ビリー・ジョエル「ナイロン・カーテン」について。

ビリー・ジョエルの8作目のアルバム「ナイロン・カーテン」は1982年9月23日にリリースされたということである。国内盤は10月3日に発売されていて、私は西武百貨店旭川店内のディスクポートでこちらの方を買ったのだった。誕生日のお祝いにもらったお金があり、それでこのレコードとナイキのスニーカーを買ったのだった。田原俊彦が「原宿キッス」を歌う時に履いていたのに似た、赤に銀のラインが入ったやつである。

「ナイロン・カーテン」に収録された曲のいくつかは、確か開局してそれほど経っていないFM北海道で放送されたラジオ番組で聴いていたのだった。パーソナリティーは小林克也だったような気がする。これまでのアルバムに比べ、よりシリアスな内容になっていることは、それでなんとなく知っていたのであった。

当時、ビリー・ジョエルはアメリカではもちろん、日本の音楽ファンの間でもひじょうに人気があった。1978年の夏にオリコン週間シングルランキングで2位まで上がった「ストレンジャー」は、留萌の喫茶店などでも聴くことができた。口笛が印象的なイントロからはじまる都会的なこの曲は、日本独自のシングルヒットであった。その後もニューヨークの都会的なイメージと親しみやすいメロディーなどがとても受けて、洋楽の入門篇的な役割を果たしていたような気もする。というようなことを書いている私も、初めて買った洋楽のアルバムはビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」であった。このアルバムからはアメリカでは「マイ・ライフ」が全米シングル・チャートで最高3位のヒットを記録したが、日本ではバラードの「オネスティ」の人気が高かったような気がする。ネッスル(現在はネスレと呼ばれているが)チョコホットのCMで使われていたことも影響しているような気がする。

1980年のアルバム「グラス・ハウス」はニュー・ウェイヴに触発されたともいわれ、よりロック色を強めていた。「ガラスのニューヨーク」や初の全米NO.1シングルとなった「ロックンロールが最高さ」を収録し、全米アルバム・チャートで6週連続1位を記録、グラミー賞の男性ロックボーカル部門で受賞したりもしていた。翌年にビリー・ジョエルがリリースしたアルバムは「ソングズ・イン・ジ・アティック」といって、ライブ・アルバムなのだが、「ストレンジャー」が大ヒットする前までの、しかも世間にあまり知られていない曲ばかりを収録していた。全米アルバム・チャートでの最高位は8位、シングル・カットされた「さよならハリウッド」が17位、「シーズ・ガット・ア・ウェイ」23位を記録した。一般的にはじゅうぶんなヒットなのだが、当時のビリー・ジョエルにしてはいまひとつではないかという印象があった。とはいえ、過去のそれほど知られていない曲のライブ・バージョンということで、まあこれぐらいかなという感じもあった。

ところが「ナイロン・カーテン」は、あの大ヒットした「グラス・ハウス」以来の新曲ばかりが収録されたスタジオ・アルバムということで、もちろんかなり盛り上がったのである。先行シングルの「プレッシャー」は当時のビリー・ジョエルの一般的なイメージである都会的で洗練された感じとは少し違って、どこか急かされるような印象を受けるアップテンポな曲であった。サウンドにも変化を感じていたのだが、ボーカルは紛れもなくビリー・ジョエルのそれであり、待望の新曲だと大喜びをしていた。日本のラジオでもよくかかっていたような気がするのだが、これが全米シングル・チャートでは最高20位といまひとつだったのである。いや、全米シングル・チャートで20位といえば一般的にはヒットなのだろうが、当時のビリー・ジョエルのニュー・アルバムからの先行シングルとしては、低迷と言い切っても良いようなレベルである。

ちなみにピークを記録した11月20日付ではジョー・コッカー&ジョニファー・ウォーンズ「愛と青春の旅立ち」が1位、ライオネル・リッチー「トゥルーリー」が2位で、オリヴィア・ニュートン・ジョン「ハート・アタック」が3位であった。他にはダリル・ホール&ジョン・オーツ「マンイーター」、ジョー・ジャクソン「夜の街へ」、ストレイ・キャッツ「ロック・タウンは恋の街」、マイケル・ジャクソン&ポール・マッカートニー「ガール・イズ・マイン」などが20位以内にランクインしていた。

「ナイロン・カーテン」も全米アルバム・チャートでの最高位が7位と、これも一般的にはじゅうぶんにヒットなのだが、当時のビリー・ジョエルのスタジオ・アルバムとしてはかなり売れていない方である。では、なぜこうだったのかというと、それはおそらく内容が深刻すぎて時代の気分に合っていなかったということが挙げられるのではないかと感じる。とはいえ、ブルース・スプリングスティーンはわりと近い時期に「ネブラスカ」というひじょうに深刻なテーマを扱ったアルバムをリリースしていて、これはよく売れたし評価も高かった。

いまひとつ(ビリー・ジョエルにしては)売れなくても評価が高ければまだ救われるのだが、「ナイロン・カーテン」の場合はそれもまた芳しくなかった。ポップ・アーティストが社会派ぶったことをやっているのだがいまひとつ、というような評が多かったような気がする。ビリー・ジョエル自身はこのアルバムをキャリア中最も誇らしい作品だと感じているという話があったり、私を含む少なからぬファンがこのアルバムをわりと気に入ってはいるのだが、世間一般的な評価はいまひとつというか、芳しくないと言わざるを得ない。

当時、ビリー・ジョエルはこのアルバムについて、自分自身にとっての「サージェント・ペパーズ」だとも言っていたらしく、それが特に日本の音楽ジャーナリズムにおいてはよく取り上げられていたような気がする。「サージェント・ペパーズ」とはビートルズが1967年にリリースしたアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のことであり、史上最も優れたアルバムとか、ロックを芸術の域にまで高めた作品、などといわれていたような気がする。当時、高校生だった私の周囲に音楽においてはクラシックこそが至高であり、ロックやポップスなどというものは稚拙で聴く価値のないもの、但しビートルズは除くというような人物がいて、ひじょうにいけすかなかったのだが、それでビートルズというのは教材に取り上げられていたり、こういうダサい人達が支持をしているモテなさそうな音楽なのだという偏見を持ち、しばらくまともに聴いていなかった。それで、もちろん「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のこともまだよくは知らない。しかし、この発言がある意味、必要以上にハードルを上げてしまった部分もあるのかもしれない。

このアルバムの1曲目に収録され、シングル・カットもされた「アレンタウン」はビリー・ジョエルらしい親しみやすいメロディーではあるのだが、扱っているテーマは鉄鋼産業の不況である。当時のアメリカは日本人から見ると文化面では憧れの的だったが、経済面では綻びが見えはじめて、この曲ではそのような暗い現実について歌われていた。全米シングル・チャートでは先行シングルの「プレッシャー」よりも高い最高17位をなんと6週も続けるのだが、それよりも上位に上がることはなかった。その間に1位だったのは、TOTO「アフリカ」、メン・アット・ワーク「ダウン・アンダー」、パティ・オースティン&ジェームス・イングラム「あまねく愛で」、マイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」である。

そして、3枚目にして最後のシングルとしてカットされたのが、アナログレコードではA面の最後に収録された「グッドナイ・サイゴン~英雄達の鎮魂歌」である。ベトナム戦争をテーマにした、長く暗く重い曲である。これまでの流れからいって、ヒットするはずがないのだが、どうしても出さずにはいられなかったのかもしれない。全米シングル・チャートでの最高位は56位であった。

ヘリコプターのプロペラの音ではじまるこの曲の歌詞は、ベトナム戦争に参加した友人の話がベースになっているという。ビリー・ジョエル自身はベトナム戦争には行っていないということだが、それは程度の差こそあれ、当時のアメリカ国民にとっての共通体験だったのだろう。この曲でのビリー・ジョエルのボーカルには、他の曲ではあまり聴くことのできない怒りやエモーショナルなところが感じられもして、ひじょうに味わい深いものになっていると思える。

「ナイロン・カーテン」というアルバム全体を貫いている感覚というのは、自分達の世代を待っている未来は、かつてのアメリカ国民にとってのそれらのように明るく輝いてはいなく、その機械はもう永遠に失われてしまったという真実に対する諦念である。サウンド面での実験性などが目立ちがちなアルバムではあるが、本質的にはそのような暗さこそが特徴であり、それがいまひとつ(ビリー・ジョエルにしては)売れなかった原因だったのではないか、というような気がしなくはない。

とはいえ、それまでのビリー・ジョエル作品のようにポップな楽曲も収録されている。アナログレコードではB面の1曲目に収録された「シーズ・ライト・オン・タイム」は、クリスマスの時期に恋人が来るのを待つ男の感情をテーマにした曲で、シングル・カットはされていないが制作されたビデオもユニークで笑える。CDや配信で聴いていると、「グッドナイト・サイゴン」の次にこの曲が来て、その落差やビリー・ジョエルというアーティストの作品の幅を実感させられたりもする。

「スカンジナヴィアン・スカイ」は特に「サージェント・ペパーズ」というか中期ビートルズへの憧れが感じられもして、歌い方もジョン・レノン的だったりもするのだが、やはり絶妙にポップなのでなり切れていなく、その辺りにたまらない良さを感じたりもする。

そして、最後に収録された「オーケストラは何処に?」だが、これは自分の人生というのはオーケストラがBGMを奏でるようなドラマティックで輝かしいものだと思っていたのだが、どうやらそうではないみたいだ、というような失望について歌われている。ある意味、このアルバムのコンセプトをあらわしてもいて、締めくくるに相応しい曲だともいえるのではないだろうか。

このアルバムの(ビリー・ジョエルにしては)不振を受けてなのだろうか、わずか約11ヶ月後というこのクラスの人気アーティストとしては異例のスピードで、次のアルバム「イノセント・マン」がリリースされた。「ナイロン・カーテン」のシリアス路線とは打って変わって、単純明快かつノスタルジックなポップ・ワールド全開という感じで、ビリー・ジョエルが聴きながら育ってきたであろう、モータウンやドゥー・ワップなどがベースになっていた。このアルバムからは「あの娘にアタック」が「ロックンロールは最高さ」以来となる全米シングル・チャートNO,1、さらには「アップタウン・ガール」でイギリスでも初の1位を記録してしまう。やはり一般大衆がビリー・ジョエルに求めていたのはこういった路線だったのか、という感じにはなっていく。

その後も、ビリー・ジョエルは「ナイロン・カーテン」のような作品を再びリリースしてはいないため、このアルバムはそのカタログの中でも異彩を放ち続けているといえる。そして、どうやら再評価も特にされていないようだ。しかし、インターネットで検索してみると、特に日本にこのアルバムを気に入っていて、文章でそれを表現しておきたいタイプのファンは結構いることが分かり、勝手に親しみを感じたりはする。

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