ジャネット・ジャクソン「あなたを想うとき」について。

1986年9月27日付の全米シングル・チャートではヒューイ・ルイス&ザ・ニュース「スタック・ウィズ・ユー」が1位で、4位にはRUN D.M.C.「ウォーク・ジス・ウェイ」がアップ、トップ10内にジャネット・ジャクソン「あなたを想うとき」、ステーシーQ「トゥー・オブ・ハーツ」、ビリー・オーシャン「ラヴ・ゾーン」の3曲が初登場していた。

ジャネット・ジャクソンは音楽一家として知られるジャクソン一家の末っ子で、マイケル・ジャクソンらの妹である。1982年にリリースされたソロ・デビュー・アルバム「ヤング・ラヴ」は全米アルバム・チャートで最高63位、翌々年の「ドリーム・ストリート」は147位とヒットにはならなかった。

そして、3作目のアルバムとしてリリースされたのが「コントロール」だったのだが、これ以前には若くしてジェームス・デバージと結婚して離婚、マネジメントを実父からA&Mレコードのジョン・マクレイトンに変えるということなどがあった。プロデューサーにはプリンス一派としても知られるジミー・ジャム&テリー・ルイスを迎え、コンテンポラリーなサウンドが際立っていた。

アルバムからの先行シングルには「恋するティーンエイジャー」の邦題がつけられていたが、ジャネット・ジャクソンが20歳の誕生日を迎えた翌日、1986年5月17日付の全米シングル・チャートで最高位の4位を記録した。ジャネット・ジャクソンにとって初のトップ40ヒットが、いきなりの高順位となった。

次にシングル・カットされた「ナスティ」ではさらに全米シングル・チャートでの順位を上げ、最高3位を記録したのだが、この時の上位2曲はジェネシス「インヴィジブル・タッチ」とピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」である。「ナスティ」は「Gimme a beat!」という掛け声に続き、いかにもジャム&ルイス的な適度に攻めていながらもキャッチーなサウンドとなる。タイトルの「ナスティ」とは不快なとか嫌なというような意味なのだが、そこから発展してえげつないというようなニュアンスも持つように思え、日本語でいう「サイテー!」というのに近いかもしれない。当時、女性関係のスキャンダルが写真週刊誌などで報道されがちだった明石家さんまは「最低男」と呼ばれていて、「森田一義アワー 笑っていいとも!」でタモリとやっていたコーナーのタイトルが「日本一の最低男」だったり、「オレたちひょうきん族」で演じていた妖怪人間しっとるケのテーマソングに「最低の男ってしっとるケのケ?」という歌詞があったりもした。ちなみに、明石家さんまが出演していたスクーターのCMで流れていた「サイテー男にご用心!!」を歌っていたのはストリート・ダンサーというバンドだが、ボーカリストの及出泰は「三宅裕司のいかすバンド天国」の後にやっていた「平成名物TV・トンガリ編」への出演などを経て、YASUとして北海道を拠点としてHBCラジオの「カーナビラジオ午後一番!」などで活躍している。

それはそうとして、「ナスティ」がヒットしていた頃、土曜の夜に六本木などに行くと道を埋めつくすほどの人の渦で、ひじょうに活気があった。いかにも、「サイテー!」というセリフが似合いそうな、日焼けした女性たちの姿も多く見られた。乃木坂駅の方に歩いていくと、途中に小森のおばちゃまこと小森和子の店があったりもしたが、デザイナーブランドのスーツを着こなした若いサラリーマンが「函館の女」を笑顔で口ずさみながらすれ違っていった。あの異様な盛り上がりともいえる街の気分に「ナスティ」のサウンドはとてもハマっていたような気がする。

夏休みには旭川の実家に帰省し、札幌で遊んだりしていたので、その間、部屋を社交ダンス部で活動をしながら、海老名にあるフジサンケイグループのレストランでアルバイトをしていた友人に貸していた。彼とは夏休みがはじまった頃に厚木市文化会館と渋谷公会堂に松本伊代のコンサート「やっぱり伊代ちゃん!」を見にいっていて、その帰りに宇田川町にあった頃のタワーレコード渋谷店でザ・スミス「クイーン・イズ・デッド」とスティーヴ・ウィンウッド「バック・イン・ザ・ハイ・ライフ」を買った。

帰省を終え、飛行機とモノレールと電車で小田急相模原に着いて、相模台商店街にあったアイブックスで、「ロッキング・オンJAPAN」の創刊号を買った。それまでも日本のポップ・ミュージックを扱った雑誌はいろいろ出てはいたものの、買ってまで読みたいと思うものはなかなかなかった。そこへいくと、あの「ロッキング・オン」が創刊する日本のポップ・ミュージック専門誌ということで、「ロッキング・オンJAPAN」には期待が持てたし、その内容はそれを大きく上回るものであった。表紙では佐野元春が整髪料のムースのようなものにまみれていた。男性整髪料ではすでに人気があったギャツビーの商品に加え、資生堂がCMにとんねるずを起用したメンズムースを発売したことにより、ムースがひじょうにポピュラーな存在になった。この年の相模台商店街では、サザンオールスターズ「バラッド‘77〜’82」と久保田利伸「SHAKE IT PARADISE」がよく流れていたような気がする。

スーパー三和のそばにあったワンルームマンションの部屋に帰り着き、鍵を開けると冷房をガンガンかけて友人が昼間からベッドで寝ていた。取りあえず荷物を片付け、ソニーのシステムコンポ、リバティでFM横浜をつけたのだが、カーペットの上に寝転んで「ロッキング・オンJAPAN」の佐野元春20,000字インタビューを読んでいるうちに、うたた寝してしまった。おニャン子クラブが「夏休みが終わらない」を歌っているのを8月の終わりに、すすきのの近くにあった友人のアパートのテレビで見ていた。夏が終わるのは一年間を通して最も悲しくてテンションが落ちる出来事だが、すでに薄暗くなった部屋でぼんやりと目が覚めると、ジャネット・ジャクソンの「あなたを想うとき」がちょうどかかりはじめたところであった。

ゆっくりとした静かなイントロにベースが加わり、少しすると急に快活になる。夏休みは終わり、冬へと走りださざるをえないのだが、夏でもないのに動機づけは限りなく低く、早くも次の夏を待ちわびている。とはいえ、束の間の喪失と再生を感じさせてもくれる、「あなたを想うとき」はそのような曲にも感じられ、この時点で「コントロール」をまだ聴いていなかった私は、ジャネット・ジャクソンにこんな曲があるのだ、と思った程度だった。そして、ジャネット・ジャクソンよりも数ヶ月遅れて私も20歳になり、その週の全米シングル・チャートで「あなたを想うとき」が1位になった。