岡村靖幸「家庭教師」について。

岡村靖幸の4作目のアルバム「家庭教師」は、1990年11月16日に発売された。おそらく渋谷ロフトの1階にあったWAVEで買ったのだが、はっきりとは覚えていない。夕方に渋谷から井の頭線で帰宅する電車内で、屈託のない若者たちが劇団「岡村靖幸」という名前の劇団であったり、フリッパーズ・ギターのことを「パーフリちゃん」と呼んでいるのを活字ではなく初めて音声として聴いた。

アーティストがキャリアを重ねてベスト・アルバムをリリースすると、なんとなく一区切り感が出たりもするのだが、岡村靖幸の初めてのベスト・アルバム「早熟」は1990年3月21日にリリースされ、オリコン週間アルバムランキングで最高3位を記録していた。1987年のデビュー・アルバム「yellow」から「Out of Blue」「Young oh! oh!」、1988年のアルバム「DATE」から「イケナイコトカイ」「いじわる」、1989年の3作目のアルバム「靖幸」からは「聖書(バイブル)」「だいすき」「Vegetable」「友人のふり」、先行シングルの「Peach Time」がカップリングの<修学旅行MIX>もあわせて収録されていた。「DATE」収録の「Lion Heart」は未発表の<Hollywood Version>で、シングルでのみリリースされていて、CD化されていなかった「Dog Days」とカップリング曲の「Shining(君がスキだよ)」も収録されていた。

プリンス、ビートルズ、松田聖子から影響を受けたというユニークな音楽性と、オリジナリティーに溢れた言語感覚、中毒性が高いボーカルとダンスパフォーマンスなどによって、岡村靖幸はアーティストとしてのデビュー4年目にして評価とセールスを獲得していたわけだが、「家庭教師」というアルバムはその方向性をさらに推し進めたものであり、最高傑作にして代表作と見なされることがひじょうに多い。

1990年の日本はバブル景気の真っ只中であり、まもなくそれが終わってしまうことにはまだほとんど気づかれていない。経済的に豊かで余裕があり、未来は明るいとなんとなく信じられていた。「ちびまる子ちゃん」がテレビアニメ化されて大ヒット、ローリング・ストーンズが初来日し、ポール・マッカートニーの来日公演も盛況であった。東京ドームは、この2年前に完成したばかりである。「11PM」「夜のヒットスタジオ」「歌のトップテン」が、この年で放送を終了した。この前の年に放送を開始し、バンドブームの拡大と低年齢化に貢献した「三宅裕司のいかすバンド天国」に出演したことによって人気となったロックバンド、たまはナゴムレコード出身でアングラ的な音楽性だったにもかかわらず、メジャーデビューシングル「さよなら人類」がオリコン週間シングルランキングで1位に輝き、「NHK紅白歌合戦」にも出場することになった。

たま「さよなら人類」と同じ1990年5月5日にはフリッパーズ・ギターが初めて日本語の歌詞で歌ったシングル「恋とマシンガン」もリリースされていて、テレビドラマ「予備校ブギ」の主題歌として使われたこともあって、オリコン週間シングルランキングで最高17位、翌月のアルバム「カメラ・トーク」はオリコン週間アルバムランキングで6位のヒットを記録していた。

1988年にアルバム「DATE」を聴いてから、最新で最も夢中になっているアーティストはずっと岡村靖幸だったのだが、この時点でそれはフリッパーズ・ギターに移行しつつあった。岡村靖幸がベスト・アルバム「早熟」以降、最初にリリースしたCDは、1990年7月21日発売のシングル「どぉなっちゃってんだよ」であった。この曲は後に「家庭教師」の1曲目に収録される。やはりおそらく渋谷ロフトの1階にあったWAVEで買ったと思うのだが、はっきりと覚えてはいない。

「Hey everybody 今年の夏は誇らしいと誰からも言われてみたい気がする」という歌いだしからして、季節感がひじょうにある。この年の夏は意味なく渋谷から調布行きのバスに乗って、ディスクマンでCDを聴きながら本を読んだりすることが多かった。CDはいろいろなものを聴いていたと思うのだが、このことを思い出す場合のBGMとして最も相応しく思えるのがフリッパーズ・ギターの「ビッグ・バッド・ビンゴ」である。「8月のサングラスはキュートすぎる君」なのでこの曲もまた夏に相応しいのだが、「ハイファイないたずらさ きっと意味なんてないさ」というフレーズがとても気に入っていた。その後には、「蹴とばすもの何にもありゃしないのにね」と続く。

そういった感覚に同化したいような気がなんとなくしていたのだが、岡村靖幸の新曲「どぉなっちゃってんだよ」はタイトルからも分かるように、「蹴とばすもの」ははっきりとあるというタイプの曲だったりもする。「バカなセクハラ上司」などとい分かりやすい仮想敵が提示されたりもするのだが、基本的にはこのままではいけないと実は感じている現状に対するカウンター的な内容となっている。

しかし、当時の日本はバブル景気の真っ只中で、経済的には豊かで未来も明るいとされていたわけであり、その辺りのこのままではいけないという感覚がそれほど切実さをともなわないようなところもある。それ自体が実はダメなのではないかと感じたりもするのだが、その辺りを程よく突いてくれるのが岡村靖幸の表現だったような気もする。

その指標の一つとなるのがたとえば性愛であり、それは岡村靖幸の作品においてずっと一貫して大きなテーマにはなってきていた。バブル景気における可処分所得の一部は性愛に費やされがちでもあったのだが、村上春樹「ノルウェイの森」や松任谷由実「純愛三部作」(「ダイアモンドダストが消えぬまに」「Delight Slight Light KISS」「LOVE WARS」)などによる「純愛」ブームがそれにさらに拍車をかける。JR東海のCMに使われた山下達郎「クリスマス・イブ」がリバイバルヒットして、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いたのもそういった現象の一部だったような気がする。

「POPEYE」「Hot-Dog PRESS」などの男性ライフスタイル雑誌はデートやセックスマニュアル的な特集を組むと売れるなどともいわれていて、「どぅなっちゃってんだよ」では「やっぱマニュアル通りに見つめてそんでもって マンションマンション」などと歌われているのだが、その前には「俺なんかもっと頑張ればきっと女なんかジャンジャンもてまくり」とあり、実際にはまだやってすらいないのではないかということが想像できる。

「好みのギャルもビデオばかり見てたなら 出会う機会も失せるぜ」の「ビデオ」とはおそらくアダルトビデオのことであり、ここでいう「ギャル」とは現在のように特定のタイプの女性を指すのではなく、若い女性全般をまだ意味していたと思われる。

「人生がんばってんだよ」「一生懸命って素敵そうじゃん」といったところがおそらく本音の部分であり、当時の要領よくスマートなのがおいしい、というような風潮に対するアンチテーゼであるように思える。この少し前のことになるのだが、岡村靖幸は嫌いな女性のタイプについて「したたか」であることを挙げたり、「聖書(バイブル)」には35歳で妻帯者の男性と恋をしている女性に対し、「したたか過ぎるよその瞳」「きっと本当の恋じゃない汚れてる」と歌ったりもしていた。

10月10日にはシングル「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」がリリースされるのだが、この曲は「家庭教師」の5曲目に収録される。

「ぼくの胸のドラムがヘビメタを熱演してる」「汗で滑るバッシュー まるで謡うイルカみたいだ」といったユニークな表現が印象的だが、やはり本当に伝えたいことというのは「青春って1、2、3、ジャンプ」「暴れまくっている情熱」「あの娘だけの汗まみれのスター」といったところなのだろう。また、この曲には1988年にシングルとしてリリースされ、翌年のアルバム「靖幸」にも収録された「だいすき」と同様に子供たちによるコーラスがフィーチャーされている他に、「窓の外からはパパとママが手を振っている」というフレーズが出てくる。

「家庭教師」の最後に収録された「バスケットボール」では「パパとママの涙など 見たくなかった」と歌われ、「靖幸」に収録されていた「Boys」のエンディングでは「僕らは子供が育てられるような大人になれるのかなぁ」と自問される。それから約28年後の2016年にリリースされたアルバム「幸福」のジャケットアートワークは、子供とお風呂で遊んでいるらしきイラストであった。「家庭教師」で「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」の次に収録された「祈りの季節」は「性生活は満足そうだが 日本は子沢山の家族の減少による高齢化社会なの?」と歌いだされ、「Sexしたって誰もがそう簡単に親にならないのは 赤ん坊より愛しいのは自分だから?」で結ばれる。

「家庭教師」で「どぉなっちゃってんだよ」の次の2曲目に収録された「カルアミルク」は12月1日にシングル・カットもされるのだが、J-WAVEなどでもよく聴いたような気がする。タイトルの「カルアミルク」はコーヒーリキュールのカルーアをミルクで割ったカクテルの名前であり、飲みやすいことから女性にも人気があったような気がする。別れた恋人とやはりよりを戻したいという内容の曲だが、「電話なんかやめてさ 六本木で会おうよ」というフレーズがあることから、六本木のご当地ソングとしても機能している。わりと聴きやすく一般受けもしそうな曲ではあるが、「優勝できなかったスポーツマンみたいに ちっちゃな根性身につけたい」というような岡村靖幸らしいユニークな表現は用いられている。

「電話なんかやめてさ 六本木で会おうよ」についてだが、当時はまだ携帯電話が普及していなかったため、ここでいう「電話」とは部屋に備えつけられたものか公衆電話である可能性が高い。この頃の六本木には六本木ヒルズも東京ミッドタウンもなく、六本木WAVEと青山ブックセンターがあった。「家庭教師」の約5ヶ月前にあたる1990年6月25日にはパール兄弟のアルバム「六本木島」がリリースされているのだが、タイトルトラックではこの街の週末の夜はタクシーがつかまないぐらいのにぎわいであったことが描写されている。この曲の歌詞に登場する「ブックストア」は日曜以外は翌朝の5時まで営業していた、青山ブックセンターのことだと思われる。

六本木WAVEは1983年11月18日にオープンしていたため、「家庭教師」が発売された翌々日に7周年を迎えた計算になる。六本木WAVEも売り上げチャートを提供していたJ-WAVEの「TOKIO HOT 100」ではダリル・ホール&ジョン・オーツ「ソー・クロース」が1位であった。

「ファミコンやって、ディスコに行って、知らない女の子とレンタルのビデオ見てる」という歌詞があるが、「家庭教師」が発売されてから「カルアミルク」がシングル・カットされるまでの間にあたる1990年11月21日に、任天堂はファミコンの後継機にあたるスーパーファミコンを発売している。レンタルビデオは当時、六本木WAVEの1階でも扱っていたような気がする。

タイトルトラックである「家庭教師」はアルバムの4曲目に収録され、性的な歌詞とセリフが特徴的である。この辺りがたまらないと感じるファンやリスナーも多いとは思われるのだが、個人的にはわりとしんどくも感じられ、それが「家庭教師」よりも「靖幸」が好きな理由の一つにはなっている。現在は廃盤となっているDVD「LIVE 家庭教師’91」では、さらにエスカレートしたパフォーマンスを見ることができる。

この曲の歌詞に登場する女性は23才で、「赤羽サンシャイン」というビルの部屋を貸りているという設定になっている。赤羽といえばEPICソニーが深夜に放送していた「ez」という番組で岡村靖幸と同じ日に映像が放送されていた印象が強いエレファントカシマシのことが思い出されるが、それはまあどうでもいい。今日、「赤羽サンシャイン」をインターネットで検索すると実在の物件が表示されるのだが、東京23区内としてはそれほど家賃が高そうには思えない。しかし、建てられたのが1995年7月になっていたりもするので、「家庭教師」で歌われているのとは関係がない可能性も高い。

「ステップUP↑」は岡村靖幸よりも2017年に32歳年下、つまり娘であってもまったく不自然ではないというか相応しいぐらいの年齢のアーティスト、DAOKOとのコラボレーションで「ステップアップLOVE」としてアップデートされ、オリコン週間シングルランキングで最高8位を記録している。