スパイス・ガールズ「ワナビー」【名曲レヴュー】
1997年2月22日付の全米シングル・チャートでは、スパイス・ガールズのデビューシングル「ワナビー」がトニー・ブラクストン「アンブレイク・マイ・ハート」に替わって1位に輝き、すでに本国のイギリスではひじょうに盛り上がっていたガールズ・パワー旋風をワールドワイドに広めていくきっかけとなった。
90年代半ばのイギリスのポップミュージックといえばブリットポップの印象がひじょうに強いわけだが、実際にもっと売れていたのはテイク・ザットやイースト17などの男性アイドルグループである。これらを英語ではボーイバンドなどと呼ぶのだが、日本だとバンドという単語には楽器を演奏している人達のイメージがどうしても強く、あまりしっくり来なかったりもする。たとえばジャニーズ事務所に所属する男性アイドルグループなども、英語ではボーイバンドということになるのだろう。
スパイス・ガールズのメンバーは当時のボーイバンドブーム下において、それの女性版をやってみてはどうかというような意図で募集されたようである。それはニルヴァーナのカート・コバーンがまだ生きていて、オアシスのレコードがリリースされていなかった最後の月、1994年3月のことだったという。この年にイギリス労働党のジョン・スミスが急死したことにより、当時まだ41歳であったトニー・ブレアが党首に選ばれることになる。その中道保守的な路線はより幅広い支持をあつめ、1997年には第73代首相に選ばれることになるのだが、この間のイギリスのポップ・カルチャーにはひじょうに勢いがあり、音楽、映画、アート、広告などの各分野において、世界中から注目されるようになる。
オアシスやブラーといったブリットポップバンドや、ケミカル・ブラザーズやアンダーワールドによるテクノミュージック、映画「トレインスポッティング」やダミアン・ハーストのポップアートなどと並び、スパイス・ガールズはクール・ブリタニアと呼ばれるこういった状況を象徴するような存在でもあった。
1996年の夏といえばブリットポップムーヴメントのピークだったと後に振り返られることになるオアシスのネブワース公演が8月には行われるのだが、その数ヶ月前の土曜日の昼間に、幡ヶ谷のマンションで前日の深夜に放送された「BEAT UK」のビデオを見ていた。この番組は当時、フジテレビで金曜の深夜に放送されていて、インターネットもまだそれほど普及していなかった時代に、イギリスのポップシーンを知る上で貴重な情報源の1つであった。確か番組が終わった後だと記憶しているのだが、スパイス・ガールズ「ワナビー」のビデオが録画されていたのである。それぞれに個性的な5名のメンバーがラップを取り入れたダンスポップ的な楽曲に乗せて、勢いよく踊ったり走ったりしていた。当時の全英シングル・チャートに入っていたような曲と比較して、第一印象は少しずれているようにも感じられ、B級感が漂っているようにも思われた。
しかし、これが数週間後には「BEAT UK」のチャートでも1位にランクインし、これこそが旬のポップミュージックという感じになっていく。後にスパイス・ガールズになるメンバー達は1994年の募集で集められたのだが、当初のメンバーのうち1人はすぐに脱退し、ベイビー・スパイスことエマ・バントンが加入したという。ラップやボーカルで大活躍するメラニー・ブラウンはスケアリー・スパイス、赤い髪が特徴でボーカルパートも多いジェリ・ハリウェルがジンジャー・スパイス、「ワナビー」のビデオで見せたバク転も印象的なメラニー・チズムがスポーティ・スパイス、シックでクールなイメージが特徴的なヴィクトリア・キャロライン・アダムスがポッシュ・スパイスで、後に人気サッカー選手のデヴィッド・ベッカムと結婚してヴィクトリア・ベッカムとなった。ベイビー・スパイスはその名の通り、清純派のイメージである。
いろいろあった末に、マネージメント会社を移り、ヴァージン・レコードと契約したのだが、レーベルはメンバーの意向に反して「ワナビー」以外の曲をデビューシングルにしようとしていたらしい。より多くの人々にアピールするため、もっと無難な感じの曲の方が良いのではないかと考えていたようである。「ワナビー」はプロのソングライターによってつくられていたが、ソングライティングのセッションにはメンバーも参加していて、歌詞のアイデアを出したりもしていた。そのため、ソングライターとしてクレジットもされている。付き合う男性に自分自身へのリスペクトを求めたり、ヘテロセクシュアル的な恋愛関係よりも女性同士の友情を大切にするような内容がガール・パワーアンセムとして支持され続けているようなところもあるこの曲はメンバーにとってもひじょうに思い入れがあり、ぜひこれをデビューシングルにとレーベルに対しても強く訴えた結果、リリースに至ったのだという。
まずはミュージックビデオがイギリスのザ・ボックスというケーブルテレビ局で流されたところ、大反響を呼び、リクエストが殺到したのだという。それによってメディアからの取材や出演依頼なども増えていき、CDが発売されるよりも前にイギリスではすでにかなりの知名度があったということになる。ワールドワイドなプロモーションというのも当初から視野に入れていたようで、日本と東南アジアでは「ワナビー」のシングルがイギリスに先がけて発売されていたようだ。ちなみに「BEAT UK」には確かヴァージン・メガストアがかかわっていたはずであり、この番組の後に「ワナビー」のビデオが流れていたのではないかという個人的な記憶に間違いがないとすれば、それも計算されたプロモーションだったかもしれない。
「ワナビー」のシングルはイギリスで1996年7月に発売されると全英シングル・チャートの3位に初登場し、翌週には元テイク・ザットのゲイリー・バーロウ「フォーエヴァー・ラヴ」に替わって1位に輝いた。その後、7週連続1位の大ヒットとなり、年間チャートではフージーズ「キリング・ミー・ソフトリー・ウィズ・ヒズ・ソング」に次ぐ2位を記録した。「ワナビー」が全米シングル・チャートで1位になった頃、スパイス・ガールズはプロモーションのため日本にいて、人気テレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」には、日本の寺院のようなところからの中継で出演していた。
イギリスではこの後にリリースされたシングル「セイ・ユール・ビー・ゼア」「2・ビカム・1」、アルバム「スパイス」もすべて1位になった。翌年の1月にはアメリカでも「ワナビー」のシングルがリリースされ、全米シングル・チャートの11位に初登場した。これはイギリスのアーティストによるデビューシングルとしては当時、ビートルズ「抱きしめたい」の12位を抜く新記録だったようだ。そして、2月22日付において、ついに1位に輝いたのであった。
その週、イギリスでは全英シングル・チャートの1位がノー・ダウト「ドント・スピーク」、2位がウォーレン・G「アイ・ショット・ザ・シェリフ」だったわけだが、1997年2月24日にロンドンのアールズ・コートで開催されたブリット・アワードにおいては、「ワナビー」がオアシス「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」、マニック・ストリート・プリーチャーズ「デザイン・フォー・ライフ」、アンダーワールド「ボーン・スリッピー」などのノミネート曲を抑えて、最優秀ブリティッシュ・シングル賞を受賞していた。ちなみにスパイス・ガールズは最優秀ブリティッシュ・ニューカマー賞にもノミネートされていたのだが、これを受賞したのはブリットポップバンドのクーラ・シェイカーであった。
「ワナビー」のビデオについてなのだが、初めて見た時にはB級的な気分を感じたりもしていたものの、いまや当時のポップ感覚を真空パックした貴重な資料のようでもあり、それ以上に見ていて単純にテンションが上がってしまうのだから人の印象というのも適当なものである。当時、テレビCMで活躍していた監督によって撮影されたということなのだが、ホテルで歌ったり踊ったり走ったりバク転までしてしまうメンバー達をカメラがずっと追い続けていて、すべてが1カットで撮影されているのもすごい。そこにグループが発するポジティヴなエネルギーがしっかりと収められ、クール・ブリタニアの気分すら象徴しているようでもある。