マニック・ストリート・プリーチャーズの名曲ベスト10

マニック・ストリート・プリーチャーズのことは実際にその音楽を聴く以前に、センセーショナルな話題やヴィジュアルなどを雑誌などで見て知ったような感じなのだが、その時点ではあまり深刻に受け留めていなかった人達も少なくはなかっただろうし、マッドチェスターやインディーダンスがひじょうに盛り上がっていた当時にしては、やや時代錯誤的にも感じられた。その印象が覆されるまでそれほど長い時間はかからなかったのだが、もう一つ、バンドのヴィジュアルで最も目立っているのは大抵の場合、ボーカリストかリードギタリストである。マニック・ストリート・プリーチャーズの場合、リッチー・エドワーズとニッキー・ワイアーが特に目を引いて、中心メンバーとしてのオーラを放っていたわけだが、実際に演奏する映像を見てみると、ボーカルもリードギターの演奏もジェームス・ディーン・ブラッドフィールドが担っていた。その誕生日は1969年2月21日であり、この機会にマニック・ストリート・プリーチャーズの名曲ベスト10というのをやってみるのはどうか、と思い立ったのである。

10. Your Love Alone Is Not Enough (2007)

デビュー当時のセンセーショナルなイメージもあり、当初は熱心なファン以外にはあまりまともに捉えられていなかったようなところもあるマニック・ストリート・プリーチャーズだが、いろいろあって90年代半ばあたりにはすっかり国民的人気バンドとなり、それからさらに25年以上、アルバムをリリースすれば必ずチャートの上位にランクインする状態をキープし続けている。クオリティーも高い水準を保っているのだが、とはいえ名曲といえる楽曲の数々はわりと初期の方にリリースされたものが多い。

この曲はデビューから15年以上経った2007年のアルバム「センド・アウェイ・ザ・タイガーズ」から先行シングルとしてリリースされ、全英シングル・チャートで最高2位のヒットを記録した。90年代半ばのスウェディッシュポップブームで日本でも大人気だったカーディガンズのニーナ・パーションがゲストで参加し、ジェームス・ディーン・ブラッドフィールドとデュエットしている。

この曲のタイトルは、バンドに近い人物の友人が自殺した際に残した遺書の最後の文章から引用されたものだという。コール・アンド・レスポンスによるデュエットソングで、1995年に失踪したメンバーのリッチー・エドワーズを思い起こさせる内容にもなっている。

9. La Tristesse Durera (Scream To Sigh) (1993)

2作目のアルバム「ゴールド・アゲインスト・ザ・ソウル」はアメリカのマーケットを狙った結果だといわれていたが、サウンドがややハードロック寄りになっていて評価もそれほど芳しくはなかったのだが、曲単位で見ると人気があるものも少なくはなく、シングルカットされ全英シングル・チャートで最高22位を記録したこの曲もそのうちの1つである。

タイトルは画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホが亡くなる直前に発した言葉からの引用だといわれ、意味は悲しみは永遠に続くというようなものである。退役軍人の視点による歌詞は、インディーロックとしてはひじょうに知的でユニークである。

オアシス、ブラー、パルプ、スウェードが現在ではブリットポップのビッグ4とされているようで、レディオヘッドやマニック・ストリート・プリーチャーズは除外されているのだが、当時の感覚としてはこれらすべてをまとめて、イギリスのインディーロックが盛り上がっている感というのがなんとなくあった。

8. Little Baby Nothing (1992)

マニック・ストリート・プリーチャーズのデビューアルバム「ジェネレーション・テロリスト」からシングルカットされ、全英シングル・チャートで最高29位を記録した。

女性の性的搾取をテーマにしたプロテストソングとしての側面も強く、バンドはカイリー・ミノーグとのデュエットを希望したのだが諸事情によって叶わず、元ポルノ女優のトレイシー・ローズが参加している。なお、カイリー・ミノーグとの共演は後にライブで実現したほか、楽曲提供も行っている。

ひじょうにポップでキャッチーな楽曲に乗せて社会的なメッセージを訴えるという、パンクロック的で当時のメインストリームポップでは主流ではなかった手法が取られているところに、このバンドの必要性を感じさせられる。

7. Motown Junk (1991)

マニック・ストリート・プリーチャーズの2枚目のシングルで、全英シングル・チャートでの最高位は94位であった。

ジョン・レノンが射殺された時には笑ってしまったというようなフレーズによって物議を醸したりもしたのだが、イントロでパブリック・エナミーをサンプリングしているところなどに求めていたものの大きさが想像できる。とはいえ、当時は時代錯誤的なパンクロックのコピイストとしてしか見られていなかったところもあり、それが「NME」のスティーヴ・ラマックがインタヴューしている最中にリッチー・エドワーズが腕にナイフで「4REAL」つまり本気と彫って大流血という事件へとつながっていく。その写真が掲載された「宝島」を、六本木WAVEの休憩室でフレンチポップなどを好む育ちが良さそうな色白の男子が汚物かのように扱っている様を見て、自分自身はこっち側だと感じてはいた。

6. From Despair To Where (1993)

2作目のアルバム「ゴールド・アゲインスト・ザ・ソウル」からの先行シングルで、全英シングル・チャートで最高25位を記録した。

インディーロックではあるのだがひじょうにドラマティックな楽曲であり、もっと売れてもいいのではないかと感じてはいたのだが、当時のトレンドとは合っていなかったのかもしれない。このシングルそのものはかなり良かったのだが、アルバムがアメリカのマーケットを狙ったとかでわりとハードロック寄りにもなっていて、ファン層のニーズに合っていないのではないかと感じた。

根底にある悲しみの感覚は日本人の心の琴線にふれやすいところもあるように感じられ、どのメンバーだったかは忘れたのだが、来日時に日本のファンから太宰治の小説をもらって読んでみたところひじょうに感銘を受けたというようなこともいっていたと思う。

今回は挙げないのだが、同じアルバムに収録された「失われた夢(原題:Life Becomin The Landslide)」のミュージックビデオには、日本でのライブ会場で演奏するバンドを祈るように見つめるファン達の姿がたくさん捉えられていてとても良い。

5. You Love Us (1991)

1991年にヘヴンリー・レコーディングスからリリースされた時には全英シングル・チャートで最高62位、翌年に再録音されたバージョンがコロムビアからリリースされ、同じく最高16位を記録した。デビューアルバム「ジェネレーション・テロリスト」からの先行シングルにあたる。

デビューアルバムを大ヒットさせてすぐに解散するというようなことをいっていたのだが、それほど大ヒットにもならず、30年以上も続いていてずっと売れている状況というのが当時は誰も想像していなかった未来だと思われる。それぐらい刹那的であるがゆえの魅力に溢れていたともいうことができる。

とはいえ、正直に告白してしまうならば、この時点において個人的にはそれでもまだこのバンドのことをギミック的な存在としてしか見ることができていなく、そのような人達はけして少なくなかったようにも思える。実にもったいないことをした。

4. If You Tolerate This Your Children Will Be Next (1998)

マニック・ストリート・プリーチャーズの5作目のアルバム「ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ」からシングルカットされ、全英シングル・チャートで1位に輝いた。

タイトル1930年代後半に発生したスペイン市民戦争における共和国派のスローガンから引用されていて、歌詞にもこの内戦を連想させるフレーズがいくつも入っている。同じテーマを扱ったザ・クラッシュ「スペイン戦争」と共通するところもあるが、当時のヒットソングとしては異例だということができる。翌年のブリット・アワードでは最優秀シングル賞にノミネートされるが、受賞したのはロビー・ウィリアムス「エンジェル」であった。

初期の作品にあったサウンド面における攻撃性は薄れ、マイルドにメランコリックでありながら主張が感じられる音楽性は、現在に至るまでこのバンドの1つの特徴になっている。

3. Faster (1994)

マニック・ストリート・プリーチャーズの3作目のアルバム「ホーリー・バイブル」から先行シングルとしてリリースされ、全英シングル・チャートで最高16位を記録した。

前作「ゴールド・アゲインスト・ザ・ソウル」がサウンド的にややハードロックに寄ってもいて不評気味だったことを受けてか、「ホーリー・バイブル」ではよりポスト・パンク的になっていて、そこがひじょうに受けていた印象がある。リッチー・エドワーズが失踪する前の最後のアルバムであり、歌詞には当時の限界に近い精神状態があらわれてもいる。

この曲について音楽的にはフェイス・ノー・モア「フロム・アウト・オブ・ノーホエア」やセックス・ピストルズ「勝手にしやがれ」から影響を受けたことを、メンバーが語っている。

2. Motorcycle Emptiness (1992)

デビューアルバム「ジェネレーション・テロリスト」からシングルカットされ、全英シングル・チャートで最高17位を記録した。邦題は「享楽都市の孤独」である。

当時のセンセーショナルな話題やヴィジュアル的なイメージからこのバンドのことをあまりまともに捉えていなかった人達も多かったように思えるのだが、この曲をシングルカットした辺りからそういった人達をも魅了しはじめたような気もする。とにかく知的でドラマティックでペーソスも感じられる楽曲と、当時の渋谷や横浜などで撮影されたビデオがとても良い。渋谷のセンター街にあった白鳥というパチンコ店のネオンサインが映っていたりするのも、当時の気分をかき立ててくれる(個人的に入ったことはないが、ONE-OH-NINEの1階と地階にあったHMVに行くためにここの前は何百回となく通っていたはずである)。

高度消費社会におけるライフスタイルの虚しさのようなものがオートバイのたとえなどを用いて表現されているのだが、フランシス・フォード・コッポラ監督で映画化もされた若者向け小説「ランブルフィッシュ」にインスパイアされたところもあるといわれている。

1. A Design For Life (1996)

マニック・ストリート・プリーチャーズの6作目のアルバム「エヴリシング・マスト・ゴー」から先行シングルとしてリリースされ、全英シングル・チャートで最高2位の大ヒットを記録した。1992年に「テーマ・フロム・マッシュ(スイサイド・イズ・ペインレス)」のカバーが全英シングル・チャートで7位を記録していたが、バンドによるオリジナル曲としてはこれが初のトップ10シングルとなった。同じアルバムからはさらに「エヴリシング・マスト・ゴー」「ケヴィン・カーター」「オーストラリア」が全英シングル・チャートで10位以内にランクインされている。

当時のイギリスはブリットポップムーヴメントの真っ只中であり、こういったタイプの音楽が売れやすい状況でもあったわけだが、それでもこれだけのヒットになったのはやはりすごいことであり、これ以降、マニック・ストリート・プリーチャーズはイギリスの国民的バンドといっても過言ではない人気を獲得していくことになる。しかも、その内容が労働者階級のアンセムのようなものであるという点もまた、ひじょうにユニークである。

背景としては1995年にメンバーのリッチー・エドワーズが失踪し、行方不明になった後、バンドは解散も考えたのだが、リッチー・エドワーズの家族が希望したこともあり、残されたメンバーで活動を継続していくことになった。メンバーがジェームス・ディーン・ブラッドフィールド、ニッキー・ワイアー、ショーン・ムーアの3人になってから初めてリリースされたのが、このシングルであった。