ブラー「カントリー・ハウス」とオアシス「ロール・ウィズ・イット」について。

1995年8月14日にはブラー「カントリー・ハウス」、オアシス「ロール・ウィズ・イット」というそれぞれの最新シングルが同じ日に発売されるということで、どちらが1位になるのかがイギリスでは大きな話題となった。これは「バトル・オブ・ブリットポップ」と呼ばれ、ニュース番組で報道されたりもしていたようだ。すでにポップ・ミュージックという範疇を超え、国民的な関心事となっていた可能性がある。

ロンドンで結成されたブラーは1990年にシングル「シーズ・ソー・ハイ」でデビューするが、次にリリースされた「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」が全英シングル・チャートで最高8位のヒットを記録して、早くも人気バンドとなる。

90年代初めのイギリスではストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツといったマンチェスターを拠点とするバンド達を中心としたブリットポップムーブメントが巻き起こっていて、その音楽的な特徴はインディーロックにダンスミュージックの要素を取り入れたところであった。これらは80年代後半のアシッドハウスの流行やドラッグカルチャーとも結びついていたのだが、いずれにせよイギリスのインディーロックに注目をあつめるきっかけにはなった。

ブラーはマンチェスター出身ではなかったものの、このムーブメントに乗って売れたバンドだと見なされているようなところもあった。

1991年の秋にアメリカはシアトルのオルタナティヴ・ロックバンド、ニルヴァーナがリリースしたアルバム「ネヴァーマインド」はマイケル・ジャクソン、ガンズ・アンド・ローゼズ、U2といったメインストリームの人気アーティストの新作を脅かすほどのヒットを記録し、当時、このタイプの音楽としては異例の全米アルバム・チャートで1位に輝いた。

ラウドでヘヴィーなロックに乗せて若者の苦悩を陰鬱そうに歌う音楽はグランジロックと呼ばれ、イギリスでもたちまち人気となった。

一方、ブラーは1992年に以前のマッドチェスター的な音楽性から離れ、よりパンキッシュなシングル「ポップシーン」をリリースし、評判は良かったのだがそれほど売れなかった。その後、ジーザス&メリー・チェイン、ダイナソーJR、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインとのローラーコースターツアーに参加したり、地獄のようなアメリカツアーに駆り出されたりしているうちに重度のホームシックに陥り、イギリス性のようなものに傾倒していくようになる。

その頃、イギリスでは新人バンド、スウェードが「ザ・ドラウナーズ」でデビューし、音楽メディアの話題を独占していた。デヴィッド・ボウイやザ・スミスとも比較される音楽性やボーカリスト、ブレット・アンダーソンのセクシーでグラマラスな魅力が人気となった。ニュー・グラムなどと呼ばれかけたこともあったが、それは定着しなかった。

1993年にはデビューアルバム「スウェード」が全英アルバムチャートで初登場1位に輝き、一躍、時代の寵児となった感があった。スウェードの結成時のメンバーとしてジャスティーン・フリッシュマンがいて、ブレット・アンダーソンとプライベートでもパートナーの関係にあったのだが、デビューするよりも前に別れてバンドも脱退、その後はブラーのデーモン・アルバーンと付き合っていた。このことがゴシップ的に取り上げられたり、「スウェード」に収録された一部の楽曲の解釈に役立ったりもした。

ブラーはXTCのアンディ・パートリッジをプロデューサーに迎え、新しいアルバムを制作することを試みたりするのだが、これはうまくいかなかったようだ。夏の野外ライブでスーツ姿で歌うデーモン・アルバーンの姿を音楽雑誌で見かけたが、そこには悲壮感すら漂っているように思われた。

そして、1993年にはやはりスーツやフレッドペリーのポロシャツとブルージーンズといったスタイルで宣材写真的なものを出してきて、「ブリティッシュ・イメージ」などとスプレーで書かれたものなどもあった。意図的に古き良きイギリスのポップス、キンクスやスモール・フェイセスなどに通じる音楽をやったアルバム「モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ」は、当時のトレンドとはまったく関係がなく、そのユニークさゆえに高く評価された。

先行シングルとしてリリースされた「フォー・トゥモロー」を自身の番組でかけた後、伝説のDJ、ジョン・ピールは「現代の生活はゴミ」というような意味のアルバムタイトルについて、このバンドは自分に近いユーモアのセンスがあるようだと言い、聴いていたメンバーは歓喜したという。この様子は当時、「SELECT」という雑誌の記事として読んだ記憶がある。

この前の年にリリースされたレディオヘッドのデビューシングル「クリープ」がアメリカのカレッジラジオで話題になり、逆輸入のような感じでイギリスでもヒットしていたりもしたのだが、1993年の夏ぐらいにおいて、イギリスのインディー・ロックが流行るのではないかというような気分はなんとなく盛り上がっていた。

翌年、スウェードは長尺のシングル「ステイ・トゥゲザー」をリリースし、全英シングル・チャートでは過去最高位となる3位を記録した。その頃、私が付き合っていた女子大学生が友人とロンドンに旅行に行き、現地で「ロッキング・オン」の宮嵜広司に会ったりもしたようで、そのことは確かジーズ・アニマル・メンか何かのCDのライナーでもふれられていると聞かされている。その時点でイギリスではNWONW(ニュー・ウェイヴ・オブ・ニュー・ウェイヴ)が流行るともいわれていて、ジャスティン・フリッシュマンのエラスティカやジーズ・アニマル・メン、スマッシュなどが中心的な存在とされていたが、これはそれほど盛り上がらなかった。

ロンドン土産にプライマル・スクリーム「ロックス」、モリッシー「ザ・モア・ユー・イグノア・ミー、ザ・クローサー・アイ・ゲット」のCDシングルなどを買ってきてもらったのだが、現地のテレビでブラーがジャージのような服を着てディスコソングのような新曲を歌っていたという話を聞いた。前作がスーツを着て「ブリティッシュ・イメージ」だっただけににわかには信じがたかったが、当時はまだインターネットもYouTubeもスマートフォンもない時代なので、確認することができない。そして、ついにリリースされたシングル「ガールズ・アンド・ボーイズ」は確かに言われていたような内容であり、全英シングル・チャートで最高5位のヒット、この曲を収録したアルバム「パークライフ」は初の1位に輝いた。

晴れた春の日の土曜日の午後、やはり当時、付き合っていた女子大学生と渋谷ロフトの1階にあったWAVEにいた。突然、ニルヴァーナ「ネヴァーマインド」の収録曲が流れた。次のアルバム「イン・ユーテロ」はとっくに発売されているのに、どうして今さらこんな曲を流しているのだろう、というようなことを思い、演奏中のCDジャケットを映し出すモニターを見ると、「ネヴァーマインド」のジャケットに「カート・コバーン自殺」と手書きされたコメントカードが添えられていた。意外ではなかったが、衝撃は受けた。

その少し後、マンチェスター出身の新人バンド、オアシスが「スーパーソニック」でデビューした。「NME」の付録に付いていたカセットテープには「シガレッツ・アンド・アルコール」という曲が収録されていたが、後にデビュー・アルバムに収録されるよりも、よりTレックス「ゲット・イット・オン」に似ていたように思える。ギタリストでソングライターのノエル・ギャラガーはかつてインスパイラル・カーペッツのローディーをやっていたらしい。ボーカリストのリアム・ギャラガーはその弟で、インタビュー記事では兄弟げんかが話題になったりもした。

パンクやオルタナティヴ・ロック的な感覚を持ちながらも、ソングライティングにはクラシックロックやシンガー・ソングライターからの影響も感じさせ、なかなか本格派の新人ではないか、などと思っているうちにあれよあれよと売れまくっていき、夏の終わりに発売されたデビューアルバム「オアシス」は全英アルバム・チャートで初登場1位に輝いた。

スウェードはひじょうにクオリティーが高いアルバム「ドッグ・マン・スター」をリリースするのだが、メンバー間の関係が悪化し、ソングライターでギタリストのバーナード・バトラーが脱退するなど、やや失速感が感じられた。時代はスウェードVSブラーから、ブラーVSオアシスへという感じであった。そして、この時点でイギリスのインディー・ロックバンドを中心としたブリットポップはムーブメントとしてひじょうに盛り上がりを見せていたのだった。

オアシス「オアシス」とブラー「パークライフ」はイギリスの音楽雑誌が発表する1994年の年間ベストアルバム、あるいは翌年のブリットアアワーズなどでも争うようになるのだが、そのうちこの2つのバンド間にあるライバル関係のようなものが面白おかしく取り上げられていくようになる。

オアシスはイギリス北部のマンチェスター出身で労働者階級、音楽性はロックなのに対し、ブラーはロンドンで結成され、中流階級でよりポップな音楽をやっているということで、とても比較しやすかったといえる。

オアシスは素行の悪さのようなものも芸風のようなところもあったので、兄弟げんかと同じようなノリで、他のアーティストに対して毒づくようなこともあった。ブラーやデーモン・アルバーンとジャスティン・フリッシュマンのカップルはその恰好の標的にされていて、デーモン・アルバーンは内心これに傷ついていたという。

オアシスは1995年の春にリリースした「サム・マイト・セイ」でアルバムだけではなくシングルでも1位を獲得し、さらに勢いに乗る。その次のシングルとして「ロール・ウィズ・イット」の発売が8月に決まっていたという。これに元々は別の日であったアルバム「グレイト・エスケープ」からの先行シングル「カントリー・ハウス」の発売日を合わせてきたのはブラー側、というかデーモン・アルバーンのアイデアだったという。これをけしかけたのは「NME」のライターだったともいわれているのだが、「NME」ではこのいわゆる「バトル・オブ・ブリットポップ」をボクシングのポスターを模した表紙で煽るなど、マッチポンプ的にかなり盛り上げていた印象がある。

その立場はけして中立ではなく、「カントリー・ハウス」発売のタイミングではブラーが誌面を編集しているという体の号を発行するなど、かなり肩入れをしていた印象がある。この辺り、やはりロンドンのメディアだなと感じたりもしていた。

私はブラー「カントリー・ハウス」、オアシス「ロール・ウィズ・イット」のCDシングルをそれぞれ1枚ずつ、確か新宿アルタの上の方の階にあったCISCOで買ったのではなかったかと思う。数日後に新しい全英シングル・チャートが発表され、結果は1位が「カントリー・ハウス」、2位が「ロール・ウィズ・イット」であった。「カントリー・ハウス」のCDシングルはそれぞれ内容が異なる2種類のフォーマットで発売されていて、売り上げはこれらの合算だったため、実はフェアではなかったのではないか、というような意見もあった。

「カントリー・ハウス」はすでにライブでひじょうに盛り上がっているという評判だったが、どこかコミカルな印象の曲であった。都会での競争に疲れ、田舎に家を買って住む男がテーマになっているのだが、これにはモデルが実在していて、それは所属レーベルの元社員だったということである。ミュージックビデオは動物の死骸などを用いた作品でセンセーショナルな話題を呼んだりもしていたアーティストのダミアン・ハーストによって監督され、キース・アレンやマット・ルーカスといったアクターやコメディアンも出演していた。インディー・ロック的な嗜好を持つギタリストのグレアム・コクソンはこの撮影がとかく嫌で仕方がなかったと語っている。

「ロール・ウィズ・イット」は気分の良いロックンロールチューンで、オアシスらしいといえばらしい曲ではあるのだが、当時のレパートリーの中でもそれほど特出して優れているというわけでもなかった。

「カントリー・ハウス」を収録したアルバム「グレイト・エスケープ」は全英アルバム・チャートで初登場1位を記録するのだが、その後にカットされたシングルはいずれもトップ10入りは果たすものの、最高位は落としていくことになった。それに対し、「サム・マイト・セイ」「ロール・ウィズ・イット」を収録したオアシスのアルバム「モーニング・グローリー」からは「ワンダーウォール」が最高2位、ノエル・ギャラガーがリードボーカルの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」が1位と「ロール・ウィズ・イット」を超え、この時点でアーティストパワー的にもオアシスがブラーを凌駕したかたちとなっていた。

「バトル・オブ・ブリットポップ」の結果はわずか数ヶ月にしてそれほど意味がないものと見なされるようになっていたのだが、あのポップ・ミュージックが社会現象のようにもなっていた感じというのは、リアルタイムでのゴールデンエイジ的な幸福な記憶として共有されているような気もする。それらのシングルがけしていずれのバンドにとっても、特に優れたものではなかったとしてもである。