ブルース・スプリングスティーン「ザ・リバー」について。

ブルース・スプリングスティーンの5作目のアルバム「ザ・リバー」は、1980年10月17日に発売された。20曲入り2枚組の大作だったが、全米アルバム・チャートに4位で初登場すると、翌週から4週連続で1位を記録した。ブルース・スプリングスティーンのアルバムが全米アルバム・チャートで1位になるのは、これが初めてのことであった。また、シングル・カットされた「ハングリー・ハート」は全米シングル・チャートで最高5位を記録したのだが、ブルース・スプリングスティーンのシングルの最高位はそれまで「明日なき暴走」の23位だったため、これも大きく更新したことになる。

後にブルース・スプリングスティーンのプロデューサーとなる音楽評論家のジョン・ランドーが「ロックンロールの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーン」と書いたのは1974年で、それから注目があつまり、「明日亡き暴走」は全米アルバム・チャートで最高3位のヒットを記録したりしていたのだが、契約をめぐってしばらくレコードが出せない時期なども経て、一般大衆的にも大きくブレイクしたといえるのではないだろうか。

「ハングリー・ハート」は当時、日本のラジオでもよくかかっていた記憶がある。オールディーズ的ともいえる曲調が、当時のトレンドに合っていたような気もする。たとえばJ.D.サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」、約5年振りにカムバックしたジョン・レノンの「スターティング・オーヴァー」にもオールディーズ的な要素が感じられ、いずれもロイ・オービソンあたりからインスパイアされているようでもあった。日本でもシーナ&ザ・ロケッツ「ユー・メイ・ドリーム」、岡崎友紀「ドゥ・ユー・リメンバー・ミー」がやはりオールディーズ的であり、翌年にはJ.D.サウザー「ユア・オンリー・ロンリー」にインスパイアされたという「君は天然色」も収録した大滝詠一「A LONG VACATION」が大ヒットを記録する。

ちなみにこの「ハングリー・ハート」なのだが、当初はラモーンズに提供するつもりで書いた曲だったということなのだが、マネージャーの助言によって自分で歌うことになったようだ。ブルース・スプリングスティーンの曲を歌った例としてはそれまでに、マンフレッド・マンズ・アース・バンド「光に目もくらみ」、パティ・スミス「ビコーズ・ザ・ナイト」、ポインター・シスターズ「ファイア」などがあり、いずれもヒットを記録していた。

「ハングリー・ハート」とジョン・レノン「スターティング・オーヴァー」のシングルは同じ週にリリースされたのだが、ジョン・レノンは亡くなる数時間前のインタヴューで「ハングリー・ハート」について好意的に話していたという。

1978年の「闇に吠える街」に続くアルバムのレコーディングをブルース・スプリングスティーンは1979年にはすでに終えていて、「タイズ・ザット・バインド」のタイトルでクリスマスシーズンにはリリースすることになっていたのだが、どこか物足りなさを感じて直前でキャンセルすることになり、それが後に2枚組アルバム「ザ・リバー」になったということである。「タイズ・ザット・バインド」に収録される予定だった10曲には、「ザ・リバー」に収録されたものもあれば、そうではなかったもの、別のバージョンがレコーディングされたものなどもあった。

20曲入りで2枚組、演奏時間にして約1時間24分となり、特に大きなヒット曲は「ハングリー・ハート」だけとなれば、長すぎるように感じられはしないかという懸念もあるのだが、そもそも1枚のアルバムで出そうと思っていたのが収まりきらずに結果的に2枚組になったとか、収録された20曲も50曲ぐらいの中から選ばれたものだといわれているだけあって、とても内容が濃くクオリティーもひじょうに高い。このアルバムがリリースされた時、ブルース・スプリングスティーンは31歳だったわけだが、若手ロッカーらしさが感じられる最後のアルバムだともいえる。この次が4トラックのレコーダーで録音されたきわめて特殊なアコースティック・アルバム「ネブラスカ」であり、その次の「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の頃にはすでに大御所という感じであった。

このアルバムにはオールディーズやロカビリーを思わせる、無邪気で陽気なロックンロールもあれば、人生の辛さや厳しさをテーマにした楽曲もあり、それらは特にパート毎に分けられているわけでもなく、並列的に収録されている。それらはいずれもクオリティーが高く、タイプこそ違えど一貫した作家性が感じられもする。まるで上質な短篇小説集のような味わい、といっても良いかもしれない。

「ザ・リバー」がレコーディングされていた頃のアメリカでは不況が深刻化していて、かつて信じられていた明るく希望に満ちた未来像というのがひじょうに危うくなっていたといわれる。それが、このアルバムにもあたえている。タイトルトラックとなった「ザ・リバー」の主人公は若くして結婚し、建設会社で働くのだが、不況によって仕事がなくなる。そして、未来が希望に溢れていた頃によく来ていた川を再び訪れる。楽しかった思い出が心に甦ってきて、主人公は自問する。夢は叶わなければ嘘になるのか、それとももっと悪い何かなのだろうか。

この曲のモデルはブルース・スプリングスティーンの妹の夫だといわれていて、歌詞の内容には実話に近いところがひじょうに多いという。アルバムに収録された楽曲の中でも、「独立の日」「ポイント・ブランク」「盗んだ車」、そして、「ザ・リバー」は特に重要であり、このアルバムの心と魂だとブルース・スプリングスティーンは語っている。

2枚組のうちの1枚目は当初は、アルバムのタイトルトラックになる予定だった「タイズ・ザット・バインド」からはじまる。ザ・バーズなどのフォーク・ロックをも思わせる12弦ギターのサウンドが印象的なロック・チューンであり、他者との絆について歌われているようである。このアルバムに収録された楽曲の主人公たちは、それぞれ人生における様々なフェーズにいるのだが、ここではまだ希望が歌われているようにも思える。

テーマや歌詞の内容なども重要なのだが、Eストリート・バンドの演奏がアルバム全体を通してとにかく素晴らしく、特にクラレンス・クレモンズのサックスが最高である。過去のロックンロールやポップ・ミュージックの歴史をリスペクトしながら、それらをアップデートしているようなところがある。シリアスな楽曲が高く評価されがちで、もちろんそうあって然るべきでもあるのだが、ただただ無邪気で楽しいロックンロールでこそこのバンドの真価が発揮されているのではないだろうかと、このアルバムを聴いていると感じたりもする。

「愛しのシェリー」「ジャクソン刑務所」に続き、「二つの鼓動」は一人でいるよりも一緒の方が良いというようなシンプルなメッセージが歌われた曲である。そして、1枚目A面の最後に「独立の日」が収録されている。翌日に街を出ていくことを決めている息子が、父に対して語りかける内容となっている。この曲にはブルース・スプリングスティーンの実父との関係性も反映しているように思える。これまでの楽曲からトーンが大きく変わっているのだが、特に不自然な感じはしない。

1枚目のB面はヒットシングル「ハングリー・ハート」からはじまり、次の「表通りにとびだして」はまさに労働者階級の若者のアンセムという感じで、平日の退屈な仕事に耐えた末の週末の解放感のようなものが歌われている。「クラッシュ・オン・ユー」「ユー・キャン・ルック」「アイ・ウォナ・マリー・ユー」と若く希望に満ちた日々のスナップショットのような曲が続くが、そして、この面の最後に収録されているのが「ザ・リバー」である。

2枚目のディスクは配信だと11曲目にあたるのだが、ブルース・スプリングスティーンがこのアルバムの心と魂であると表現したうちの1曲、「ポイント・ブランク」からはじまる。失敗した結婚生活や理想と現実、かつて輝いていたものがいかに簡単に色褪せてしまうのかが表現された、アルバムの中でも最も暗いトーンの楽曲だともいえる。最後の歌詞は「Bang, bang baby, you’re dead」である。

「キャディラック・ランチ」はアメリカに実在する観光名所であり、何台ものキャディラックが地面に突き刺さっている。楽曲はまたしてもご機嫌なロックンロールで、「ポイント・ブランク」からのトーンの変化がえげつないわけだが、たとえばこれが同じ登場人物の異なったフェイズをテーマにしていたとしても驚きはない。さらに「アイム・ア・ロッカー」もタイトルから想像できる通り、ノリノリのロックンロールで、007やジェームス・ボンド、バットモービルといった単語も歌詞には出てくる。

「消え行く男」はアメリカでは「ハングリー・ハート」に続くシングルとしてカットされ、全米シングル・チャートで最高20位を記録したのだが、必ずしもシングル向きとはいえない楽曲である。恋人が他の男性を見つけ、自分の元を離れていくのだが、それを信じることができないし、消え去りたくはないというようなことが歌われている。

そして、2枚目のA面最後に収録されているのが「盗んだ車」で、これもまた失敗した結婚についての曲である。ここまで各面の最後に特にキーとなる楽曲が収録されている。主人公は盗んだ車を運転しながら逮捕されることを望んでいるのだが、それはけして起こらない。

2枚目B面の1曲目はまたしてもご機嫌なロックンロールで「恋のラムロッド・ロック」、続く「ザ・プライス・ユー・ペイ」、つまり支払うべき代償とは、おそらく大人になること、たとえば結婚であったり責任を負う代わりに自由を犠牲にするとかそういうことが歌われていると思われる。「ドライブ・オール・ナイト」は8分33秒にも及ぶ長い曲で、タイトルがあらわしているように真夜中に車を運転しながら考えているような曲である。

そして、このアルバムの最後を締めくくる「雨のハイウェイ」で、主人公はやはり車を運転している。というか、その時のことが昨夜の回想として歌われている。雨の夜、ひき逃げ事故に遭い、助けを求める若い男を発見する。やがて救急車が到着し、彼を運んでいくのだが、主人公は警察官が彼の恋人か若い妻の家のドアをノックして、彼が交通事故で亡くなったと告げる想像をする。そして、眠れない夜に暗闇の中で恋人をきつく抱きしめて、ハイウェイで見た交通事故のことを思い出している。

若さや未来への希望というようなものがいかに不確かで失われやすいものであるか、そして、夢が永遠に失われた後の現実を生きていくこと、こういったテーマはこれ以降のブルース・スプリングスティーンの作品の大きなテーマにもなっていくのだが、このアルバムにはその過渡期ならではの充実ぶりというのがじゅうぶんに感じられる。「明日なき暴走」「闇に吠える街」と「ネブラスカ」「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」との間にこのアルバムがあることの必然性というか、そのグラデーション的にとても良いところがぎっしり詰まっているような作品である。