ユーリズミックス「スウィート・ドリームス」について。

1983年9月3日付の全米シングル・チャートでは、ユーリズミックス「スウィート・ドリームス」が4週連続2位の末に、初の1位に輝いていた。その前の週まではポリス「見つめていたい」が圧倒的な強さを見せ、8週連続1位を記録していた。このため、エディ・グラント「エレクトリック・アヴェニュー」は5週連続2位を記録したものの、結局は1位になれなかった。

この年の全米ヒット・チャートを特徴づける出来事といえば、マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」から「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」が大ヒットしたことや、デュラン・デュランやカルチャー・クラブといったイギリスの新しいアーティストがブレイクしたことなどが挙げられるのだが、共通して言えるのはいずれも映像に力を入れていたということである。アメリカでは1981年に開局した音楽専門のケーブルテレビチャンネル、MTVが流行し、ヒット・チャートにも影響を及ぼしはじめていた。日本の音楽ファンにとっては、やはり1981年に放送を開始したテレビ朝日系の「ベストヒットU.S.A.」の存在はひじょうに大きかったのではないだろうか。

イギリスでは1981年の時点でヒューマン・リーグ「愛の残り火」やソフト・セル「汚れなき愛」などがシングル・チャートで1位になっていたように、すでにシンセ・ポップがメインストリームとなっていたのだが、その頃、アメリカではまだ産業ロックが全盛であった。MTVの影響などによりイギリスの新しいアーティストがアメリカでも次々とブレイクする、いわゆる第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンが勃発するわけだが、その中にはシンセサイザーやドラム・マシンを効果的に用いたものもひじょうに多かった。そして、全米シングル・チャートにもシンセ・ポップがランクインしているのが当たり前になっていった。

当時、NHK-FMで日曜の夜に「リクエストコーナー」という番組を放送していて、全米や全英シングル・チャートにランクインした曲をのーかっとで放送していた。私はこの番組で放送された曲をカセットテープに録音してよく聴いていたのだが、全米や全英シングル・チャートにランクインしていることだけが選曲基準なので、ジャンルも関係なく、ひじょうにランダムな曲順でいろいろな曲が並んでいたのだった。ユーリズミックスの「スウィート・ドリームス」もそんな中の1曲であり、それまでまったく聴いたことのないアーティストではあったのだが、なんとなく新しくて気に入っていた。

「スウィート・ドリームス」が全米シングル・チャートに初登場してから12週目にしてトップ10入りしたのは1983年7月30日付においてであり、それから5週間後に1位になるまでの間、デュラン・デュラン「プリーズ・テル・ミー・ナウ」、マッドネス「アワ・ハウス」、ヒューマン・リーグ「ファッシネイション」、カルチャー・クラブ「アイル・タンブル・4・ヤ!~君のためなら」といった第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン絡みの楽曲も10位以内にランクインすることがあった。

この頃は夏休み中も「ベストヒットU.S.A.」を熱心に見ていたため、「スウィート・ドリームス」のミュージックビデオもしっかり覚えていた。海外のアーティストを映像で見ることはまだそれほどありふれてはいなかったため、ビデオに録画した「ベストヒットU.S.A.」を何度も繰り返し見ることもあった。「スウィート・ドリームズ」の最大の魅力はその新しさを感じさせるシンセ・サウンドと、アニー・レノックスのボーカルである。冷たそうな印象をあたえながらも、実はなかなかソウルフルというところがとても良かった。アニー・レノックスはビデオを見るとオレンジ色の短い髪が特徴的で、スーツを着用していた。何らかの組織の権力者のようでもあり、一方、デイヴ・スチュワートはコンピューターのキーボードのようなものを叩いていた。

これはまだ80年代前半だった当時、組織の権力者は男性である場合がまだまだひじょうに多く、女性はタイプライターを打つような職種に就いている場合が多いような印象があったが、その性別を逆転させるという意図もあったのだろうか。特に深い意味を考えたわけでもなかったが、その辺りもいま考えると新しかったのかもしれない。アニー・レノックスとデイヴ・スチュワートは元々、ザ・ツーリストというバンドに所属していて、恋人同士だった時期もあったようだ。やがてプライベートではカップルを解消するのだが、ユーリズミックスとして音楽は2人で作り続けた。

「スウィート・ドリームス」は当時のアニー・レノックスの精神状態を反映したひじょうに暗い内容の歌詞になっているということで、途中のやや前向きにも取れるフレーズは、デイヴ・スチュワートが無理やり入れたものらしい。結果、それがなんとなくダークな雰囲気が漂ってはいるのだが、実際に新しくてとてもキャッチーな曲という印象をあたえることに成功したのかもしれない。とにかくこのどこかエキセントリックにも感じられながら、ポップスとしてひじょうに強いこの曲は大ヒットして、当時の音楽ファンの印象に残ることとなった。

世界中を旅したり七つの海を渡ったというような歌詞のフレーズやミュージックビデオでの演出がスケールの大きさを感じさせ、誰もが何かを探しているというようなとおころも汎用性がひじょうに高いように思える。この曲をきっかけにユーリズミックスの知名度は上がり、この後、ヒットを連発していくようになる。

「スウィート・ドリームス」が全米シングル・チャートの1位だったのは1週間だけで、翌週にはマイケル・センベロの「マニアック」がその座を奪取した。映画「フラッシュダンス」のサウンドトラックからシングル・カットされたダンス・ポップで、この作品からはアイリーン・キャラ「フラッシュダンス~ホワット・ア・フィーリング」がすでに1位を記録していた。この曲は日本のオリコン週間シングルランキングでも1位に輝いていたのだが、海外アーティストによる作品では80年代に限るとノーランズ「ダンシング・シスター」とこの曲の2曲のみが記録している。

「スウィート・ドリームス」が全米シングル・チャートで1位に輝いた1983年9月3日、旭川市内のとある高校では学校祭の企画のために、全国生徒にいま好きな曲についてのアンケートが実施されていた。邦楽では杏里「CAT’S EYE」、洋楽ではビリー・ジョエル「あの娘にアタック」が1位であった。当時、16歳だった私が企画して集計していたので、これはよく覚えている。レコードコンサートでリクエストな可能な曲のリストには「スウィート・ドリームス」も入れていたと思うのだが、実際にかけたかどうかはよく覚えていない。