ニルヴァーナ「MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク」について。

ニルヴァーナのライブアルバム「MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク」は、1994年11月1日に発売された。中心メンバーのカート・コバーンが自宅にて遺体で発見されてから、約7ヶ月後のことであった。

有名アーティストが亡くなったことを今日であれば、ネットニュースやSNSなどで知ることが多いのだろうが、当時はまだそういったものはなかった。

土曜日の午後に渋谷ロフトの1階にあったWAVEにいると、突然にアルバム「ネヴァーマインド」から激しめなアルバム収録曲がかかった。ニルヴァーナといえば最新アルバムの「イン・ユーテロ」が前の年の秋に発売されていたこともあり、なぜいまさらこのタイミングで「ネヴァーマインド」からのしかもシングル・カットされていない曲なのだろうと不思議に思い、店内で流れているCDのジャケットを映し出すモニターを見上げると、やはりそこには「ネヴァーマインド」のジャケットがあったのだが、手書きの文字で「カート・コバーン自殺!」とも書かれていた。

一瞬、時が止まったような感覚はあったが、意外性は特に感じなかった。少し前の「NME」でカート・コバーンがフランスで薬物を過剰摂取したことが報じられていたし、「イン・ユーテロ」の仮のタイトルは自分のことが嫌いで死にたい、というような内容だった気がしていた。そして、これでニルヴァーナはロック史の伝説になるのではないかと感じた。

たとえば、ジミ・ヘンドリックスやジム・モリソンやジャニス・ジョプリンは若くして亡くなったロックスターだが、ロック史における伝説のアーティストとしても把握していた。それは過去の話であり、ロックがより商業化され安全なものになった我々の時代に、このようなアーティストはもう現れないのだろうと思っていた。

80年代後半にラウドでヘヴィーなアメリカのオルタナティヴ・ロックが少しずつ話題になっていて、1990年にはシーンのカリスマ的存在であったソニック・ユースがメジャーのゲフィンからアルバム「GOO」をリリースした。全米アルバム・チャートでの最高位は96位だったが、まだまだアンダーグラウンドであったこのジャンルにしてみれば大成功だと見なされていた。

シーンで頭角をあらわしていたシアトルのバンド、ニルヴァーナもやはりゲフィンと契約をし、1991年9月24日に2作目のアルバム「ネヴァーマインド」をリリースする。これが見る見るチャートを駆け上がっていき、翌年にはマイケル・ジャクソン「デンジャラス」を抜いて1位になった。これをきっかけにオルタナティヴ・ロックがメインストリーム化していき、ポップ・ミュージックの歴史が変わったといわれている。

ニルヴァーナの特に中心メンバーであったカート・コバーンはポップ・アイコン化し、世代の代弁者的に扱われるようにもなった。カート・コバーン自身はそれに居心地の悪さやストレスを感じ、意図的にキャッチーで聴きやすくされていた「ネヴァーマインド」のサウンドに対する不満も募っていった。

そして、次作にあたる「イン・ユーテロ」ではプロデューサーにスティーヴ・アルビニを迎え、より生々しくパンク・ロック的なサウンドに変化した。やはり全米アルバム・チャートで1位のヒットを記録したが、反応は賛否両論でもあった。

「MTVアンプラグド」は1989年からはじまったMTVのライブ音楽番組で、人気アーティストのアコースティックセットでのライブを放送していた。CD化される場合もあり、特にエリック・クラプトンやマライア・キャリーのアルバムはよく売れていた。ニルヴァーナにもオファーがあって出演することになったのだが、収録は1993年11月18日に行われ、放送日は12月16日であった。「イン・ユーテロ」が発売された数ヶ月後ということになる。

スターゲイザーと呼ばれるユリの花やキャンドル、シャンデリアなどが用意されたステージのセットはカート・コバーンの要望によるものであり、葬儀をイメージさせるようなものになった。バンドには通常のライブのセットリストをアコースティックセットでやっただけというのではなく、アンプラグドならではのライブにしようという意図があったようである。そのため、セットリストも通常のライブとはかなり異なっていた。

演奏されたすべての楽曲のうち、この時点でシングルとしてヒットしていたのは「ネヴァーマインド」からの「カム・アズ・ユー・アー」のみであった。デビュー・アルバム「ブリーチ」から「アバウト・ア・ガール」、「ネヴァーマインド」から「カム・アズ・ユー・アー」「ポリー」「オン・ア・プレイン」「サムシング・イン・ザ・ウェイ」、「イン・ユーテロ」から「ペニーロイヤル・ティー」「ダム」「オール・アポロジーズ」と、全14曲のうち、オリジナル曲は8曲で、残りはカバー曲であった。

ヴァセリンズ「ジーザス・ダズント・ウォント・ミー・フォー・ア・サンビーム」、デヴィッド・ボウイ「世界を売った男」、ニート・パペッツ「プラトゥー」「オー・ミー」「レイク・オブ・ファイア」、レッドベリー「ホエア・ディド・ユー・スリープ・ラスト・ナイト」が、カバー曲の内容である。ミート・パペッツのクリス・カークウッドとカート・カークウッドは演奏で参加もしている。

ニルヴァーナはMTVに当日はゲストの参加もあることを伝えていて、よりメジャーでネームバリューのあるアーティストの出演も期待されていたようだ。

ニルヴァーナにとってアコースティックセットでのライブはまったく慣れたものではなく、リハーサルもそれほど上手くはいっていなかったという。特にカート・コバーンはひじょうにナーバスになっていたといわれているが、いざ本番となると素晴らしい演奏が実現し、バンドのまた別の魅力を引き出すことに成功したといえる内容になった。

ニルヴァーナの特徴の一つであり、パブリックイメージとしてはラウドでヘヴィーなサウンドというのが大きかったとは思うのだが、他の同系統のバンドと比べ明らかに卓越していて、それゆえにこのジャンルの音楽はそれほど好きではないのだがニルヴァーナだけは特別というようなファンが少なくはない理由でもあるのが、楽曲の良さである。「MTVアンプラグド」の演奏ではアコースティックセットであるがゆえに、楽曲そのものやカート・コバーンのシンガー・ソングライターとしての魅力を浮き彫りにしたともいえるのではないだろうか。

特にライブの最後に演奏されたレッドベリーのカバー曲「ホエア・ディド・ユー・スリープ・ラスト・ナイト」のパフォーマンスには鬼気迫るものがあり、カート・コバーンの遺書に自身の歌詞を引用されてもいたニール・ヤングも大絶賛したほどであった。

MTVはニルヴァーナにアンコールを求めたということだが、カート・コバーンは最後の曲を上回るパフォーマンスはできそうにないという理由で、断ったのだという。そして、MTVのスタッフも内心ではそれに納得していたようだ。

カート・コバーンが亡くなった後、MTVがこのアンプラグドの映像を再放送すると反響が大きく、海賊盤対策の意味合いもあって、CD化が実現したようなのだが、元々は2枚組ライブアルバム「ヴァース・コーラス・ヴァース」の一部として発売される予定だったのだという。結局、「MTVアンプラグド」の音源のみが「MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク」として発売され、全米アルバム・チャートで1位に輝くのだが、それ以外のライブ音源は当初とは内容を変え、1996年に「フロム・ザ・マディ・バンク・オブ・ウィシュカー」として発売され、こちらも全米アルバム・チャートで1位を記録している。

ニルヴァーナ「MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク」はポップ・ミュージック史においてリリースされたすべてのライブアルバムの中で、最も優れたものの1つとして評価されることになるのだが、このアルバムによってカート・コバーンのグランジ・ロック・バンドのフロントパーソンとしてのみではなく、シンガー・ソングライターとしての卓越した才能にもアクセスしやすくなっているようにも思える。