フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド「ウェルカム・トゥ・ザ・プレジャードーム」について。

フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのデビュー・アルバム「ウェルカム・トゥ・ザ・プレジャードーム」は1984年10月29日にリリースされ、全英アルバム・チャートで初登場1位を記録した。すでに全英シングル・チャートで1位に輝いていたシングル「リラックス」「トゥ・トライブス」を収録されたこのアルバムからは、後に「パワー・オブ・ラブ(愛の救世主)」がシングル・カットされ、これもまた全英シングル・チャートで1位を記録した。デビュー・シングルから3曲連続での全英シングル・チャート1位は、1963年のジェリー&ザ・ペースメイカーズ以来の記録であった(後にスパイス・ガールズがこれを抜いて、デビュー・シングルから6曲連続の1位を記録する)。

1984年といえば、アメリカではプリンス「パープル・レイン」、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」などがリリースされ大ヒット、イギリスではすでに人気があったワム!が「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」でついにブレイク、イギリスではジョージ・マイケルのソロ・シングル「ケアレス・ウィスパー」も大ヒットして、インディー・ロックではデビュー・アルバムをリリースしたザ・スミスが強固なファンダムを形成しつつあった。

このようにポップ・ミュージック史においてもひじょうに重要な年だとはいえるのだが、イギリスの一般大衆に最も強い印象を残したアーティストといえば、このフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドなのではないだろうか。

フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは、すでに他のバンドでの活動経験もあったメンバーたちによって、1980年にリヴァプールで結成された。バンド名はフランク・シナトラがハリウッドに進出することを伝える記事の見出しから取られているという。1982年にはBBCラジオ1のジョン・ピール・セッション、翌年にはチャンネル4の人気番組「ザ・ワード」に出演するなどして話題になりはじめる。映像を見たトレヴァー・ホーンが、設立したばかりのZTTレコーズの最初のアーティストとして契約したのが、1983年5月のことであった。

トレヴァー・ホーンはニュー・ウェイヴ・バンド、ザ・バグルスの元メンバーで、1979年には「ラジオ・スターの悲劇」を大ヒットさせていた。1981年にアメリカで開局した音楽専門のケーブルテレビチャンネル、MTVが「ビデオがラジオ・スターを殺した」と歌われるこの曲を放送の記念すべき1曲目として流したことはよく知られている。

その後、トレヴァー・ホーンはプログレッシヴ・ロック・バンド、イエスにかかわるなどした後に、妻のジル・シンクレア、「NME」のライターであったポール・モーリーと共にZTTレコーズを設立し、自らもアート・オブ・ノイズを結成すると共に、様々なアーティストのプロデュースも手がけた。

フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのデビュー・シングル「リラックス」は1983年10月24日にリリースされ、11月12日付の全英シングル・チャートに77位で初登場すると、少しずつ順位を上げていった。そして、年が明けて1984年1月5日に人気テレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演すると、35位から6位に一気にジャンプアップした。1月11日にBBCラジオ1のディスク・ジョッキー、マイク・リードが番組で「リラックス」をかけていたのだが、そのジャケットアートワークと印刷されていた歌詞を見て、これはオンエアに相応しくないと判断、途中で止めるという一件があった。

ハイエナジー的なサウンドに乗せて、SM行為を連想させる内容が歌われ、ジャケットアートワークもそれに則ったものであることが知られることになり、BBCは「リラックス」を放送禁止にした。それがさらに話題を呼んで、全英シングル・チャートでは6位から2位にアップして、さらに翌週にはポール・マッカートニー「パイプス・オブ・ピース」にかわって1位に輝き、5週間にわたってその座をキープし続けた。

次のシングル「トゥ・トライブス」が6月4日に発売されると、ワム!「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」にかわって1位に初登場し、9週連続でキープすることになった。その間に「リラックス」も再浮上して、7月7日付からの2週間は全英シングル・チャートの1位、2位をフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドが独占することになった。1960年代に同じくリヴァプール出身のビートルズが記録して以来のことだったという。

この「トゥ・トライブ」というのもまた、物議をかもすシングルであった。当時の国際情勢においては、アメリカ合衆国とソビエト連邦とが対立関係にあり、それぞれに核兵器の開発を競う「冷たい戦争」状態にあったといえる。いつ第三次世界大戦が起こってもおかしくはないという緊張状態もあったわけだが、「トゥ・トライブ」はそれをテーマにした楽曲である。ミュージックビデオではアメリカのロナルド・レーガン大統領とソ連のコンスタンティン・チェルネンコ書記長がレスリングをし、他の各国首脳がオーディエンスとしてそれに熱狂するという内容であった。80年代に多くの優れたミュージックビデオを世に送りだした、ゴドレイ&クレームによる作品である。「トゥ・トライブ」のB面には、エドウィン・スターによる反戦ソング「黒い戦争」のカバーが収録されていた。また、「トゥ・トライブス」の当時の邦題は、「トゥ・トライブスーフランキーの地球最後の日」であった。

このようにレコードは大ヒットしていたのだが、「Frankie Say War! Hide Yourself」「Frankie Say Relax Don’t Do It!」といったスローガンがプリントされたTシャツも発売され、やはりものすごく売れていたという。

このような状況下でリリースされたデビュー・アルバム「ウェルカム・トゥ・ザ・プレジャードーム」は2枚組であったにもかかわらず、当然のように全英アルバム・チャートで初登場1位を記録した。「トゥー・トライブ」のB面に収録されていたエドウィン・スター「黒い戦争」の他に、アルバムにはブルース・スプリングスティーン「明日なき暴走」、ディオンヌ・ワーウィック「サン・ホセへの道」のカバーも収録され、一体どこまでが本気で冗談なのかよく分からなかったりもしたのだが、とにかくヒットした。そして、11月19日には「パワー・オブ・ラヴ(愛の救世主)」がシングル・カットされる。

この曲は「リラックス」「トゥー・トライブス」などとは違って、わりとオーセンティックなラヴ・バラードであった。イギリスではクリスマスの週の全英シングル・チャートで1位になることに価値があるとされていて、「クリスマス・ナンバー1」に今年はどの曲がなるのかということが話題になるようである。「パワー・オブ・ラヴ(愛の救世主)」もそれを狙っていたと思われるのだが、この年には人気アーティストが多数参加したチャリティーシングル、バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・イッツ・クリスマス?」があった。この曲があまりにも強すぎたため、いまやクリスマスの定番曲として知られるワム!「ラスト・クリスマス」でさえ最高2位に終わっている。

しかし、「パワー・オブ・ラヴ(愛の救世主)」はその少し前にリリースされていたため、「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」が初登場する前の週の全英シングル・チャートで、1週だけ1位に輝いている。

「ウェルカム・トゥ・プレジャードーム」の2枚組LPレコードのうち、1枚目のA面(正式にはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの略であるFGTHのうち、F面だが)には、約1分57秒の「世界を思いのままに~スナッチ・オブ・フューリー)」に続いて、約13分40秒にも及ぶタイトルトラック「ウェルカム・トゥ・プレジャードーム」が収録されていたのだが、1985年3月18日には、コンパクトに編集、リミックスされたバージョンがシングルとしてリリースされた。

プロモーション用のポスターではこれがフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドにとって4曲目のNO.1ヒットであると告知されていたが、結果的にはフィリップ・ベイリー&フィル・コリンズに阻まれ、最高2位に終わっている。

この後、フランキー・ゴーズ・ハリウッドは1986年に2作目のアルバム「リヴァプール」をリリースするのだが、全英アルバム・チャートでの最高位は5位、先行シングル「レイジ・ハード」は最高4位で、これが最後のトップ10ヒットとなった。翌年にはボーカリストのホリー・ジョンソンが他のメンバーとの不仲によって脱退し、バンドは解散することになった。

ひじょうに短期間の間に鮮烈な印象を残し、消えていったフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは、ポップシーンにおける儚さのようなものを体現していたようにも思える。