beige high heeled sandals

マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」について。

マドンナの音楽を初めて聴いたのは、1983年の暮れか翌年の初めだったのではないかと思う。なぜなら、当時の私はアールエフ・ラジオ日本の「全米トップ40」やNHK-FMの「リクエストコーナー」で最新の洋楽をチェックしていて、マドンナが「ホリデイ」で初のトップ40入りを果たしたのは、1983年12月10日付だったからである。その週の1位はポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソンの「SAY SAY SAY」、確か邦題も英語表記だった。それで、松本竜介がラジオでこれを「サイ・サイ・サイ」と読んで、相方の島田紳助があいつはアホやなどと言っていたような気がする。

その時の印象は、あくまでダンスポップ的な楽曲を歌う女性シンガーの1人というぐらいのものであった。「ホリデイ」は最高16位だったが、次の「ボーダーライン」が最高10位で初のトップ10入り、さらにその次の「ラッキー・スター」は最高4位とどんどん順位を上げていったし、なかなか曲が良いのではないかと感じたりもしていた。

それで、秋も深まった頃のリリースされた「ライク・ア・ヴァージン」で一気に大ブレイク、ポップ・アイコン化したという印象である。

1984年の全米ヒット・チャートといえば、この前の年にデュラン・デュラン、カルチャー・クラブといったイギリスの新しいアーティスト達が大活躍した第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの揺り戻しか、アメリカのアーティストが健闘していたという印象が強い。たとえば「パープル・レイン」でついに大ブレイクを果たしたプリンスや、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」のブルース・スプリングスティーン、アルバム・チャートの年間1位は前々年の暮れに出たマイケル・ジャクソン「スリラー」で、2位は前年リリースのヒューイ・ルイス&ザ・ニューズ「スポーツ」だった。秋にはブライアン・アダムス「レックレス」もリリースされる。

日本ではニューヨークから帰ってきた佐野元春がヒップホップからの影響を受けた「VISITORS」をリリースしてファンの間でも賛否両論あったり、サザンオールスターズは「人気者で行こう」で、竹内まりやが「VARIETY」でカムバックするが、「プラスティック・ラヴ」は特に代表曲というわけでもなかったり、山下達郎は映画「BIG WAVE」のサントラを出したり、アイドルでは竹内まりやが楽曲提供したキャンパス・ポップ的な岡田有希子やシティ・ポップ的な菊池桃子、あとはチェッカーズと吉川晃司の人気がとにかくすごかったような気がする。

それで、イギリスや日本ではすでに人気があったワム!がデビュー・アルバムの頃にはアメリカではそれほど売れていなく、しかもアーティスト名の表記がワム!UKだったりもしたのだが、「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」で一気に売れて、これはすごいことだと思っていた後に、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「アウト・オブ・タッチ」をはさんで、この年の最後のチャートで1位になったのが「ライク・ア・ヴァージン」であった。ちなみに全英シングル・チャートでは、1位がバンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」、2位がワム!「ラスト・クリスマス」である。

「ライク・ア・ヴァージン」を初めて聴いたのはFM北海道の何かの番組で、やはり秋も深まった頃だったような気がする。まず、タイトルに「ヴァージン」というタイトルが入っているところがポップ・ソングとしてはインパクトがあるな、と感じたりもしていたのだが、実はこの年の日本ではSALLY「バージンブルー」などという曲がヒットしたりもしていた。それはそうとして、それまでのマドンナの楽曲(といっても、この時点では「ホリデイ」「ボーダーライン」「ラッキー・スター」しか聴いていなかったが)と比べ、明らかにサウンドがメジャーになっていて、これは本気で売れようとしているし、おそらく売れるのだろうな、というような気はした。とはいえ、曲としてはちょっと単調すぎやしないだろうか、と思わなくもなかったのだが、それでもサウンドがメジャーだったので、逆にこれぐらいの方が良いのかもしれない、というようなよく分からない納得の仕方をした。

それにしても、ついこの間まで「ラッキー・スター」がヒットしていたというのに、随分と唐突に新曲をリリースして来たな、と感じたりもしていたのだが、実はマドンナのデビュー・アルバム「バーニング・アップ(原題:Madonna)は1983年の夏にはすでに発売されていて、売れるまでに少し時間がかかっていたようなのである。そして、「ライク・ア・ヴァージン」のシングルがアメリカで発売されたのは10月の終わりだが、9月半ばにはすでに初披露されていたのだという。

具体的には9月14日に行われたMTVビデオ・ミュージック・アワードの記念すべき第1回、最優秀ビデオ賞はカーズの「ユー・マイト・シンク」で、ハービー・ハンコック「ロッキット」、マイケル・ジャクソン「スリラー」が複数の賞を受賞していたのだが、話題になったのはマドンナのパフォーマンスであった。この週、「ラッキー・スター」が全米シングル・チャートに初登場してから数週間しか経っていなく、まだまだ順位を上げているところだったのだが、この日のパフォーマンスに選ばれたのは、まだ発売もされていなければ聴いたことがある人もきわめて少ない「ライク・ア・ヴァージン」であった。

ウェディングケーキをイメージしたセットの上に立つマドンナは、純白のウェディングドレスに「BOY TOY」という文字があしらわれたベルトを付けている。そして、あの印象的なシンセサイザーのイントロである。プロデューサーのナイル・ロジャースはこの曲を初めて聴いた時にそれほど良いとは感じてはいなく、シングルでリリースしようとも考えていなかったのだという。ところが、何日か経つうちにこの曲が頭からけして離れないことに気づき、そのポテンシャルを認めるに至ったのだった。

「ライク・ア・ヴァージン」を書いたのは、トム・ケリーとビリー・スタインバーグのソングライターコンビ、後にシンディ・ローパー「トゥルー・カラーズ」、ハート「アローン」、バングルス「胸いっぱいの愛」などもヒットさせている。ビリー・スタインバーグは「ライク・ア・ヴァージン」を特に女性シンガーが歌う曲という想定で書いてはいなく、ベースになったのは当時の個人的な感覚だったのだという。当時、彼は厳しめな恋愛から解放され、新しい恋人に出会った頃だったのだという。その頃の気分が「ライク・ア・ヴァージン」には反映しているということなのだが、「ヴァージン」という単語を用いるべきかどうかというのは、やはりコンビ間でも議論されたのだという。

1958年にアメリカのミシガン州で生まれたマドンナは5歳の頃に愛する母親を亡くし、その後、再婚をした父親との関係が険悪になったりもしながら、成績は良く、一方でダンスを習ったりもしていた。そして、一念発起してニューヨークに出ると、ダンキンドーナツで働いたり、当時、大人気だったダンステリアというディスコで踊ったりしていた。

1984年にブレイクしたもう一人の女性ソロ・アーティストといえばシンディ・ローパーだが、そのブレイクのきっかけとなったシングル「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」、アルバム「シーズ・ソー・アンユージュアル」の当時の邦題はそれぞれ「ハイスクールはダンステリア」、「N.Y.ダンステリア」であった。これらにはシンディ・ローパー本人からクレームがつき、改題を余儀なくされたようだ。

それはそうとして、バンド活動などを経て、いよいよチャンスをつかんだマドンナは1982年にデビュー・シングル「エヴリデイ」、翌年には「バーニング・アップ」をリリースし、これらは全米シングル・チャートにはランクインしなかったが、ダンス・チャートではヒットしていたという。そして、ついに「ホリデイ」「ボーダーライン」「ラッキー・スター」が売れて次の新作ということになるわけである。

「ライク・ア・ヴァージン」と「マテリアル・ガール」を聴いたマドンナは、すぐに気に入ったのだという。どこか皮肉が効いたところがあるし、マドンナ自身の実態とかけ離れているところも良いと感じたようだ。なぜなら、マドンナはマテリアルでもヴァージンでもなかったからである。

「ライク・ア・ヴァージン」のアウトロ近くでマドンナは「When your heart beats, and you hold me, and you love me」などと歌っているのだが、これはソングライターコンビが渡したデモテープに入っていたアドリブそのままだったのだという。ここでこのソングライターコンビは、いかにマドンナが注意深く自分たちのデモテープを聴いてくれたかということに感激したのだという。

ところで、「ライク・ア・ヴァージン」の歌詞はどのような意味を持っているのだろうか。解釈はいろいろできそうであり、たった一つの正解というのは無いのかもしれない。クエンティン・タランティーノの名前を一躍有名にした1992年の映画「レザボア・ドッグス」のオープニングシーンでは、犯罪者たちのグループが「ライク・ア・ヴァージン」の歌詞の意味をめぐって議論を交わしていて、この会話は「マドンナ・スピーチ」というタイトルでオリジナル・サウンドトラックにも収録されている。詳しくは書かないが、男のうちの一人は「ライク・ア・ヴァージン」のという曲は、相手の男性のdick(男性器をあらわすスラング)が大きかったことにより、痛みを感じたことを歌っているのだと解釈をする。後にクエンティン・タランティーノと対面することになったマドンナは、「エロティカ」のCDに「It’s not about dick. It’s about love」と書いてプレゼントしたといわれている。

さて、MTVは音楽専門ケーブルテレビチャンネルとして1981年に開局して以来、どんどん人気が高まっていき、ヒットチャートに影響をあたえるまでになっていた。イギリスのアーティストは早くから映像に力を入れる傾向があったことから、初期のMTVではイギリスのアーティストによるビデオが多く、その音楽性というのはシンセ・ポップやニュー・ウェイヴ色の濃いものが多かった。それが第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンにといわれている。

そして、1984年にはついにMTV独自のアワードを開催するまでになり、その第1回が9月14日にニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールで行われたというわけである。

この日、マドンナはロッド・スチュワートに続き、2組目のパフォーマンスを行うアーティストとして登場したのだが、それが伝説となり、37年後の現在もまだアワード史上最も印象的であっただけではなく、ポップ・カルチャー史上ひじょうに重要だったのではないかともいわれているわけである。

マドンナはこの当時、ほとんど誰も知らないといっても過言ではない曲をはじめは普通に歌っているのだが、途中からステージ上に寝転がり、激しい動きを見せたりもするという圧巻のパフォーマンスを敢行した。これにより、その後の「ライク・ア・ヴァージン」のリリースを待望する気分というのも、アメリカではわりと盛り上がっていたのかもしれない。当時、旭川の高校生であり、インターネットもYouTubeも当然まだなかった時代、こういった情報は仕入れられていなかった。それで、確かにメジャーなサウンドになってはいるのだが、秋が深くなってからリリースされた「ライク・ア・ヴァージン」で急激に大ブレイクし、ポップ・アイコン化したという印象が強かったのである。

それまでの女性ポップ・シンガーに求められがちだった、男性のファンタジーに都合の良い、かわい子ちゃん的だったり過剰に奉仕的だったりするのではない、意志を持った女性ポップ・スター像というのをこのパフォーマンスは象徴しているのであり、その後の時代をリードしていくのも至極当然だったのではないかと思える。ミュージックビデオもベニスの運河でゴンドラに乗ったり、ライオンが登場したりとても良かった。

イントロのフレーズはフォー・トップス「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」やマイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」を想起させもするが、いまやマドンナ「ライク・ア・ヴァージン」以外の何ものでもないぐらいには定着しているのだろう。今日のポップシーンにおける女性アーティストたちの活躍を見るにつけ、マドンナがポップ・ミュージックのみならず、ポップ・カルチャーやもしかすると社会全体に及ぼした影響というのはひじょうに大きかったということに改めて気づかされたりもする。「ライク・ア・ヴァージン」のイントロには、たとえばニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のそれなどと同様に、時代を変えた音としての印象が強い。当時はまったくそうは思わなかったが、いま聴くとあれは確かにそうだったのではないかと感じる。

This is...POP?!
1980sClassic Songs