小沢健二「LIFE」について。

1994年8月29日にはオアシス「オアシス(原題:Definitely Maybe)」、30日にはマニック・ストリート・プリーチャーズ「ホーリー・バイブル」という個人的にとても重要でいまも変わらず大好きなアルバムがイギリスでリリースされていたのだが、その翌日の31日には日本で小沢健二「LIFE」が発売されていたということが分かった。それで今回は、この当時、個人的にはまったく興味が持てず聴いてすらいなかったのだが、いまや日本のロック&ポップス史における重要作と見なされている大ネタを勇気を出して取り上げていきたい。

小沢健二といえば小山田圭吾とフリッパーズ・ギターをやっていた、というか当初はもっとたくさんメンバーがいたのだが、途中からは2人組になっていたのだった。私がちゃんと聴きはじめた頃にはもうすでに2人組だったのだが、1990年のアルバム「カメラ・トーク」でどっぷりとハマった。というか、この作品はいまだに個人的に生涯で聴いてきた中で特に好きなアルバム歴代2位を継続している。つまり、フリッパーズ・ギターの音楽がかなり好きだったのだが、1991年に解散後、小沢健二がソロアーティストとしてリリースした2作目のアルバムにはまったく興味を持っていなかったということになる。

このアルバムのジャケットは、新宿のマルイシティ地下にあったヴァージン・メガストアで見た記憶がある。とても広い売場で、長い間、滞在していることも少なくはなかった。1990年のオープン当時にはヴァージンコーラの自動販売機も設置されていたと思うのだが、一度も買ったことはなかった。ピーター・バラカンがCDをたくさん買っているのを見たことがある。

フリッパーズ・ギターはアルバムをリリースすればオリコンのランキングで10位以内に初登場する程度には売れていたし、人気もかなりあったのだが、あくまで日本のポップス界におけるメインストリームど真ん中という感じではなかった。個人的に好きだったのも、メインストリームど真ん中になりえない要因のようなところの方だったとも思えるのだが、小沢健二の「LIFE」はおそらくしっかりとメインストリームど真ん中か、それにかなり近いところまで行っていたアルバムだと思う。それが眩しすぎたというか、それにすっかり引いていたとか、そんな感じで聴いていなかったのではないかというような気もするのだが、そもそも当時、日本のポップ・カルチャーから意識的に距離を置いていたという個人的な事情もあったはずである。

それで、「LIFE」が5位に初登場した週のオリコン週間アルバムランキング、つまり1994年9月12日付のそれを見てみると、1位がMr. Children「Atomic Heart」で、これが「LIFE」の翌日である9月1日の発売であったことが分かる。Mr. Childrenというのはおそらく日本を代表する人気ロック・バンドであり、この「Atomic Heart」は最初に大ヒットしたアルバムなのではないかと思うのだが、個人的にこの辺りはまったく詳しくはないのでよく分からない。しかし、当時、フリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」をリリースしていた頃に一緒の職場にいてわりと仲よくしていた男らとカラオケに行き、私はコーネリアスの「太陽は僕の敵-THE SUN IS MY ENEMY」や「(YOU CAN’T ALWAYS GET) WHAT YOU WANT」などを歌っていたのだが、彼はMr. Choldrenの「everybody goes-秩序のない現代にドロップキック-」や「クラスメイト」などを歌っていて、気がつけば遠く離れてしまったものだなと感じさせられたりはした。

1994年に池袋のP’PARCOがオープンするのだが、その時のCMにスチャダラパーと小沢健二が出演していたらしく、ちょうどシングル「今夜はブギーバック」がリリースされたタイミングでもあった。このシングルも買ってすらいなかったのだが、世間一般的にもわりとヒットしていたのだろうか。カート・コバーンが命を絶ったり、オアシスがデビューしたりした春のことである。その頃、明大前にある広告代理店に入社したのだが、会社にいる人達は「渋谷系」などには興味がなさそうであった。月曜日には「ダウンタウンのごっつええ感じ」の話で盛り上がっていたのだが、私は見ていなかったし見る気もなかったので加わることはできなかった。床屋などでよく見かけがちな植田まさしの4コマ漫画から飛び出してきたような先輩が、営業の顧客管理に使っているノートの表紙に阪神タイガースのロゴマークと「猛虎襲来」とかいうキャッチコピーのようなものを黒マジックで書いていた。また、関西出身のスキンヘッドの先輩はカラオケでやしきたかじんの「なめとんか」などを歌いがちだったのだが、USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」ではブルース・スプリングスティーンのソロパートを好んでいた。また、いつの間にかレゲエにハマっていて、休日に豊洲で行われた「レゲエ・ジャパン・スプラッシュ」なるライブイベントに一緒に行ったことがあったと思う。ジャークチキンというのが屋台で売られていて、生まれて初めて食べたような記憶がある。

その頃にはシャ乱Qの「ズルい女」もよく歌っていたと思うのだが、テレビなどはほとんど見ていなかったので、そのカラオケではじめて聴いたのだった。神宮球場に阪神タイガースの応援に行き、ヤクルトスワローズのファンと喧嘩になった、というような話も何度か聞いたような気がする。それで、やはりカラオケで「今夜はブギーバック」もよく歌っていて、その際に私も参加し、主にスチャダラパーのパートを担当することになっていた。つまり、平日の夜のカラオケスナックのようなところで、「in the place to be なんて具合にウアーッウアーッ wait wait wait ガッデーム」などとやっていたわけである。当時、「今夜はブギーバック」のCDは持っていなかったのだが、ちゃんと歌えていたのだった。「渋谷系」という言葉がごく一般化していたのは、その頃だろうか。「今田耕司のシブヤ系うらりんご」というテレビ番組は、1995年3月27日から半年ぐらい放送されていたらしい。

仕事が終わり、またしても会社の人達とカラオケに行っていたある夜のこと、カラオケといっても現在のようにボックスではなく、歌いたい曲を書いた紙を店員に渡し、呼ばれるとステージのようなところに出て行って、知らない人などもいる前で歌うというタイプの店である。客が歌っている間、店員はやる気がなさそうにタンバリンを叩いたりしている。そこで、あの植田まさしの4コマ漫画から飛び出してきたようなタイプの先輩が小沢健二の「ラブリー」を歌い、「Oh baby」のところで世界のホームラン王、王貞治の一本足打法のポーズをする。なぜこの曲を知っていたのかというと、パチンコの景品として「LIFE」のCDを手に入れたのだという。

また、この会社では一時的に中国人留学生のような人をデザイナーとして雇用してもいたのだが、ビザの都合か何かで帰国しなければならなくなった。それで、新宿で送別会のようなものを行ったのだが、やはり最終的にはカラオケである。とはいえ、この時はボックスだった。そして、最後に「ぼくらが旅に出る理由」を歌って号泣というようなこともあった。ポール・サイモン「ユー・キャン・コール・ミー・アル」からの引用が含まれていたことは、この頃はカラオケでしか聴いたことがなかったこともあり、まだ気づいていなかった。

「LIFE」は1994年から翌年にかけてずっと売れ続けていたようなのだが、この間にはアルバム未収録の新曲がシングルとしていろいろリリースされ、いずれもヒットしていたようである。筒美京平が作曲をした「強い気持ち・強い愛/それはちょっと」が特に話題になっていたような気がするのだが、オリコン週間シングルランキングでの最高位は1995年の元旦にリリースされたCMソング「カローラⅡにのって」である。

当時、会社に祖師ヶ谷大蔵と幡ヶ谷から通っている女性社員がそれぞれいて、私がどうやら2股をかけているらしいという事実無根のデマゴーグが流されたわけだが、仮に祖師ヶ谷大蔵から通っていた方を〇〇、幡ヶ谷から通っていた方を△△として、会社の先輩社員達は「カローラⅡにのって」のメロディーに乗せて、「カローラⅡにのって 祖師谷に出かけたら 〇〇がいないので そのまま幡ヶ谷」、あるいは「カローラⅡにのって 幡ヶ谷に出かけたら △△がいないので そのまま祖師谷」という悪質な替え歌を笑いながら歌っていた。

当時の小沢健二のメインのファン層というのは、おそらく仔猫ちゃんなどと呼ばれがちなファッショナブルでハイセンスな女性達だったかもしれないのだが、それだけではなく、このような層にまで影響がおよんでいたところがやはりすごかったのではないかと思えるのである。

「いちょう並木のセレナーデ」という曲が、サザンオールスターズの原由子の曲と同名異曲で、しかもオマージュだとされているようである。原由子の曲は青山学院大学に在学していた当時のことを回想する内容だといわれ、「学食のすみであなたがくれた言葉」という歌詞ではじまる。思えば私がフリッパーズ・ギターの話を初めて聞いたのは、この青山学院大学の「学食のすみ」だったはずである。「学祭ではじけて恋した あの頃よ」など、ピュアなフレーズがとても印象的である。そういった精神性も含めて、オマージュになっているようにも感じられた。

サザンオールスターズといえば、「LIFE」の1曲目に収録された「愛し愛されて生きるのさ」の歌詞には「いとしのエリー」のタイトルが入ってもいる。1979年にリリースされ、王道的に大ヒットしたバラードであるこの曲について、胸をいためて聴いていたと歌われる。

「LIFE」の音楽性について、ソウル・ミュージックやファンクからの影響が指摘されることが多いのだが、リリース当時、90年代半ばのR&Bという感じではなく、もっと汎用的な概念としてのそれをメインストリームの日本のポップスとして通用するようにアジャストしたというか、そんな印象がある。これはもしかすると、サザンオールスターズが初期において洋楽のロックに対して行っていたことと近いのかもしれないと感じたりもした。

そして、小沢健二のボーカルはフリッパーズ・ギターの頃ともソロデビュー曲「天気読み」の頃ともかなり違っていて、ひじょうに躁的というか、実にユニークである。ポップ・ミュージックとして優れていることは間違いがなく、それを楽しむことができるのだが、やはり眩しすぎるというか、この躁状態のような気分に入り込むことができないのは、完全に私の個人的な問題である。「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー」だと、恋人を略奪される方の男性に感情移入してしまうというか、自分はおそらくそっち側の人間であるというようなカジュアルなひねくれがベーシックにある。それで、こういうのはそれにどっぷりとハマれた方が絶対に楽しいというか、その圧倒的なポップ感覚のようなものが味わえるに決まっているのだが、自分にはその素養が欠けていることが残念である。