シャニース「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」【名曲レヴュー】
1992年3月8日に東京は六本木のJ-WAVEで放送された「TOKIO HOT 100」では、先週に引き続き、シャニースの「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」が1位であった。2月2日付のチャートにおいてマイケル・ジャクソン「ブラック・オア・ホワイト」にかわって1位になってから、この週で6週連続となる。この記録はこの後もさらに伸びて、4月5日付のチャートでワークシャイ「トラブル・マインド」に抜かれるまで9週連続1位、この年の年間チャートにおいても。マライア・キャリー「アイル・ビー・ゼア」、ボビー・ブラウン「ハンピン・アラウンド」などを抑えて見事1位に輝いたのであった。
「TOKIO HOT 100」ではJ-WAVEでのオンエア回数に加え、WAVE、タワーレコード、HMV、ヴァージン・メガストアといったCDショップの売上を集計したチャートを発表していたものと記憶している。山野楽器や新星堂、当時はまだたくさん存在していた個人経営の街のCDショップでの売上や、AMラジオでの放送回数は換算されていなかった。それで、たとえばオリコン週間シングルランキングなどとはかなり異なったチャートになってくるわけだが、東京のトレンディーでコンサヴァティヴな音楽ファンによく聴かれている音楽のチャートという感じでもあった。
この曲は東京のトレンディーでコンサヴァティヴな音楽ファンに受けていただけではなく、アメリカやイギリスでもちゃんとヒットしていて、いずれの週間シングル・チャートでも最高2位を記録している。全米シングル・チャートではジョージ・マイケル&エルトン・ジョン「ドント・レット・ザ・サン・ゴー・ダウン・オン・ミー」とライト・セッド・フレッド「アイム・トゥー・セクシー」、全英シングル・チャートではシェイクスピアズ・シスター「ステイ」が1位を阻んでいた。
日本ではバブル景気がこの前の年には終わっていて、バブルの崩壊で安価で栄養があっておいしいもつ鍋がブームなどといって、中目黒に食べにいく人達も少なくはなかったのだが、一般大衆的にそれほど深刻に受け止められていたわけではなかった。シャニースの「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」といえば、あの「トゥルットゥットゥ、トゥールルル」というようなキャッチーで性格が曲がっていなさそうなフレーズがひじょうに印象的であり、当時、カーターUSMなどを泣きながら聴いていたUKインディーキッズであったとしても、その中毒性は認めざるをえなかった記憶がある。
近田春夫&ビブラトーンズ「AOR大歓迎」でいうところの、「いい女ってなんでこっちに来ないの」という切実なフレーズにも通じることなのだが、土曜日の深夜だというのにテレビ東京の「水着でKISS ME」などを見ている人達には、かなり刺さってもいたように感じられる。「水着でKISS ME」の「水着美女図鑑」のBGMとして、シャニース「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」が実際に使われていたかどうかは定かではないのだが、けして使われていたとしてもおかしくはない、という感じは確実にある。特に原久美子の回ならばこの上ないのだが、少なくともその回ではかかっていなかったような気もする。
この世にはあるので手が届くかもしれないと錯覚はするのだが、実は届かないことなどはあらかじめ決まっているキラキラした世界を想像させてくれるのがポップスの魔法でもあったとするならば、これなどは確実にそうだったといえる。それで、シャニースのこの曲が入ったCD「インナー・チャイルド」を買うことはないのだが、チャールズ&エディ「ウドゥ・アイ・ライ・トゥ・ユー」、ライト・セッド・フレッド「ディープリー・ディッピー」などを目当てに買った「NOW That’s What I Call Music 1992」というコンピレーションCDにこの曲が入っていると得をしたような気分になる。
シャニースは14歳だった1987年に「ディスカヴァリー」でモータウンからデビューし、「インナー・チャイルド」は2作目のアルバムであった。プロデューサーはホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーのデビューアルバムにもかかわったナラダ・マイケル・ウォルデン、「アイ・ラヴ・ユア・スマイル」にはブランフォード・マルサリスのサックスや、ジャネット・ジャクソンと当時の夫であったレン・エリゾンドの笑い声などをフィーチャーしてもいる。