パルプ「ベイビーズ」について。

パルプのシングル「ベイビーズ」は1992年10月5日にリリースされた。「NME」のレヴューや記事などを手掛かりに聴いたこともないアーティストや曲のレコードを西新宿のラフ・トレード・ショップで買いまくるということを当時、定期的にやっていたのだが、個人的に気に入るものもあればそうでもないものもあった。

「ベイビーズ」の12インチ・シングルもそのような流れで買ったはずなのだが、一緒に買ったのが誰の何だったかについてはよく覚えていない。スウェードとかデニムとか素材を名前にしたようなバンドがいくつかあったが、デニムのローレンスが以前にやっていたバンドもフェルトという名前であった。パルプは木材や古紙から繊維を取り出してつくる紙の原料だが、小学生の頃に旭川の豊岡8条1丁目にあった空き地で近所の子供たちと草野球をしていた時、山陽国策パルプの煙突から煙がモクモク出ているところが遠くに見えていたものである。それは1970年代後半の話なのだが、イギリスのシェフィールドでパルプが結成されたのもそれぐらいの時期である。つまり、かなり長いことやっていたのだ。

若くしてジョン・ピール・セッションに出演するなど前途には期待がされたのだが、その後、なかなか上手くはいかず、メンバー編成や音楽性も安定しなかったようだ。そして、1991年にリリースしたシングル「マイ・レジェンダリー・ガールフレンド」が「NME」のシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれたということなのだが、私が「NME」の購読をはじめるのは翌年のブラーが表紙の号からなので、この頃にはパルプというバンドのことをまだ知らない。そして、1992年の「O.U.」は「メロディー・メイカー」でスウェードのデビュー・シングル「ザ・ドラウナーズ」と同じ週にシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれたらしい。この頃、「NME」はすでに購読していたのだが、「メロディー・メイカー」はまだ読んでいなかったので、やはりパルプのことは知らないままである。

六本木WAVEがリニューアルオープンするのが1992年10月16日なので、「ベイビーズ」はその少し前にリリースされたことになる。倉庫のようなところで準備作業などをしていた頃である。パルプはこれ以前まで、音楽性がいろいろ変わった末に、ややエクスペリメンタルであったりレイヴ・ミュージックに影響を受けたりして、ポップでキャッチーという感じではまったくなかったらしいのだが、ドラマーのニック・バンクスが休憩中にジャーヴィス・コッカーのギターを借りてたまたま弾いた2つのコードが、この「ベイビーズ」という曲に発展していったのだという。

そのような経緯も、そもそもこのパルプというバンドそのものについてほとんど何も知らなかった私は、ラフ・トレード・ショップで買った「ベイビーズ」の12インチ・シングルを、柴崎のワンルームマンションに帰宅後にステレオで再生した。ます、インディー・ロック・バンドであるにもかかわらず、チープなシンセサイザーの音色を効果的に用いているところに、ニュー・ウェイヴ的な良さを感じた。そして、ボーカルの声は低く、ストーリーを歌っていく。

かなり以前の話なのだが、好きな女性の家に行くと、彼女より2歳年上の姉の部屋が隣にあって、彼氏を連れてきて情事を楽しんでいるようである。それで壁に耳をそばだてて、様子をうかがう。しばらくはそれで満足だったのだが、やがて我慢ができなくなって、ワードローブの中に隠れる。しかし、見つかってなぜか好きな女性の姉と情事に至る。それが妹であるもともと好きな女性に見つかるのだが、お姉さんと寝たのは君に似ていたからだと開き直ったあげく、君は僕の彼女になるべきだとか、僕の子供を産んでほしいとか、たまらなくキャッチーなメロディに乗せて歌ったかと思うと、イェイイェイェイイェイイェイ~などと繰り返される。

世間一般的にはほとんど知られていないインディー・ロック・バンドのボーカリストにすぎないのだが、まるでポップ・スター気取りで歌うジャーヴィス・コッカー、これはすごい、好きだと瞬時に思った。カップリングに「シェフィールド:セックス・シティ」という曲が収録されていて、これはエクスペリメンタルなタイプの楽曲だったのだが、当時、「ベイビーズ」が好きすぎたこともあり、「三軒茶屋セックス・シティ」というオマージュを捧げたというか完全にパクりではないかというタイプの曲をつくったことは良い思い出である。あの曲のモデルになっていた、当時、三軒茶屋に住んでいた青山学院大学文学部英文学科のUさんは今頃どこで何をしているのだろうか。

それはそうとして、現在、YouTubeでも公式に配信されているもの以外に、当時、ミュージックビデオが制作されていて、それに姉妹役で出演していた妹の方は、セイント・エティエンンヌのボブ・スタンレーが付き合っていた人で、別にタレントでもなんでもなかったらしい。そして、姉役を演じていたのは実際に2歳年上の本当の姉だったという。

評価はされはじめていたのだが、全英シングル・チャートにランクインは果たせず、商業的にはまだまだ厳しめの状況であった。しかし、追い風は確実に吹いているようにも思われたのだ。

ブリットポップが盛り上がりつつあるような空気感の中、パルプはメジャーのアイランドと契約し、1994年にはアルバム「彼のモノ★彼女のモノ」をリリースするのだが、これには「ベイビーズ」のリミックスされたバージョンが収録された。さらには「ベイビーズ」の続編ともいえる「ユア・シスターズ・クローゼズ」などと共に「シズターズ」EPに収録され、これはパルプにとってこの時点で最高となる、全英シングル・チャートで19位まで上がった。このタイミングで新しいビデオが制作されて、現在、YouTubeで公式に見ることができるのはこちらのバージョンである。とはいえ、ジャーヴィス・コッカーはひじょうに痩せていて、健康そうにはまったく見えない上に、ギタリストのラッセル・シニアはなかなかヤバめな表情をしている。

このような状態ではあったのだが、1995年には「コモン・ピープル」「ソーテッド・フォー・イーズ・アンド・ウィズ/ミス・シェイプス」が続けて全英シングル・チャートで最高2位、グラストンベリー・フェスティバルで急遽、ヘッドライナーをキャンセルせざるを得なくなったストーン・ローゼズの代役を務め、アルバム「コモン・ピープル」が全英アルバム・チャートで1位、マーキュリー賞も獲得してしまった。

当時、そのように呼ばれていた記憶はほとんどないのだが、ブリットポップのビッグ4といえば、オアシス、ブラー、パルプ、スウェードを指すらしい。たけし・さんま・タモリのお笑いBIG3や、清水アキラ・ビジーフォー・栗田貫一・コロッケのお笑い四天王のようなものだろうか。パルプがこのようなポジションを獲得するに至る過程において、「ベイビーズ」はひじょうに重要なシングルだったということができる。