パルプ「コモン・ピープル」について。

パルプの5作目のアルバム「コモン・ピープル」が発売されたのは、1995年10月30日のことであった。渋谷ロフトの1階から上の方の階に移転してからまだそれほど経っていない、WAVEでCDを購入した記憶がある。「渋谷系」とは関係なかったのだが、コーネリアス「MOON WALK」のカセットシングルとカヒミ・カリィ「GOOD MORNING WORLD」のCDシングルも、やはり同じ店でこの少し前に買っていたはずである。渋谷のタワーレコードが宇田川町の東急ハンズの近くから現在の場所に移転したり、池袋のWAVEが明治通り沿いから西武百貨店の上の方の階に移ったのもこの年のことであった。

それはそうとして、この年の夏にイギリスでブラー「カントリー・ハウス」とオアシス「ロール・ウィズ・イット」が同じ日に発売されてどちらが1位になるかということがかなり話題になり、「バトル・オブ・ブリットポップ」などとも呼ばれていた。イギリスのインディー・ロックバンドの音楽がメインストリームで売れまくり、その現象がブリットポップ・ムーヴメントなどと呼ばれたりもしていたのだ。

当時からそのような括りがあった記憶はほとんど無いのだが、今日、ブリットポップのビッグ4といえば、オアシス、ブラー、パルプ、スウェードを指すらしい。たけし・さんま・タモリのお笑いビッグ3のようなものだろうか。このうち、オアシス、ブラー、スウェードは90年代に入ってからデビューしていて、わりとすぐに注目されたのだが、パルプだけは1978年に結成され、デビュー・シングルの発売が1983年とすでにかなりのキャリアを重ねていた。とはいえ、メジャーに売れてはまったくいなく、90年代に入ってから「マイ・レジェンダリー・ガールフレンド」が「NME」のシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれたりはするが、全英チャートにはデビュー以来、一度もランクインしていなかった。

1992年の秋にパルプはシングル「ベイビーズ」をリリースするのだが、「NME」の記事かなにかで読んでなんとなく気になった私は、西新宿のラフ・トレード・ショップでそのレコードを買った。インディー・ロックなのにシンセサイザーが効果的に用いられているところや、ユニークな歌詞とキャッチーなメロディー、まだそれほど一般的に知られてはいないにもかかわらず、まるで人気のポップ・スターであるかのようなジャーヴィズ・コッカーのボーカル・パフォーマンスなどがすぐに気に入った。

翌年になると、スウェードのデビュー・アルバムが全英アルバム・チャートで初登場1位になったり、ブラーがデフォルメしたイギリスらしさをユニークに表現したアルバム「モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ」が高評価を得たり、レディオヘッドが「クリープ」でブレイクしたりと、イギリスのインディー・ロックがなんとなく盛り上がりはじめる。このタイミングでパルプはメジャーのアイランドと契約し、秋にはシングル「リップグロス」をリリースする。全英シングル・チャートでの最高位は50位だったのだが、これでもパルプのそれまでのキャリアの中ではぶっちぎりの過去最高である。

この勢いのまま翌年にリリースしたアルバム「彼のモノ♥彼女のモノ」は全英アルバム・チャートで最高9位を記録し、さらに注目をあつめるようになっていく。この年にはオアシスがデビューしたり、ブラーが「パークライフ」を大ヒットさせたりと、ブリットポップがかなり本格的に盛り上がっていたわけだが、パルプもその流れに完全に乗っていたといえる。シングルでは再発された「ベイビーズ」を収録した「シスターズEP」の19位が最高位であった。

そして、1995年5月22日にリリースしたシングル「コモン・ピープル」が全英シングル・チャートで最高2位と、正真正銘のヒット曲となった。それまで、実際にはそれほど人気があるわけでもないインディー・ロック・バンドが、いかにもポップ・スター的なパフォーマンスをしているところがおもしろいと感じていたのだが、これが本当に売れてしまったのである。この頃にはオアシスの「サム・マイト・セイ」が全英シングル・チャートで1位に輝くなど、インディー・ロックがメインストリーム化していて、こういったタイプの楽曲がチャートの上位に入ることも珍しくはなくなっていたのだが、パルプのこのタイミングでのブレイクには特に感慨深いものがあったのではないだろうか。

この曲はキャッチーなメロディーももちろんなのだが、ジャーヴィス・コッカーの学生時代の体験をベースにしたというユニークな歌詞が素晴らしく、イギリスの階級社会を反映した内容になっている。セント・マーチンズ・カレッジに通うギリシャから来たお金持ちの娘が「普通の人と暮らしたい」といったというくだりがあるのだが、彼女のモデルとなった女性は実在していて、後にギリシャ財務相の妻になったとのことであった。

イギリスでは毎年、夏に行われる野外での音楽イベントがひじょうに盛り上がるのだが、特に有名なものの1つにグラストンベリー・フェスティバルがある。この年のメインであるピラミッド・ステージのヘッドライナーは、金曜がオアシス、土曜がザ・ストーン・ローゼズ、日曜がザ・キュアーであった。ザ・ストーン・ローゼズはこの前の年の年に約5年ぶりのアルバム「セカンド・カミング」をリリースし、評価はそれほど芳しくはなかったものの、大きな話題にはなっていたのであった。ましてやブリットポップ・ムーヴメントの真っ只中であり、音楽的にも直系であるザ・ストーン・ローゼズのステージはおそらく盛り上がるのではないかと期待されていたように思える。

ところがギタリストのジョン・スクワイアがマウンテンバイクの運転中に事故で骨折したということで、このステージはキャンセルされた。そこで代役に選ばれたのが、「コモン・ピープル」が大ヒットしたばかりのパルプであった。タイミングが少しずれて、「コモン・ピープル」がまだヒットしていなかったとするならば、ヘッドライナにパルプという選択はなかったような気もする。しかも、パルプはこのチャンスをしっかりモノにし、その日のパフォーマンスは大絶賛された。

9月25日には「ソーテッド・フォー・イーズ・アンド・ウィズ」と「ミス・シェイプス」との両A面シングルが発売されるのだが、これもまた全英シングル・チャートで最高2位と、さらに絶好調な状況は続く。ちなみにパルプの全英シングル・チャートでの1位を阻んだのは、「コモン・ピープル」の時はロブソン&ジェロームで、今回はシンプリー・レッドであった。

「ソーテッド・フォー・イーズ・アンド・ウィズ」はジャーヴィズ・コッカーがシェフィールドで会った女性から聞いた、ザ・ストーン・ローゼズのライブの感想がベースになっているという。タイトルの「イーズ」とは、スマートドラッグのエクスタシーのことであり、シングルのジャケットを折りたたむとドラッグを隠す包み紙になるというような仕掛けも施されていた。アートワークの一種であり、実際にこれを包み紙として利用した人はいないとは思うのだが、イギリスの「デイリー・ミラー」紙は1面を使ってこのことを取り上げ、シングルのキャンセルを呼びかけたりもしていた。

「ミス・シェイプス」の方が「コモン・ピープル」と同様の路線のキャッチーな楽曲で、ミュージックビデオも制作された。歌詞の内容は一般的な社会におけるはぐれ者というかアウトサイダー的な人々に対する愛着が感じられるもので、「リベンジ(復讐)」というジャーヴィズ・コッカーの作品にありがちなテーマが含まれてもいる。

これらのヒット曲を収録したアルバム「コモン・ピープル」は満を持してリリースされ、当然のように全英アルバム・チャートで初登場1位を記録したばかりか、各メディアでの評価もひじょうに高いものであった。

ブリットポップ・ムーヴメントの渦中でもあったため、こういったタイプの音楽がメインストリームでも受け入れられやすい状況にあったとはいえるのだが、さらにはインディー・ロックというジャンルを超えたキャッチーさがパルプの音楽にはあったのと、やはりジャーヴィズ・コッカーのポップ・スター的なポテンシャルというのも大きかったとは思う。この時点ですでに30代であったジャーヴィズ・コッカーによる歌詞には、他のブリットポップバンドとは一味違ったユーモアとウィットと知性も感じられ、それが従来のインディー・ロックファン以外の層にも受けたような気がする。

このアルバムからはさらに「ディスコ2000」「サムシング・チェンジド」がシングル・カットされ、全英シングル・チャートでそれぞれ最高7位と10位を記録している。

「ディスコ2000」はローラ・ブラニガンの80年代のヒット曲「グロリア」を思い起こさせもするキャッチーでノスタルジックな楽曲で、ジャーヴィス・コッカーの幼なじみであった女性がモデルになっている。「サムシング・チェンジド」は人生における偶然のできごとというのがいかに重要であるか、というようなことについて歌われている。

この翌年に開催されたブリット・アワーの授賞式にはブリットポップの時代を反映して、オアシスやパルプなども出席していた。アーティスト・オブ・ア・ジェネレーション賞を受賞したマイケル・ジャクソンは「アース・ソング」をパフォーマンスしたのだが、これが子供たちによるコーラス隊をバックにした、まるで自分が神ででもあるかのようなタイプのものだったらしく、たまりかねたジャーヴィス・コッカーはステージに乱入して、お尻を突き出して叩くようなポーズをすると、自分たちの席に戻っていった。この件でコーラス隊にいた子供に暴行を加えたのではないかという嫌疑で警察から取り調べを受けたり、マイケル・ジャクソンのファンたちから激しく抗議をされたりしたが、一方でこの行為を称える声も少なくはなかった。