ザ・スミス「ザ・スミス」【名盤レヴュー】
ザ・スミスのデビューアルバム「ザ・スミス」は1984年2月20日にリリースされ、全英アルバム・チャートで初登場2位を記録した。1位を阻んだのはトンプソン・ツインズの4作目のアルバム「ホールド・ミー・ナウ(原題:Into The Gap)」である。このアルバムからは「ホールド・ミー・ナウ」がイギリスのみならずアメリカでもヒットして、全米シングル・チャートで最高3位を記録していた。いわゆる第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの時代である。
1981年にアメリカで開局したケーブルテレビチャンネル、MTVは音楽のビデオばかりを流すというものだったのだが、これが若者を中心にひじょうに受けるようになり、やがてヒットチャートにも影響を及ぼしていった。イギリスのニュー・ウェイヴやシンセポップのアーティストやバンドの中には早くから映像に力を入れているケースが多かったことから、これらがMTVでもよくオンエアされ、全米シングル・チャートにもランクインするようになっていった。
80年代のはじめには産業ロックやAOR、カントリーなどが目立っていた全米シングル・チャートだったが、1982年にヒューマン・リーグ「愛の残り火(原題:Don’t You Want Me)」がイギリスから約半年遅れて1位になったりソフト・セル「汚れなき愛(原題:Tainted Love)」がロングヒットを記録したりしたのを皮切りに、翌年にはデュラン・デュラン「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」、カルチャー・クラブ「君は完璧さ(原題:Do You Really Want To Hurt Me)」をはじめ、イギリスの主にニュー・ウェイヴやシンセポップのバンドやアーティストが次々とランクインするようになっていく。いずれも映像を効果的に用いていることが特徴であり、この現象が第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンなどと呼ばれるようになった。ちなみに第1次のブリティッシュ・インヴェイジョンは60年代に、ビートルズやローリング・ストーンズをはじめとするイギリスのバンドやアーティストが全米ヒットチャートを席巻した時のことを指す。
イギリスでザ・スミスという新しいバンドの人気が高まっているらしい、というような情報は「ロッキング・オン」などによって日本の音楽ファンにも伝えられていたわけだが、当時の全英シングル・チャートでの記録を見ると、1983年5月13日にリリースされたデビューシングル「ハンド・イン・グローヴ」が最高124位、その約5ヶ月後の「ジス・チャーミング・マン」が最高25位、年が明けて1984年1月16日に発売された「ホワット・ディファレンス・ダズ・イット・メイク?」が最高12位と、着実に順位を上げていたことが分かる。
これぐらいの順位まで上ってくると、もはや一部のインディーロックファンの間で人気という感じではすでになく、最新のポップヒットという感じで紹介されるようになったりもする。NHK-FMで毎週日曜の夜に放送され、アメリカやイギリスのシングル・チャートにランクインした曲を詳しい情報などはほとんど加えずに、ノーカットで流し続けるだけという素晴らしい番組「リクエストコーナー」でも選曲され、個人的にはそれが初めて聴いたザ・スミスの音楽だったと思う。
当時はシンセポップが全盛でもあったのだが、一方でアズテック・カメラやエヴリシング・バット・ザ・ガールのネオアコースティックな音楽が新しく感じられたりもしていた。ザ・スミスの「ホワット・ディファレンス・ダズ・イット・メイク?」はシンセサイザーやドラムマシンなどは使っていないバンドサウンドなのだが、リズムがなんだかズンドコしていたりボーカルがあまりにも独特であったりして、なんとなく普通とは違うなという印象ではあった。しかし、最新のサウンドであるようには思えなかったし、イギリスでそれほど人気がある理由についてもよく分からない状態ではあった。
イギリスではレーベルを越えたヒット曲の数々がとにかくたくさん入っているコンピレーションアルバム「NOW That’s What I Call Music」の第1弾が1983年11月28日に発売され、全英アルバム・チャートで1位に輝く大ヒットとなっていた。この情報は音楽雑誌などで知っていて、今日と同じく当時から音楽マニアなどではなく単なる軽薄なミーハーであった私にとっては夢のようなコンテンツであった。地元のレコード店にある輸入盤コーナーではこれを見つけることができず、悲しい思いとあきらめの気分に打ちひしがれていたのだが、翌年には旭川の平和通買物公園にあったミュージックショップ国原にもこれのシリーズ第2弾が入荷していた。裏ジャケットの曲目を見ると、様々なジャンルのヒット曲の数々が節操もなくいろいろと詰め込まれていて、これはぜひ手に入れなければという気分になったのだが、あいにく持ち合わせていた現金が不足していて、たまたま出くわした同級生の女子に借りてまで買ったことが思い出される。
クイーン「RADIO GAGA」、ネーナ「ロックバルーンは99」、シンディ・ローパー「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン(当時の邦題は「ハイスクールはダンステリア」)、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド「リラックス」、デヴィッド・ボウイ「モダン・ラヴ」などと共に、ザ・スミス「ホワット・ディファレンス・ダズ・イット・メイク?」もハワード・ジョーンズ「ホワット・イズ・ラヴ?」とフィクション・ファクトリー「フィールズ・ライク・ヘヴン」との間に収録されていた。
「ザ・スミス」は当初、ティアドロップ・エクスプローズの元ギタリスト、トロイ・テイトのプロデュースでレコーディングされた。ライブにおけるバンドの演奏をできるだけ生かそうとしたその方向性をギタリストでソングライターのジョニー・マーなどはひじょうに気に入っていたようなのだが、出来上がったものはあまり良くはなかったという。その原因となったのは、とても暑かったといわれるその年のイギリスの夏に地下のスタジオでレコーディングされたことであり、演奏はいまひとつで楽器のチューニングすらままならなかったようだ。
その後、BBCのスタジオライブに出演した際に出会った音楽プロデューサーのジョン・ポーターにリミックスを依頼しようとトロイ・テイトのプロデュースでレコーディングされた音源を渡したところ、あまりに酷すぎるため、再レコーディングが必要だということになった。そうした紆余曲折の末に、やっと完成したのであった。このアルバムのサウンドプロダクションについては、バンド演奏の生々しさがあまり生かされていないとか、後にコンピレーションアルバム「ハットフル・オブ・ホロウ」に収録されたBBCでのライブレコーディングの方が良いのではないかという意見もあるのだが、概ね高評価の印象はある。いまやザ・スミスの最も優れたアルバムといえば「クイーン・イズ・デッド」というのがコンセンサス化しているのだが、「ローリング・ストーン」誌が1980年代の終わりに発表した年代ベストアルバムのリストには、「ザ・スミス」だけが選ばれていた。キーボードでスクイーズなどの元メンバーで、後にマイク&ザ・メカニックスで成功するポール・キャラックが「リール・アラウンド・ザ・ファウンテン」など3曲で参加している。
イギリスの新しいバンドとはいえ、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン勢とは音楽性がかなり異なっていたこともあり、全米シングル・チャートにランクインするようなことはなかった。モリッシーの自己憐憫的な歌詞は性的に満たされていない10代を中心とするインディーロックファンにひじょうに受け、やがてカリスマ化していくようになるのだが、様々なジャンルの音楽に精通したジョニー・マーによるソングライティングやギタープレイ、アンディ・ルーク、マイク・ジョイスのリズム隊による演奏力も特徴となっていた。地元マンチェスターのローカル色を強く感じさせるところがあったり、享楽的な80年代のムードに対するカウンター的な文学性など、オリジナリティーの塊ともいえる魅力はこのデビューアルバムの時点ですでにじゅうぶんに発揮されてはいる。
この後、短いバンドの活動期間の中でさらに優れたアルバムが複数リリースされたことによって、影が薄くなっているところはおそらくあるような気がするのだが、このアルバムそのものもかなり良い。
「ジス・チャーミング・マン」は当初、イギリスでリリースされたオリジナル盤には収録されていなく、それこそが正しいトラックリスティングだとされているのだが、アメリカ盤には当初から収録されていたり、ある時期以降に再発されたり配信されたバージョンにはやはり6曲目に入っていることから、いまではすっかりこれに慣れてしまったし、別にこれでも良いのではないかという気がすでにさらに以前からしてはいるのだが、やはりそれは違うのではないかという熱心なファンも少なくはないのかもしれない。