・ジョエル「グラス・ハウス」、ピンク・フロイド「ザ・ウォール」、フランク・シナトラ「トリロジー:パスト・プレゼント・フューチャー」、バーブラ・ストライザンド「ギルティ」、最優秀新人賞にエイミー・ホーランド、アイリーン・キャラ、ロビー・デュプリー、プリテンダーズという感じであった。

最優秀アルバム賞にノミネートされたピンク・フロイド「ザ・ウォール」はこの全米アルバム・チャートで年間1位、ビリー・ジョエル「グラス・ハウス」、バーブラ・ストライザンド「ギルティ」もウィークリーでは1位に輝いていたのだが、受賞したクリストファー・クロス「南から来た男」の最高位は6位であった。シングルカットされた「風立ちぬ」は全米シングル・チャートで最高2位、「セイリング」は1位に輝いていた。

当時の日本の若者達の間ではAOR的な音楽がおしゃれだとされていたのだが、クリストファー・クロス「南から来た男」もそういった流れでわりと人気があったはずである。クリストファー・クロスは新人アーティストではあったのだが、アルバムにはドゥービー・ブラザーズのマイケル・マクドナルド、イーグルスのドン・ヘンリーをはじめ、J・D・サウザー、ニコレット・ラーソン、ラリー・カールトンといった人気アーティストやミュージシャンが多数参加していた。

AORが日本の若者のトレンドだった時代については、ホイチョイプロダクションの馬場康夫が監督した1991年の映画「波の数だけ抱きしめて」などでも描写されているのだが、日本でヒットするよりも先に輸入盤で手に入れるのが通とされていたようだ。「波の数だけ抱きしめて」には輸入盤専門店だった頃のタワーレコードが登場し、そこで買ったレコードジャケットの匂いを中山美穂と松下由樹が嗅ぐというシーンもあった。輸入盤のレコードにはビニールのようなものがかかっていて、保管する際にはこれを破いて捨てる派とあえて付けっぱなしにしておく派がいたような気がする。個人的には雑誌の記事か何かの本でこのビニールを付けっぱなしにしていると、やがて収縮してレコードの盤面が反るというのを読んでからは破いて捨てるようにしていた。輸入盤レコードのジャケットには国内盤とは異なった独特な匂いがついていて、それを嗅ぐことによってアメリカを感じた気になっていた。

田中康夫は一橋大学在学中に書いた小説「なんとなく、クリスタル」で文藝賞を受賞し、それがきっかけで小説家としてデビューすることになった。執筆のきっかけとしてはサークルの資金横領事件による留年があったわけだが、卒業後はモービル石油に就職するものの、作家と会社員との両立が現実的には難しいことなどから数ヶ月で退社することになる。

「なんとなく、クリスタル」は1980年6月の東京を舞台にし、主人公の由利は神宮前四丁目のマンションに住み、すぐ近くにある「”七人の敵が居た”大学」に通っているとされている。1973年に青山学院大学で発生した教授の教え子に対する猥褻・暴行容疑は石川達三の小説「七人の敵が居た」のモデルとなっている。青山学院大学に厚木キャンパスが開設されたのは1982年であり、「なんとなく、クリスタル」の頃にはまだ教養課程から青山キャンパスだったはずである。ピチカート・ファイヴでの活動などで知られる小西康陽は1959年2月3日生まれで、1浪した後で青山学院に入学しているため、「なんとなく、クリスタル」の頃には在学中だったはずである。

すぐ近くにレコード店のパイド・パイパー・ハウスがあったのだが、大学生でミュージシャンの恋人と一緒に住み、部屋には400枚以上レコードがあったという由利もここで買っていた可能性はある。骨董通りの現在はブティックになっている場所に、1989年6月まであった。フランス語の授業に出るのをやめることにした由利は、ターンテーブルにクリストファー・クロスの「南から来た男」を載せる。フラミンゴのジャケットが特徴的なこのレコードは、恋人の淳一が1月に輸入盤屋で見つけてきたのだという。そして、「毎月十枚は輸入盤を買うというのに、六月になった今でも、ダルな時にはこのレコードをかけてしまう。聞いていると、陽気になってくるのだった」と説明されている。

また、1984年に出版された「たまらなく、アーベイン」においても「南から来た男」にふれられていて、ここでは「79年の暮にアメリカで発売と同時に、日本の輸入盤屋さんでドンスカ売れまくった代物」とされている。ちなみに、「南から来た男」はもちろんこのアルバムの邦題であり、原題は「Christopher Cross」というシンプルなものである。田中康夫の著作物においても、この「南から来た男」という邦題は出されていない。そして、輸入盤で買っていたということが強調されている。「南から来た男」は1980年のオリコン年間アルバムランキングで66位にランクインしていることからも、グラミー賞を受賞する以前に日本でも結構売れていたことが分かる。しかも、これには輸入盤で売れた分が換算されていない。

フラミンゴのイラストが印象的なアルバムジャケットにはファッション性も高く、ましてやAOR的なサウンドにハイトーンなボーカルで、人気があったのも納得というものである。当時の日本ではアメリカ西海岸の文化に対する憧れがひじょうに強く、AORブームもウェストコーストサウンドが洗練されたものとして受けていたためだと思われる。クリストファー・クロス自身はテキサス州の出身だったが、音楽性は西海岸寄りのそれであった。

個人的に「なんとなく、クリスタル」の舞台となっている1980年には旭川で中学2年であり、7月にはイトーヨーカドーができたといって喜んでいた(2021年5月に閉店)。「中二病」とは伊集院光による造語であって、症例の1つとして「洋楽を聴きはじめる」というのが挙げられている。その通り、洋楽のレコードを買いはじめたのはこの年であり、動機はなんとなくモテそうだからというものだったような気がする。洋楽についての情報も集めようとしていくわけだが、日曜の午前中にフジテレビ系で放送されていた「HOT TV」はなかなかためになる番組であった。旭川だったので、UHBテレビこと北海道文化放送で見ていたわけだが。

鈴木ヒロミツと現在はジャニーズ事務所の社長になっている藤島ジュリー景子が、司会をしていたのではなかっただろうか。勝ち抜きバンド合戦的なコーナーがあって、パンクロックのSKINやブリティッシュロック的なシャムロックなどが優勝していたような気がする。この年にはテレビ出演を意図的に控えていたサザンオールスターズの田園コロシアムでのライブ映像が流れたりしていたのも、印象に残っている。曲は確か「いなせなロコモーション」だっただろうか。そして、全米ヒットチャートを紹介するコーナーがあり、これでクリストファー・クロスのことも取り上げられていた。

「南から来た男」の涼しげでカッコいいジャケットと、流れていたのは「風立ちぬ」で、「パラララ、パッパッパッパー」というようなコーラスがひじょうに印象に残った。ピンク・フロイドの「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」が子供達に「教育はいらない」などと歌わせて放送禁止になっている、などという話題もこのコーナーで知ったような気がする。

「風立ちぬ」は1980年4月26日付の全米シングル・チャートでは2位まで上っていたため、「なんとなく、クリスタル」の由利がマンションで聴いていた6月の時点ではすでにかなりメジャーだったように思える。それでも、1月には輸入盤屋ですでに見つけていたことを強調せずにはいられないところに、いとしさを感じずにはいられない。それから4週連続2位を続けるのだが、ブロンディ「コール・ミー」があまりにも強すぎて、結局1位にはなれずじまいであった。「コール・ミー」は日本でもオリコン週間シングルランキングで最高19位、30万枚以上を売り上げるヒットを記録していたのだが、原宿で踊っている竹の子族のラジカセからもよく流れていたといわれている。

「南から来た男」から続いてシングルカットされた「セイリング」は8月30日付の全米シングル・チャートにおいて、オリヴィア・ニュートン・ジョン「マジック」を抜いて1位に輝いているが、その翌週にはダイアナ・ロス「アップサイド・ダウン」にその順位を明け渡している。

当時、クリストファー・クロスはその姿を公表していなく、ライブも行っていなかったため、あのハイトーンのボーカルからどのような美青年なのだろうとイマジネーションをかき立てていたのだが、いざ公表されてしまうと、思っていたのとは違ったという声がけして少なくはなかったと記憶している。1981年の秋にはバート・バカラック、キャロル・ベイヤー・セイガーらと共作した「ニューヨーク・シティ・セレナーデ(原題:Arthur’s Theme (Best That You Can Do)」が映画「ミスター・アーサー」の主題歌として全米シングル・チャートで1位に輝いた。このシングルは確か旭川のミュージックショップ国原で買ったのだが、ジャケットにはクリストファー・クロスの写真が使われていたはずである。B面には「南から来た男」から、「スピニング」が収録されていた。

個人的には高校受験が終わり、入学祝いに買ってもらったパイオニアのシステムコンポ、プライベートが家に届く少し前、ポール・マッカートニー「タッグ・オブ・ウォー」がリリースされたのと同じぐらいの時期に、「南から来た男」をいまさら買ったのであった。

その後もAORの名盤として「南から来た男」はポップミュージック史において評価されている印象ではあるのだが、たとえば「ローリング・ストーン」誌などの歴代ベストアルバム的なリストには選ばれているのを見たことがない。こういったタイプの音楽はやはり、ロック・ジャーナリズムから派生したそれらの文脈においては軽視される傾向にあるようである。

AORという言葉のニュアンスが日本と海外とではやや異なっているような印象も受けるのだが、日本でそう呼ばれているような音楽が海外ではヨット・ロックというサブジャンル名で、2010年代あたりから再評価されているようなところもある。きっかけは2005年から公開されはじめた、ズバリ「ヨット・ロック」というタイトルのコメディータッチのドラマシリーズだったようで、当初は軽くいじるようなノリでもあったのだという。

こういったタイプの音楽は日本ではずっと人気があったのだが、海外においてもこれらを評価する文脈が明確になったような印象もあり、ジャパニーズ・シティ・ポップなどともトレンド的につながっているように感じられる。ところで、このシティ・ポップという言葉を日本ではいつぐらいから現在のような意味で使いはじめたのかということを考えたり考えなかったりするのだが、「なんとなく、クリスタル」において田中康夫はマイケル・フランクスについて「ジャージーな感覚を持つシティ・ポップ歌手」と説明していた。