【1985年の千石・巣鴨・水道橋】研数学館

研数学館は国鉄や都営三田線の水道橋駅から少し歩いたところにあった、予備校である。神保町駅からもわりと近い。大学受験に失敗したため、1985年の4月からここに通うことにしたわけだが、いろいろな予備校のパンフレットを検討した上でここに決めた理由としては、歴史があってなんとなく信頼できそうという他力本願なものであった。当時の予備校では駿台予備校、代々木ゼミナール、河合塾などに人気があったのだが、頻繁に広告がされていたのは、当時、知的な外国人タレントというイメージでもあったケント・ギルバートがCMに出演していた志学塾である。「転ばぬ先の志学塾」とかいうキャッチコピーだったような記憶があるのだが、高校時代の同級生が入った結果、秋ぐらいに倒産していた。

それはそうとして、この研数学館からの紹介で、都営三田線の千石駅が最寄りだという大橋荘というところに住むことになった。浪人生でもちろん贅沢はいえないので、4畳半1間で風呂はなく、日当たりもそれほど良くはなかった。朝はテレビ東京の「おはようスタジオ」をつけながら、トーストにマーガリンを塗って朝食にしたりしていた。「おはようスタジオ」には、ぼんと正月というお笑いコンビが出ていたり、大西結花が「アラベスク・ロマネスク」という曲を歌ったりしていた。平日の朝からテレビでアイドルが見られるなんて、東京は良いところだなと感じた。

また、テレビでは地元では見たことがないCMがいろいろ流れるのも楽しくて良かった。たとえば、メガネドラッグのCMでは家来を引き連れた桃太郎が歩くアニメーションが流れるのだが、桃太郎の目つきが険しく、キジが少し遅れながらもついていくところなどが気になっていた。NHK教育テレビでで糸井重里が司会をしていた「YOU」という番組にも出ていたハーフタレントのマリアンが、「みんないけいけ、池袋~!」などとシャウトするビックカメラのCMにもインパクトがあった。レコードレンタル友&愛は高いステレオを持っているが、レコードはレンタルで済ませているというだけで、美女から「文化人~(はぁと)」などと言われてしまう。東京は良いところだな、と改めて実感させらたのであった。サングラスをかけたホッキョクグマのキャラクターがエルヴィス・プレスリー風に「いしかり はまなか ブーラブラ あとから かけとりゃ ホーイホイ」などと歌う、したっけラーメンのCMは見られないとしてもである。

大橋荘から研数学館に行くには都営三田線に乗らなければいけないのだが、地下鉄に乗るという行為そのものに都会を感じた。千石から水道橋までは3駅であり、間に白山と春日がある。朝に通勤・通学ラッシュ時にはものすごい数の人たちが乗り込む。テレビなどで見た満員電車そのものである。これにもまずは衝撃を受けたのだが、思い返せば高校時代の土曜日に旭川郊外の高校から市街地に向かうバスも実はまあまあ混んでいた。南大門という焼肉店で500円のユッケジャンだけを食べに行くというムーブメントが一時的に仲間内で起こったわけだが、あれは一体、何だったのだろう。

水道橋といえばいくつもの大学や予備校などがあるため、朝から学生たちでごった返している。そして、後楽園球場があることでも知られている。後楽園球場には1980年の夏休みに、父に東京に連れてきてもらった時に一度行って、日本ハムファイターズと西武ライオンズとの試合を観戦していた。試合前に新人アイドル歌手の柏原よしえがグラウンドで、デビュー曲の「No.1」を歌っていた。日本ハムファイターズには自分と同姓の柏原という選手がいる、というようなことも言っていた。後に阪神タイガースなどでも活躍する柏原純一選手である。また、後楽園ホールでは「お笑いスター誕生‼︎」の公開収録も行われていて、観覧にも行った。まだ無名であったウッチャンナンチャンが出演していたり、エレベーターでマジシャンのブラック嶋田と一緒になったりして軽く感激した。

研数学館のクラス分けは学力別になっていたと思うのだが、最初は私立文系の上から3番目のクラスで、途中から2番目に変わったような気がする。当初、たまたま隣に座っていた男子と少しずつ話をするうちに仲よくなり、千葉県にあった彼の家に泊まりに行ったこともあった。なぜか近所の空き地でキャッチボールなども、していたような気がする。研数学館のすぐそばに立ち食いそば屋のような店があり、彼とその友人がそこで食事をするというので一緒に入り、コロッケそばというものを生まれて初めて食べた。研数学館から水道橋駅に行くまでの間に旭屋書店があって、そこにもわりと寄ることが多かった。橋本治の「秘本世界生玉子」を見つけて、買ったことなどが思い出される。また、確かゴールデンウィークに後楽園球場で行われた読売ジャイアンツと阪神タイガースの試合を観戦しに行ったのだが、試合前から当日券を求めて外で待つ間に、「ビックリハウス」のエンピツ賞も受賞した鮫肌文珠の「父しぼり」という本を読んでいて、これも旭屋書店で買ったはずである。プロ野球の話でいうと、この年は阪神タイガースが21年ぶりの優勝を果たし、ひじょうに盛り上がった。個人的には当時、19歳だったので、生まれて初めての優勝ということになる。旭屋書店には「月刊タイガース」はもちろん、阪神タイガース関連の本やユニフォームのレプリカなどもいろいろ置かれたりしていて、読売ジャイアンツの本拠地の近くだというのに、わりと攻めていてとても良かった。

お盆あたりには短い間、実家に帰省したりもしていたのだが、夏期講習には出席していた。「お笑いスター誕生!!」でグランプリを獲得したお笑いコンビのとんねるずは、しばらくしてから「オールナイトフジ」出演をきっかけにブレイクし、この年の春からはじまった「夕やけニャンニャン」などによって、その人気は全国区になっていった。その勢いもあって、7月7日からは冠番組の「コラーッ!とんねるず」が日本テレビ系ではじまったのだが、日曜の17時から15分間という微妙な時間帯であった。研数学館の夏期講習が行われていた教室で男子受講生たちが、とんねるずの人気は一時的なもので、ビートたけしのように長続きはしないだろう、というようなことを言っていた。ビートたけしは日曜の夜に放送されていた、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」が大当たりしていた。

研数学館に都営三田線でばかり行くのにもワンパターンで飽きてきたので、時にはバスを使うようにもなった。千石の富士銀行の前から、東洋大学の近くなども通って水道橋まで行くバスに乗ることができた。いつも同じ時間にバスを待っている小学生やおばあさんなどがいたのだが、東京の小学生が真冬でも半ズボンを履いていることに驚かされた。池袋のビックカメラで生まれて初めてウォークマンを買ったこともあり、この頃は音楽を聴きながらバスで移動することが楽しくなってもいた。ザ・スタイル・カウンシル「アワ・フェイヴァリット・ショップ」などは、特によく聴いていたと思う。

夏の終わりぐらいからは私立文系の最も成績が良いクラスの人たちと仲よくなったりもして、食事に行ったり、後楽園でボーリングをやったりするようになった。「熱中時代」の水谷豊が演じる北野広大先生と船越英二が演じる校長先生と太川陽介が演じる育民のやり取りのものまねが受けたことがきっかけだったのだが、「お笑いスター誕生!!」に出演していたザ・ちゃらんぽらんのパクりであった。水道橋から神保町にかけては、手頃な定食屋などがたくさんあって、そういったところで昼食をとっていた。白十字という独特な雰囲気の喫茶店や、森永LOVEなどもよく利用したような気がする。旭屋書店が入ったビルの2階にもカフェレストラン的な店があり、たまに行っていたのだが、いつもつるんでいた仲間うちの1人が、シンビーノなどという気取った飲料をいつも注文していた。彼はジャケットを身に着けていることがひじょうに多く、ダンディーな雰囲気を漂わせてもいたため、「高島平のブライアン・フェリー」と勝手に呼んでいた。甲斐バンドがやたらと好きで、カセットテープなどを半ば強制的に聴かされたりもしていたのだが、「アップルパイ」という曲を特に推していた。受験が終わった後、葛飾区のグラウンドで草野球をしていた時に、甲斐バンドの活動休止を聞かされてショックを受けていた。

神保町のレコード店で、とある新人アイドル歌手のポスターが貼られていたのだが、それを見た瞬間に「高島平のブライアン・フェリー」が黙りこみ、よく聴くと以前に付き合っていたということであった。東京はすごいところだな、と改めて思わされた。神保町のいろいろな店を開拓している中で、シャンバラというスピリチュアルな店があったりもしておもしろかった。「高島平のブライアン・フェリー」の自宅である、団地のようなところにも遊びにいったのだが、大友克洋の漫画みたいでとてもカッコよかった。どこかの店でたまたま見つけた「グバーナ」という菓子パンの名称がやたらと気に入って、意味もなく連呼していたのだが、ついには「グバーナ・サンセット」なる歌詞までつくってしまった。それで、これにメロディーをつけようということになったのだった。「高島平のブライアン・フェリー」の部屋でギターで曲をつくりはじめたのだが、どうしても甲斐バンドのようなテイストのメロディーになってしまうのだった。個人的には矢沢永吉「LAHAINA」あたりのイメージで、歌詞を書いたのだが。「シャ・ナ・ナでツイスト&シャウト」というフレーズは、平塚から通っていた男子から聞いた高校時代のエピソードをベースにしていた。山瀬まみが地元のすかいらーくでアルバイトをしていた、というようなことを言っていた。中学生の頃に修学旅行のお小遣いを節約して買った安価なキーボードを、平塚にある彼の家に置いてきてそれっきりである。

「高島平のブライアン・フェリー」の母は夕方になると歌舞伎を見に行くなどと行って、寿司屋のカタログのようなものと現金を渡して外出していった。そして、「高島平のブライアン・フェリー」は、電話で上等な寿司を注文していた。東京の親というのはこんな感じなのかと、軽く衝撃を受けた。お土産に肉の万世のチャーハンの素をもらって帰ったのだが、これも驚くほど美味しくて感激したのであった。

研数学館の別館のようなところに自習室があり、そこで夕方ぐらいまで自習することもあったのだが、外が暗くなってくると、窓に映る自分たちの姿を眺めて感傷的な気分に浸ることなどもあった。このような感じではあったのだが、志望校にはなんとか合格することができたのでよかった。研数学館は2000年3月で予備校としての業務を終了した後も、建物は残っていて、かつて自習室だったところが居酒屋の和民になっていたこともあった。しかし、その建物も2018年には解体されてしまった。それを知ったのは、老舗とんかつ店のいもやが閉店するというので、最後に訪れた時であった。店の外で待っている間、「ミュージック・マガジン」のECD特集を読んでいた。