ザ・スペシャルズ「トゥー・マッチ・トゥー・ヤング」【名曲レヴュー】

1980年2月2日付の全英シングル・チャートでは、ザ・スペシャルズ「トゥー・マッチ・トゥー・ヤング」が前週の初登場15位から大きくラックアップして、プリテンダーズ「ブラス・イン・ポケット」に替わって1位に輝いた。同時期に全米シングル・チャートではマイケル・ジャクソン「ロック・ウィズ・ユー」、日本ではTBSテレビ系の「ザ・ベストテン」でクリスタル・キング「大都会」が1位であった。

「トゥー・マッチ・トゥー・ヤング」は「ザ・スペシャルA.K.A.ライヴ!」というEPの表題曲であり、レコードジャケットに表記されたアーティスト名はザ・スペシャルA.K.A.フィーチャリング・リコとなっていた。リコというのはトロンボーン奏者のリコ・ロドリゲスのことであり、2作目のアルバム「モア・スペシャルズ」の頃にはザ・スペシャルズに加入しているのだが、この頃は参加はしているものの正式メンバーではなかった。

エルヴィス・コステロがプロデュースしたデビューアルバム「スペシャルズ」は1979年10月19日にリリースされ、全英アルバム・チャートで最高4位を記録した。「トゥー・マッチ・トゥー・ヤング」はこのアルバムにも収録されていたのだが、シングルカットされたのはロンドンのライセウムという会場でレコーディングされたライブバージョンである。「ザ・スペシャルA.K.A.ライヴ!」のEPにはA面に「トゥー・マッチ・トゥー・ヤング」の他に同じくロンドンのライセウムでレコーディングされた「ナバロンの要塞」、B面にはバンドの地元であるコヴェントリーのティファニーズで録音され、「スキンヘッド・シンフォニー」と題された「ロング・ショット・キック・ダ・バケット」「リキデイター」「スキンヘッド・ムーンストンプ」が収録されていた。

レコードはザ・スペシャルズのメンバー、ジェリー・ダマーズが立ち上げた2トーン・レコーズからリリースされていた。ザ・スペシャルズの音楽はスカリバイバルにカテゴライズされ、ジャマイカ発祥のポップミュージックであるスカにパンクロック的な要素を加えたものであった。こういったタイプの音楽は当時のイギリスでは流行していて、ザ・スペシャルズ「トゥー・マッチ・トゥー・ヤング」が1位になった1980年2月2日付の全英シングル・チャートでも、3位にマッドネス「マイ・ガール」、17位にザ・ビート「涙のクラウン/ランキン・フル・ストップ」、29位にセレクター「スリー・ミニッツ・ヒーロー」など、スカリバイバルのレコードがランクインしていた。

「トゥー・マッチ・トゥー・ヤング」は、全英シングル・チャートにおいて1976年のデミス・ルソス「ザ・ルソス・フェノミナンEP」以来、歴代2曲目のEPでの1位であり、ライブバージョンでの1位ということでは1972年のチャック・ベリー「マイ・ディンガリン」以来であった。また、2分04秒という演奏時間は、1980年代に全英シングル・チャートで1位になった曲の中では最短だという。

ジャマイカのアーティスト、ロイド・チャーマーズが1979年に発表した「バース・コントロール」という曲がベースになっていて、テンポはひじょうに速まっている。タイトルがあらわしているように、避妊を推奨する内容となっている。

イギリスの人気テレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」でミュージックビデオが放送された際には、避妊具の装着を意味していると思われる「ちゃんと帽子をかぶせろよ(try wearing a cap)」というフレーズの直前でカットされたという。

ザ・スペシャルズはデビューシングルの「ギャングスターズ」が全英シングル・チャートで最高5位、次の「ルーディたちへのメッセージ/ナイト・クラブ」が最高10位に続いて、3枚目のシングルにして初の1位に輝いたことになる。この後も「ラット・レース/ルード・ボーイズ・アウタ・ジェイル」が最高5位、「ステレオタイプ/インターナショナル・ジェット・セット」が最高6位、「ドゥ・ナッシング/マギーズ・ファーム」が最高4位に続いて、1981年には「ゴースト・タウン」で2曲目となる1位に輝き、7曲連続でトップ10入りを果たしたのだから相当に人気があったということになる。

一方で全米シングル・チャートには、1曲もランクインしていなかった。同じくスカリバイバルのバンドでもマッドネスは第2次ブリティッシュインヴェイジョンの流れにも乗り、1983年には「アワ・ハウス」が全米シングル・チャートで最高7位のヒットを記録した。日本では1981年にホンダ・シティという小型自動車のテレビCMに出演し、インパクトのあるビジュアルとムカデダンスでお茶の間レベルでも認知されていた。

その後、ザ・スペシャルズからはテリー・ホール、ネヴィル・ステイプル、リンヴァル・ゴールディングが脱退してファン・ボーイ・スリーを結成、残されたメンバーはザ・スペシャルAKAとして活動を続け、1984年にはシングル「フリー・ネルソン・マンデラ」が全英シングル・チャートで最高9位のヒットを記録した。

南アフリカのアパルトヘイトに反対し、投獄されていたネルソン・マンデラの釈放を訴えるプロテストソングである。後にネルソン・マンデラは無事に釈放され、ノーベル平和賞を受賞したり南アフリカ共和国の大統領に選ばれたりもした。

ザ・スペシャルズは人種混合のバンドとしても知られ、その音楽性からの必然性もあり人種差別に反対の姿勢を前面に出していた。「フリー・ネルソン・マンデラ」などと共にザ・スペシャルAKAのアルバム「イン・ザ・スタジオ」に収録されシングルでもリリースされていた「レイシスト・フレンド」では、「もし君にレイシストの友達がいるとするならば いまがその時 その友情は君のためにも終わりにした方がいい」というようなことが歌われている。