R.E.M.「オートマティック・フォー・ザ・ピープル」について。

R.E.M.の8作目のアルバム「オートマティック・フォー・ザ・ピープル」は全米アルバム・チャートで最高2位、全英アルバム・チャートでは1位のヒットを記録したのみならず、このバンドの最高傑作と見なされる場合が多い。ちなみに、全米アルバム・チャートでこのアルバムが1位になるのを阻んだのはガース・ブルックスの「果てなき野望」であった。

R.E.M.の名前を日本の音楽雑誌でも目にするようになったのは確か80年代の前半のことであり、1983年にリリースされたデビュー・アルバム「マーマー」がマイケル・ジャクソン「スリラー」を抑えてこの年の年間ベスト・アルバムに選ばれていた。全米トップ40に入るようなヒット曲があるわけではないのだが、アメリカのカレッジ・ラジオと呼ばれる文字通り大学生のラジオ局で人気があると報道されていた。当時のメインストリームであった80年台的な派手なサウンド・プロダクションとは異なり、60年代のザ・バーズのようなフォーク・ロック的な音楽性であり、歌詞はアメリカ人が聴いても何を歌っているのかよく分からない、などと伝えられていたような気がする。

1985年に神保町の交差点のところにあったカメラ店の店頭ではカセットテープの輸入品が安価で売られていたのだが、ここでR.E.M.の「玉手箱」を買おうかどうか迷い、結局、買わなかった記憶がある。このアルバムの全米アルバム・チャートでの最高位は28位だったが、神保町の交差点のところにあったカメラ店でもすでに売れ筋商品と見なされていたのではないかと思われる。

その後、1987年のアルバム「ドキュメント」で初めて10位以内に入り、先行シングル「ワン・アイ・ラヴ」も全米シングル・チャートで最高9位を記録した。1989年の初めの方にTBSテレビで放送していたMTVか何かで「スタンド」のビデオを見たのだが、それでなかなかポップで良いじゃないかと思い、収録アルバム「グリーン」のCDを宇田川町にあった頃のタワーレコード渋谷店で買ったのだった。まだ縦長の紙パッケージに入って売られていたような気がする。

ローリング・ストーン誌は「80年代のアルバム・ベスト100」で「マーマー」をザ・クラッシュ「ロンドン・コーリング」(1979年にリリースされたアルバムだがアメリカでは1980年に入ってから発売されたので、この企画では80年代のアルバムと見なされていた)、プリンス&ザ・レヴォリューション「パープル・レイン」、U2「ヨシュア・トゥリー」、トーキング・ヘッズ「リメイン・イン・ライト」、ポール・サイモン「グレイスランド」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」、マイケル・ジャクソン「スリラー」に次ぐ8位、「ドキュメント」を41位に選んでいた。

90年代に入ってから最初のアルバム「アウト・オブ・タイム」は全米アルバム・チャートで初の1位に輝き、シングル・カットされた「ルージング・マイ・レリジョン」「シャイニー・ハッピー・ピープル」もそれぞれ最高4位と10位のヒットを記録した。グラミー賞でも3部門で受賞し、高い評価を受けながらメインストリームでも売れているというひじょうに理想的な状態を実現していたということができる。この年の秋にニルヴァーナ「ネヴァーマインド」がリリースされると大ヒットを記録し、オルタナティヴ・ロックがメインストリーム化していくきっかけとなる。それ以前にR.E.M.はオルタナティヴ・ロック出身でありながらメインストリームに進出していたのだが、その過程がとてもナチュラルであり、あまり衝撃という感じでもなかったのかもしれない。

そして、1992年の秋に「オートマティック・フォー・ザ・ピープル」がリリースされるのだが、当時、CDショップで働いてもいた私は先行シングル「ドライヴ」のサンプル盤を発売前に入手していた。期待して聴いてみた最初の感想は、これはあまりにも地味なのではないかというものであった。何度も繰り返し聴いているうちに深みは感じられてきたものの、待望のニュー・アルバムからの先行シングルとしてはインパクトに欠けるというかちょっと弱いのではないかと感じていた。「ヘイ、キッズ、ロックンロール」などという勢いのあるフレーズに反し、アコースティックでストリングスも効果的に用いられたバラードであった。

しかし、これが実はロナルド・レーガン、ジョージ・H・W・ブッシュと続いていた共和党政権に対する静かな怒りと嘆き、若者たちに対する投票の促しを含む曲だと知った時には驚かされた。この翌月にアメリカ大統領選挙があって、ビル・クリントンが当選することにより、民主党が12年ぶりに政権を取り戻した。この選挙では若者の投票率がひじょうに伸びたともいわれていて、これにはR.E.M.も深くかかわっていた「ロック・ザ・ヴォート」の活動も影響していたのではないかと思われる。また、この曲にはビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のタイトルと共に時計の秒針の音が歌詞として用いられているが、それもこのままでは手遅れになってしまうというような切迫感を表現しているように思える。70年代のグラム・ロック・ソング、デヴィッド・エセックス「ロック・オン」からの引用も見られたりする。

アルバムはリリースされた当初から海外の音楽誌の各レヴューで大絶賛されていたのだが、オルタナティヴ・ロックをルーツとしながらも、メインストリームでも通用する大人のロック・アルバムという印象を受けた。それは、収録曲の大半がバラードであり、アコースティックなサウンドでストリングスが効果的に用いられてもいたという印象によるものであろう。このアルバムに収録されたいくつかの曲でのストリングス・アレンジを、レッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズが手がけている。しかし、実際には若者たちに向けたメッセージも相当に含まれていた。

また、死を連想させる楽曲が多いことも特徴的であった。R.E.M.は前作「アウト・オブ・タイム」に続き、このアルバムでもリリース後のツアーを行わなかったのだが、これがマイケル・スタイプの健康状態が実はかなり悪化しているのではないか、という噂を広めることにつながった。余命がそれほど長くはないのではないかという憶測さえ、大きなメディアに普通に掲載されているようなレベルであった。マイケル・スタイプは実際にこれにはブチ切れていたらしいのだが、あえてあまり相手にしないようにしていたという。

2曲目に収録された「トライ・ノット・トゥ・ブリーズ」もそのようなタイプの曲であり、確かにひじょうに深みのある作品ではあるのだが、これではあまりにも地味すぎはしないだろうかと感じていた矢先、次がキャッチーな「サイドワインダー・スリープス・トゥナイト」である。冒頭でトーケンズ「ライオンは寝ている」が引用されているが、シングル・カットされた際にはカップリングにこの曲のカバーも収録していた。サイドワインダーとは砂漠に生息するヨコバイガラガラヘビの別名であり、電話機のコードにたとえられているという解釈もある。コーラスでは「Call me when you try to wake her up」と繰り返し歌われているのだが、英語を母国語とする人たちにも正しく聞き取ることが難しく、「calling Jamaica」「call me Jamaica」などと空耳されているらしい。

そして、4曲目のシングルとしてカットもされた「エヴリバディ・ハーツ」はひじょうにストレートなバラードであり、自殺しようとしている人達に対するメッセージ・ソングになっている。歌詞がシンプルなのは若者に向けて書かれているからだともいわれているが、本来のR.E.M.のリスナーよりも幅広い層にアピールした曲ともいえるかもしれない。個人的には当時、あまりにもストレートすぎてそれほど熱心には聴いていなかったのだが、いまとなってはアトランティック/スタックスのソウル・バラードにも通じる素晴らしい楽曲だと感じられる。高速道路で撮影されたミュージックビデオもひじょうに印象的である。

インストゥルメンタルの「ニュー・オリンズ・インストゥルメンタルNo.1」をはさんで「スウィートネス・フォローズ」だが、この曲は死後の世界に対する希望を歌ったものである。「モンティ・ガット・ア・ロウ・ディール」は、俳優のモンゴメリー・クリフトのことを歌った曲である。圧倒的な美貌を誇り、数々のヒット作品に出演していたが、内面では当時の時代背景もあって、同性愛者であることに苦悩させられたり、大腸炎やアルコールとドラッグに溺れたあげく、交通事故によって顔面を負傷するという悲劇のイメージもひじょうに強い。そして、45歳の時に心臓発作で亡くなっている。

「イグノーランド」はこのアルバムの中で最もアグレッシヴな曲ともいえるが、内容はほとんどが共和党政権に対する痛烈な批判である。そして、歌詞においてはこの年に行われる大統領選挙においても、どうせジョージ・H・W・ブッシュが再選されてしまうのだろうという諦念のようなものも感じられ、いろいろ鋭く批判を浴びせながらも、最後にはこんなことを歌ってもおそらく意味はないのかもしれない、それでも気分が少しはましになった、というように締められている。

「スター・ミー・キトゥン」は10cc「アイム・ノット・イン・ラヴ」のアイデアも取り入れた楽曲で、映画「めぐり逢えたら」の撮影の合間にスタジオを訪れた女優のメグ・ライアンも気に入ったのだという。しかし、その時、この曲のタイトルは「ファック・ミー・キトゥン」で、メグ・ライアンはタイトルに「ファック」という単語が入っている曲を収録したアルバムを田舎では若者が買うことができないという指摘によって、タイトルが変更されたといわれている。

2枚目のシングルとしてカットされた「マン・オン・ザ・ムーン」はマイケル・スタイプを除いたメンバーで早くから行われていたセッションですでに出来ていた曲だが、歌詞が最後まで書けなかったのだという。結果的にコメディアンのアンディ・カウフマンをテーマにした内容となり、後にジム・キャリーが主演した映画で生涯が描かれた際にも同じく「マン・オン・ザ・ムーン」というタイトルが用いられた。このアルバムでは数少ないアップテンポな曲のうちの1つで、シングル向きだったともいえる。アンディ・カウフマンのエピソードに関連したフレーズの他に懐かしいゲームの名称など、全体的にノスタルジックなムードが漂っているようだ。アンディ・カウフマンは生前の様々なジョークの印象から、1984年に肺がんで亡くなった時にも、死を偽装しているのではないかと疑う人達が多かったという。そして、この曲には「yeah」というフレーズがたくさん出てくるのだが、これはやはり「yeah」を多用する印象が強いニルヴァーナに対抗したものだという。ニルヴァーナ「リチウム」の42回に対し、「マン・オン・ザ・ムーン」には56回の「yeah」が含まれているらしい。

ニルヴァーナのカート・コバーンが1994年4月に亡くなっているのを発見された時、ステレオには「オートマティック・フォー・ザ・ピープル」がセットされていたといわれている。生前にカート・コバーンはこのアルバムのことを絶賛していた。

「ナイトスウィミング」は夜に川などで裸で泳ぐことを歌っていて、R.E.M.のメンバーは若かりし頃、ライブの後などに実際にこれをやっていたらしい。その頃の気分などが歌われたノスタルジックな楽曲であるのと同時に、危険と背中合わせのスリリングな遊びでもあったが、いまは人生そのものがそれになったというように解釈できるフレーズもあり、イノセンスの喪失と大人になることというテーマが取り上げられているようでもある。

そして、アルバムの最後に収録されたのが「ファインド・ザ・リヴァー」であり、これも川を見つけるということが人生そのもののメタファーにもなっていて、やはり若者たちへのメッセージが込められているようにも思える。

このアルバムがリリースされてからもう30年近くも経つのだという事実にはあまり実感がないのだが、それはこのアルバムを定期的にずっと聴いてきていて、まったく懐かしくなっていないどころか、聴けば聴くほど良さがにじみ出るように感じられているからかもしれない。当時から高評価はされていたし売れてもいたのだが、けしてトレンディーというわけでもなかったと思う。実際に当時の私はスウェードやパルプやレディオヘッドのシングルに夢中で、このアルバムはとても優れているとは感じていたものの、熱烈に好きだったかというとそうでもなかったような気はする。ずっと聴き続けているうちにどんどん良くなってきたというか、それはあくまでこちらの感じ方なのだが、まるでこのアルバムそのものにコクが出てきたような錯覚にさえ陥る。秋の夜長に落ち着いてじっくりと味わうにももってこいのアルバムであり、人生の様々なフェイズにおいて異なった感じ方が楽しめる作品だともいえるような気がする。