500曲で振り返る凡庸なポップソングリスナーの生涯 <第1回>

001. 帰って来たヨッパライ/ザ・フォーク・クルセイダーズ(1967)

「おらは死んじまっただ」という印象的なフレーズがテープ早回しのようなユニークなボーカルで繰り返される、コミックソングというかノベルティソング的な楽曲であり、当時、大学生であった加藤和彦がファッション雑誌「MEN’S CLUB」の読書欄で募集したメンバーたちによって結成されたフォークグループ、ザ・フォーク・クルセイダーズのメジャーデビューシングルである。

というか、というか解散記念に自主制作したアルバム「ハレンチ」の収録曲だったのだが、ラジオ関西の深夜番組「若さでアタック」で放送されるとローカル的に少し盛り上がり、ニッポン放送の深夜番組「オールナイトニッポン」でオンエアされると、その人気は全国区となった。

そして、1968年のオリコン年間シングルランキングで2位にランクインするほどの大ヒットを記録した。ちなみに1位は千昌夫「星影のワルツ」、3位はピンキーとキラーズ「恋の季節」である。

運動会でおなじみのオッフェンバック作曲「天国と地獄」や般若心経、ビートルズ「ハード・デイズ・ナイト」(当時の邦題は「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」)、ベートーベン作曲「エリーゼのために」などが引用されていることを知るのは後になってからであり、この曲を初めて聴いた頃はおそらく完全な子供であった。

母親の用事でどこかの家を訪問したときに、大人同士で話をしているあいだ、その家のきれいなお姉さんと2階の部屋で遊ぶようにいわれたのだと思う。そこでそのきれいなお姉さんにカセットテープで聴かせてもらったのが、この曲だったはずである。

家の外観も部屋の色も、きれいなお姉さんが着ていた洋服も、すべて白だったような気がするのだが、なにせ完全な子供だった頃の記憶なので、まったくもってあてにはならない。

とはいえ、これが私がポップソングを心地よいものとして認識した最初だったような気はする。

002. 時には母のない子のように/カルメン・マキ(1969)

寺山修司が主宰する劇団、天井桟敷の新人女優であったカルメン・マキのデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングでは5週連続2位となる大ヒットを記録した。ちなみにその間ずっと1位だったのは、由紀さおり「夜明けのスキャット」である。

とにかく暗く哀愁がただよっているのだが、絶妙な洗練をも感じさせる素晴らしい楽曲である。当時はアンダーグラウンド雰囲気のフォークソングとして大衆にアピールしたかもしれないのだが、このレコードが家にあったので、当時、完全な子供だった私はレコードプレイヤーで繰り返し再生しているうちになんとなく好きになっていったのであった。

イントロとエンディングに収録されている波の音は湘南の海でレコーディングされたものらしい。サウンドもボーカルも、とにかくなんだか切なくて物悲しく、このような気分に浸ることをなんとなく良いものとして幼少期にして認識していたような気がする。

003. フランシーヌの場合/新谷のり子(1969)

新谷のり子のデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高4位のヒットを記録した。「フランシーヌの場合はあまりにもおばかさん」という歌いだしではじまる、これもなかなかに暗い曲であり、おそらく親が買ったのであろうレコードが家にあり、完全な子供だった私はやはりレコードプレイヤーで繰り返し再生しているうちに、なんとなく好きになっていた。

歌詞の意味など当時はまったく理解していなかったのだが、ビアフラの飢餓に抗議して焼身自殺したフランス人女性、フランシーヌ・ルコントのことを歌った曲らしい。

新谷のり子自身も学生運動の闘士としても知られるタイプのシンガーだったらしく、この曲は先に挙げたカルメン・マキ「時には母のない子のように」と同様にアンダーグラウンドフォーク的に大衆からは受け止められていたようである。

家にはこういったタイプのレコードばかりがあったというわけでは特になく、水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」のような曲のレコードもあり、実際に幼少期の私はこれらもよく再生していたわけなのだが、なぜだか心に強く残っているのは暗くて切ない方ばかりだったということなのである。

004. 愛は傷つきやすく/ヒデとロザンナ(1970)

東京出身の男性、出門英とイタリア出身の女性、ロザンナ・ザンボンとのデュオがヒデとロザンナで、後に結婚もするのだが、この曲は5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝く大ヒットとなった。

そして、この曲もまた家にレコードがあったので幼少期にレコードプレイヤーで繰り返し再生しているうちになんとなく好きになった。

愛のデュエットではもちろんあるのだが、「たとえば二人で命をたてば 微笑みさえも消える」などと心中を連想させなくもない歌詞を含んだりもしている。

そして昭和歌謡的でありながら、絶妙な小洒落感がとても良く、この曲に偶然にも幼少期に出会ったことが、後のポップミュージックについての個人的嗜好に少なからず影響を及ぼしたのではないかとは感じられるのである。

005. 恋のダイヤル6700/フィンガー5(1973)

おそらく親が買ったレコードが家にあって、何度も再生しているうちになんとなく好きになったのではなく、テレビでパフォーマンスを視聴しているうちに主体的に好きになった最初のポップソングだったような気がする。

当時のフィンガー5の人気というのはとにかく絶大であり、テレビにもかなり頻繁に出演していたような気がする。沖縄出身の兄妹グループで、ジャクソン5を意識していたであろうことは後になってから知る。

別のグループ名であった上京当初は実は売れていなく、もう沖縄に帰ろうかとすら考えはじめていたというのだが、当時、沖縄はまだ日本に返還されてすらいないアメリカ領土だった頃の話である。

フィンガー5は自分たちと年齢が近いキッズグループであるという点がまずはとても良かったのだが、音楽的にもソウルミュージックの影響を受けた良質なポップソングを量産していたのであった。

これらを無自覚的にとても良いものとして享受できたのは、かなりラッキーなことだったのかもしれない。

日本のポップ・ミュージック史的には小泉今日子や慎吾ママ(香取慎吾)によるカバーバージョンも大ヒットした「学園天国」の方がおそらくポピュラーなような気もするのだが、当時の個人的なインパクト的には断然この「恋のダイヤル6700」であり、イントロの電話のベルの音、ドキドキしながらダイヤルを回す様を描写した歌詞など、リアルタイマーとしては史料的価値も高いように思える。

オリコン週間シングルランキングでは4週連続1位の大ヒットを記録した。