ラヴィン・スプーンフル「サマー・イン・ザ・シティ」について。

1966年8月13日の全米シングル・チャートにおいて、ラヴィン・スプーンフル「サマー・イン・ザ・シティ」がトロッグス「恋はワイルド・シング」に替わって1位になった。同じ週のアルバム・チャートではハーブ・アルパートとティファナ・ブラスが「ティファナ・タクシー」「蜜の味~ビタースウィート・サンバ」で1位、2位を独占し、圧倒的な強さを見せ、3位にはローリング・ストーンズのベストアルバム「ビッグ・ヒッツ(ハイ・タイド・アンド・グリーン・グラス)」がランクインしている。

タイトルがあらわしている通り、この曲は都市における夏をテーマにしているのだが、具体的にはラヴィン・スプーンフルが活動拠点にしていたニューヨークがモチーフになっているようだ。歌詞にインスパイアをあたえたのは中心的なメンバーでソングライターでもあるジョン・セバスチャンの弟で、当時まだ14歳だったマーク・セバスチャンの言葉だったという。ニューヨークのワシントンスクエアにある両親のアパートの15階に住んでいたというマーク・セバスチャンは、ハドソン川を見下ろしながら都市の夜に起こりうるロマンスに対するファンタジーをかき立てられていたのだという。

曲のはじめの方では夏の都市における昼間について歌われていて、人々は暑さで死にかけているように見え、マッチの先よりも熱そうな歩道を歩いている。しかし、夜となればそこはまた違った世界で、女の子を探して夜通し踊ろう、というような内容である。間奏では車のクラクションや工事のノイズのような効果音が入っていて、これが夏の都市の感じをうまく出してもいる。

この曲は全米シングル・チャートで3週連続1位を記録し、年間チャートでは11位にランクインした。夏をテーマにした曲の代表として、その手のリストに挙げられていることもひじょうに多い印象がある。

私がこの曲を初めて聴いたのはヒットから20年後の1986年、やはり夏のことであった。大学の夏休みで帰省したものの、旭川の実家にいてもそれほどやることがなく、高校時代の友人も多い札幌に遊びにいったのだった。玉光堂の輸入盤コーナーを見ていると、「THE SUMMER ALBUM」というタイトルのレコードが目に入った。ヒット曲を多数収録してよく売れていたコンピレーションアルバム「NOW」シリーズのロゴも入っていた。ジャケットの裏面を見ると、知らない曲も多いが夏をテーマにした曲がいろいろ収録されているようで、迷うことなくレジに持っていったのであった。ヤング・ラスカルズ「グルーヴィン」、アイズレー・ブラザーズ「サマー・ブリーズ」、キンクス「サニー・アフタヌーン」、スモール・フェイセス「レイジー・サンデイ」などと共に、「サマー・イン・ザ・シティ」もこの2枚組のレコードで初めて知った。

すすきのの近くにあった友人の部屋で少しの間、寝泊りしていて、「おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!」ととんねるずが主演した「そろばんずく」の2本立てや、高橋源一郎の小説を原案とした「ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け」などを見に行ったりしていた。原稿用紙に手書きの文字でアイドルポップスについての文章を書いたりして、夜には友人が居酒屋のアルバイトに出かけた。テレビでMTVなどを見ていたのだが、マドンナ「パパ・ドント・プリーチ」、ピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」などのビデオがよくかかっていた記憶がある。

その間、小田急相模原のワンルームマンションは岡山出身で社交ダンス部に入っている友人に貸していた。小田急相模原の駅のそばにあったアイブックスで佐野元春が表紙の「ロッキング・オンJAPAN」創刊号を買って部屋に戻ると、留守中にわりと怠惰な使われ方をされていたことが分かった。FM横浜をつけながら、疲れて床に寝転がっていたのだが、なんとなく目が覚めてくるとジャネット・ジャクソンの「あなたを想うとき」がかかっていて、再生のムードを感じたりもした。

その後、「サマー・イン・ザ・シティ」をFENでも聴くことがあった。小田急相模原の近くにはアメリカ陸軍のキャンプ座間もあり、駅前のマクドナルドなどでアメリカ人と見られる家族を見かけることも少なくなかった。後期の授業がはじまり、青山学院大学厚木キャンパス近くの駐車場から友人の車で帰宅中であった。札幌はすでに夜にはもう半袖では涼しいぐらいだったのだが、厚木や相模原はまだ暑かった。それで、私がお気に入りの曲ばかりを入れたカセットテープをカーステレオで流していたりもしたのだが、それに「サマー・イン・ザ・シティ」も入っていた。あやふやな季節はそれからもしばらくは続いていったのだが、何を夢見ていたのかについてはいつの間にかすっかり忘れてしまった。

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