ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」【名曲レヴュー】

1984年3月17日付の全米シングル・チャートでは、ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」が4週目の1位に輝いていた。この曲の連続1位はトータルで5週間におよぶのだが、3月31日付のチャートではケニー・ロギンス「フットルース~メイン・テーマ」にその座を明け渡している。この曲が5週連続1位だったことによって、最高位が2位に終わったのは、ネーナ「ロック・バルーンは99」、シンディ・ローパー「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」(当時の邦題は「ハイスクールはダンステリア」)、ロックウェル「ウォッチング・ミー」の3曲であった。

1978年に「炎の導火線」でデビューしたヴァン・ヘイレンは、ハードロックやヘヴィメタルのファンの間ではすでにひじょうに人気があった。当時、パンクやニュー・ウェイヴが好きな人たちは、表面上はハードロックやヘヴィメタルをあまり好まないということになっていたため、修学旅行で訪れた京都のロックファッションの店でパブリック・イメージ・リミテッドの缶バッジを買うなどして悦に入っていた地方の男子高校生にとっても親和性は低いバンドであった。とはいえ、スターリンとアースシェイカーのコピーバンドを掛け持ちしている知人などというの普通にいたりもしたわけである。

それはそうとして、ヴァン・ヘイレンの音楽を主体的に聴いてはいなかったものの、1982年に全米トップ40にランクインしていた「オー・プリティ・ウーマン」と「ダンシング・イン・ザ・ストリート」は知っていた。最高位はそれぞれ12位と38位であった。「オー・プリティ・ウーマン」は春休みに札幌の親戚の家に遊びにいっていた時にNHK-FMの「リクエストコーナー」でオンエアされたのだが、叔父がロイ・オービソンのオリジナルを聴かせてくれた。「ダンシング・イン・ザ・ストリート」は、マーサ&ザ・ヴァンデラスのカバーであることを後に知った。ヴァン・ヘイレンの最初のヒット曲は「ユー・リアリー・ガット・ミー」で、これもまたザ・キンクスのカバーであった。デビュー以来、4曲の全米トップ40ヒットのうち、「踊り明かそう」はオリジナル曲だったが、他の3曲はすべてカバーであった。

デイヴィッド・リー・ロスのワイルドなボーカルも特徴的だったが、エドワード・ヴァン・ヘイレンの超絶ギターテクニックこそが最大の魅力という印象であった。「ジャンプ」は1983年の暮れにアルバム「1984」からの先行シングルとしてリリースされた。その頃、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が少し話題になっていて、「ミュージック・マガジン」などでも管理社会への警鐘という感じで取り上げられていたような気がする。旭川のブックス平和か冨貴堂で、ハヤカワ文庫版を買ったはずである。ヴァン・ヘイレンのアルバム「1984」は1984年1月9日に発売されたが、「1/9/84」で「1984」とする目的があったのかもしれない。

「ジャンプ」の特徴はなんといっても、イントロをはじめシンセサイザーのサウンドがひじょうに目立っているという点であろう。しかも、これを弾いているのがギターヒーローのエドワード・ヴァン・ヘイレンである。周囲のハードロックやヘヴィメタルのファンは微妙な反応をしていて、ヴァン・ヘイレンは商業主義に魂を売った、などと言っている者もいた。エドワード・ヴァン・ヘイレンはそもそもギターよりも先にピアノを習得していたようで、シンセサイザーを用いた曲のアイデアもかなり以前から出していたという。しかし、他のメンバーたちから却下されていたようだ。「ジャンプ」において、エドワード・ヴァン・ヘイレンはシンセサイザーだけではなく、ギターソロなどもしっかり披露していて、つまり大活躍だったというわけである。

ハードロックやヘヴィメタルに対してほとんど思い入れがない立場からしてみると、これはなかなかおもしろい曲に思えた。ミュージックビデオも、デイヴィッド・リー・ロスのコミカルにも感じられる動きや、エドワード・ヴァン・ヘイレンのとても良い笑顔など、なかなか楽しめるものであった。当時のミュージックビデオにありがちであった、ステージでのパフォーマンスを中心とした映像であった。デイヴィッド・リー・ロスについては、これ以外にも映像が撮影されていたようなのだが、このミュージックビデオには使われていなく、後に「パナマ」のビデオに一部が使われたという。デイヴィッド・リー・ロスはこのビデオ撮影についていろいろ不満があったらしく、それがバンドからの脱退につながっていったともいわれている。

「ジャンプ」はその勢いのあるテーマからスポーツのBGMなどにもよく使われるのだが、アイデアの素になったのは、デイヴィッド・リー・ロスが見た飛び降り自殺志願者についてのドキュメンタリー映像だったらしい。このインパクトのある楽曲はそれまでのヴァン・ヘイレンの曲とは違い、ハードロックやヘヴィメタルのファン以外にも広く受け入れられ、全米シングル・チャートの順位をどんどん上げていった。2月11日付のチャートでは前週の11位から5位にジャンプアップし、デビュー以来初のトップ10入りを果たすと、翌々週にはカルチャー・クラブ「カーマは気まぐれ」を抜いて、ついに1位に輝いたのであった。

ダリル・ホール&ジョン・オーツが雑誌のインタヴューで語ったところによると、エドワード・ヴァン・ヘイレンは「ジャンプ」のキーボードのフレーズを、ダリル・ホール&ジョン・オーツの全米NO.1ヒット「キッス・オン・マイ・リスト」からパクったと直接に告白したのだが、それについて気にする必要はまったくないと答えたという。

デイヴィッド・リー・ロスはこの翌年、ソロアーティストとしてビーチ・ボーイズ「カリフォルニア・ガールズ」のカバーをヒットさせたりした後にヴァン・ヘイレンを脱退し、サミー・ヘイガーを新たなボーカリストに迎えたヴァン・ヘイレンは、1986年に「ホワイ・キャント・ディス・ビー・ラヴ」で「ジャンプ」に続き2曲目となる全米シングル・チャート1位に輝いた。

「ジャンプ」のシングルのB面にはアルバム「1984」から「ハウス・オブ・ペイン」という曲が収録されていたのだが、1992年にはハウス・オブ・ペインというヒップホップグループが「ジャンプ・アラウンド」という曲をヒットさせ、「ジャンプ、ジャンプ」と連呼していた。アズテック・カメラがシングル「オール・アイ・ニード・イズ・エヴリシング」のB面に収録していたやる気のなさそうなカバーも、「渋谷陽一のサウンドストリート」かなにかで聴いた記憶がある。