ブルース・スプリングスティーン「トンネル・オブ・ラヴ」について。
ブルース・スプリングスティーンの8作目のアルバム「トンネル・オブ・ラヴ」がリリースされたのは1987年10月9日で、あの大ヒットしたボーン・イン・ザ・U.S.A.」から約3年4ヶ月振りのオリジナルアルバムである。
音楽評論家で後に「明日なき暴走」をプロデュースするジョン・ランドーが「ロックの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーン」というようなことをいったのが1974年で、それからずっと注目をあつめ、レコードもひじょうに売れていたのだが、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の大ヒットがもたらしたものというのは、またレベルが違っていたように思える。
アルバムそのものもものすごく売れたのだが、全米シングル・チャートで自己最高となる2位を記録した「ダンシング・イン・ザ・ダーク」をはじめ7曲がシングル・カットされ、そのいずれもがトップ10入りするというすごいことになっていた。ちなみにそれまでブルース・スプリングスティーンが全米シングル・チャートで10位以内に入ったのは、1980年にリリースされた「ハングリー・ハート」だけだったのだから、これがいかに大躍進だったかということが分かるというものである。
1985年にリリースされ、大ヒットしたUSAフォー・アフリカのチャリティー・シングル「ウィ・アー・ザ・ワールド」にもブルース・スプリングスティーンは参加していたのだが、その迫力のあるソロ・パートは楽曲の山場といってもよく、日本のサラリーマンがふざけてカラオケで歌う時などにもデフォルメしたものまねの対象になりがちであった。とにかく労働者階級的なメッセージ性の高いロックを激しく拳を振り上げて歌っているというイメージが強く、ライブが長時間におよぶことでも知られていた。
日本でもひじょうに人気が高く、1985年の初来日公演もひじょうに盛り上がったといわれている。お笑い芸人時代の竹中直人が英語の曲を日本語に訳して歌うネタがあるのだが、「ウィ・アー・ザ・ワールド」を「私たちは世界~、私たちは子供たち~」などと歌うのと同様にブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・U.S.A.は「ア~メリカ生まれさ~」と歌われ、それがお茶の間のテレビで流れていた。
「トンネル・オブ・ラヴ」までオリジナル・アルバムは出なかったのだが、1986年にはLPレコード5枚、CD3枚におよぶライブ・アルバム「The ”Live”1975-1985」をリリースし、これも全米アルバム・チャートで1位になってしまうという、おそるべきアーティスト・パワーであった。このアルバムからはエドウィン・スター「黒い戦争」のカバーがシングル・カットされ、最高8位を記録している。
そして、久々のニュー・アルバム「トンネル・オブ・ラヴ」だが、ジャケット写真でブルース・スプリングスティーンは白い車の前に黒のスーツを着てたたずんでいる。ブルース・スプリングスティーンといえば、白のTシャツにブルージーンズで、汗まみれになりながら労働者階級的なメッセージ性の高いロックを歌っている、そのようなイメージが強かったはずなのだが、これにはやや意表を突かれたのであった。「ボーン・インザ・U.S.A.」の大ヒットによって、さらにスケールの大きな富と名声を手に入れ、AOR的な方向に行ってしまったのか。そんなはずはないだろうと分かってはいたものの、このジャケット写真だけを見るとそんな気もしてくるというものであった。
そして、すっかり秋めいた東京は六本木WAVEで、私は「トンネル・オブ・ラヴ」のレコードを買ったのだった。この頃はもうすでにCDプレイヤーを購入していたのだが、気分しだいでレコードを買ったりCDを買ったりしていた。
1曲目に収録された「エイント・ガット・ユー」は音数が少なく、ほとんど弾き語りといってもいいようなシンプルな曲で、ボ・ディドリー的な感覚も感じられる。当時のブルース・スプリングスティーンに対し、成功者であるにもかかわらず、労働者階級的な曲を歌っているところに欺瞞性を感じる、などといっている友人がいて、そういった意見は少なからずあったのではないかと思えるのだが、この曲の歌詞ではそういった世間からの見え方を逆手に取ったのか、自分がいかに何もかもを手に入れているかということを、誇張したユーモアも交えて歌っている。そして、オチはそんな何でも持っている自分が、「君」だけは手に入れることができないというものである。
このアルバムにはEストリート・バンドのメンバーが参加している曲もあるが、全体的にバンド・サウンドにはなっていない。かといって、「ネブラスカ」のように全編、弾き語りなのかというとそういうわけではまったくない。大人のロックという意味でいうならば、AORの本来の意味に近いのかもしれないが、日本でいうところのそれとはかなり違っている。あくまでロックではあるのだが、フォーク的なテイストも強く、歌われている内容は恋愛についてなのだが、それはけして楽しく浮かれているタイプではなく、混乱して迷っている場合がほとんどだといえる。
このアルバムは当時、結婚していた女優の妻にも捧げられているが、リリースの翌年には離婚している。先行シングルは「ブリリアント・ディスガイス」で、全米シングル・チャートで最高5位を記録した。「ブリリアント」といえば田中康夫が「なんとなく、クリスタル」の次に発表した小説「ブリリアントな午後」でかろうじて知っていた単語だが、輝かしいとか華やかなとかそういった意味をもっている。「ディスガイス」は偽装とか変装とかそういった意味の単語である。この曲は夫婦かあるいは恋人同士が一緒にはいるのだが、お互いを欺きあっていて、しかもどうやらその気配に気がついてもいるというような、絶妙に微妙な状態を描いた曲である。
ティーンエイジャーのセンチメンタルだったりドラマティックだったりするロマンスを歌うのがかつてのポップ・ソングだったような気がするのだが、ついにこのような感覚を歌うまでに成熟したということだろうか(まあ、それ以前にもエルヴィス・プレスリー「サスピシャス・マインド」をはじめ、そういった曲もあったわけだが)。
若者の感覚からすると、そんな関係ならばすぐにやめてしまえばいいのにとか、そのようなことを単純に考えてしまい、それはある意味において正しくもあるのだが、そういったシンプルな正しさだけでは回っていかないのが大人の事情というか、そういうことも当然あるわけである。まあ、当時のブルース・スプリングスティーン場合、バンドでコーラスをやっていた、つまり同業者ともいえる女性当時のアメリカにおける文春砲的なものを食らい、後に彼女と再婚もするのだが、このようにひじょうに人間的な色恋沙汰でリアルに苦悩していたということができる。
「トンネル・オブ・ラヴ」にはそのような時期のブルース・スプリングスティーンの心象風景がヴィヴィッドに影響しているであろうことは想像に難くなく、それだけに絶妙なリアリティーが感じられる。とはいえ、当時、若者としてリアルタイムでこのアルバムを聴いた時の印象というのは、ちょっとこれは地味すぎやしないだろうかというようなものであった。アメリカでもイギリスでもアルバム・チャートの1位にはなったが、おそらく「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」ほど売れてもいなく、シングル・カットされてアメリカで10位以内にランクインしたのも、「ブリリアント・ディスガイス」とタイトルトラックの「トンネル・オブ・ラヴ」の2曲だけであった。
「トンネル・オブ・ラヴ」は、アナログレコードではB面の1曲目に収録されていた。アルバムにはフォーク・ソング的な楽曲も多く、ブルース・スプリングスティーンのボーカルも楽曲そのものもクオリティーが高いこともあり、まったく時代を感じさせず、優れたシンガー・ソングライターアルバムとして味わうことができる。ボブ・ディランでいうところの、「血の轍」的ポジショニングだろうか。しかし、このタイトルトラックの「トンネル・オブ・ラヴ」のみ、いかにも80年代らしいサウンドになっていて、それはシンセサイザーの導入の仕方などによるものだと思える。それではこの曲がアルバムの中で浮いているかというとそんなこともなく、むしろ程よいアクセントになっているようにも思える。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」における「ダンシング・イン・ザ・ダーク」などにもいえることなのだが、このように絶妙に俗っぽいアプローチが見られもするところが、むしろ魅力になっているのではないだろうか。
たとえばザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」やビーチ・ボーイズ「神のみぞ知る」のような、疑いようのない真っ直ぐな愛というのはファンタジーであると考えられる場合が多く、だからこそそこに価値があるともいえる。ポップ・ミュージックの楽しみには、束の間の現実逃避という側面もあるからである。また一方で、複雑怪奇かつ人の心を悩み苦しめ、ボロボロにするしそれはけしてカッコよくもないというのが、恋愛というか愛欲の真実というところも実際にはあるわけだが、それにしっかりと寄り添い、マイルドに癒しをあたえるという機能を持ったポップ・ミュージックというのも、またあるわけである。「トンネル・オブ・ラヴ」とはそういったタイプのアルバムであり、そういった経験を経た後の方が理解しやすいというところはあるような気がする。