【1985年の千石・巣鴨・水道橋】文京区千石4丁目33-11

国鉄水道橋駅から少し歩いたところに予備校の研数学館はあり、それは3月の終わりであった。バイクのヘルメットをかかえた若者は誰かを待っているようであり、スタジアムジャンパーを身に付けていた。その建物には、歴史が感じられた。様々な予備校のパンフレットを吟味した結果、「見当違いの努力をしないために」のコピーを前面に打ち出すここに決めた理由は、きわめて感覚的なものであった。

浪人生とか予備校生とかいう言葉には、なんとなく灰色の青春的なイメージを持っていたのだが、実際にはわりとカジュアルで普通な感じの人たちが多いなという印象であった。様々な申し込みや契約的なもののためには一度、高校の卒業式があった翌日あたりに父と来て済ませていたのだが、今回はいよいよ本格的に実家を出て、東京で一人暮らしをはじめるという回であった。しかし、東京観光を兼ねて、母と妹が一緒に来ていた。

予備校から紹介してもらったアパートのようなものに住むことになったのだが、もちろん予備校生という立場で贅沢はできず、1985年とはいえ文京区で家賃2万6千円という、風呂なしで日当たりはほとんど良くない部屋であった。おまけに壁がひじょうに薄く、日曜の午前中にまだ寝ていると、隣の部屋の住人が「笑っていいとも増刊号」の「タモリ・さんまの日本一の最低男」のコーナーを見て笑う声で目を覚ましたりもするレベルであった。このような状況だったので、部屋に夜間に友人を入れたり泊めることが禁止されていたり、ステレオも持ち込んではいけないことになっていた。ラジカセはかろうじて許されていた。

大家のところに挨拶に行き、家電などを買いにいく予定であることを話したところ、秋葉原のロケットという店を紹介された。秋葉原には電気街があり、無線の機械や部品などをいろいろ扱っているということぐらいはなんとなく知っていた。旭川のマルカツかまるせんかは忘れたのだが、とにかくデパートの催事コーナーに秋葉原の人たちがやってきて、そこで無線の機械やアンテナなどを買った記憶があった。秋葉原に行くと、ロケットという店はいくつもあった。それで、冷蔵庫や電気スタンドやテレビなどを買ったのではなかっただろうか。

家族だけは泊めることが許されていたので、母と妹が滞在している数日間は四畳半の部屋に3人で寝泊まりすることになったのだが、調理ができるような状態ではなかったので、巣鴨駅から帰る途中にあった吉野家で牛丼を買って帰った。吉野家が旭川にもあったのかどうかは定かではないのだが、それまで行ったことはなく、それどころか牛丼というものを食べた記憶がまったくなかった。ラジオのCMはニッポン放送で聴いたことがあったので、その存在ぐらいはなんとなく知っていた。「早い!、うまい、安いの3拍子、ここは吉野家、味の吉野家、牛丼一筋80年」というような歌詞だったと思う。

母と妹はそれから何日間か東京にいたので、その年の3月17日からはじまった、つくば万博こと国際技術博覧会に行ったり、池袋のサンシャイン水族館でウーパールーパーを見たりしていた。つくば万博については、とにかくやたらと長い間、電車に乗っていたということや、人がとてもたくさんいたこと、ラーメンがあまりおいしくはなかったことぐらいしか、まったくというほど覚えてはいない。

あとは一人で六本木WAVEにも早速行ったのだが、4月1日発売の松尾清憲「SIDE EFFECTS-恋の副作用-」と、ザ・スタイル・カウンシルの何らかの12インチシングルを買ったはずである。巣鴨から山手線に乗って、恵比寿で営団地下鉄日比谷線に乗り換えていたものと思われる。六本木WAVEに初めて行ったのは1983年の11月で、オープンしてからまだそれほど経っていない頃であった。高校の修学旅行がちょうどあり、東京での自由行動の時間に、「宝島」で記事や広告を見て知っていたそこに行ったのであった。カルチャー・クラブ「カラー・バイ・ナンバーズ」、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「フロム・A・トゥ・ONE」、ポール・マッカートニー「パイプス・オブ・ピース」、ジョン・クーガー・メレンキャンプ「天使か悪魔か」、ポリス「シンクロニシティー」といった、別に旭川のミュージックショップ国原や玉光堂でも簡単に買えるようなレコードをわざわざ買っていた。

1985年2月に大学受験のために東京に滞在していた時には六本木WAVEに何度も繰り返し行っていたのだが、地下鉄の駅から地上に上がる時に高速道路が見えるのが都会という感じでとても良かった。すぐ近くに青山ブックセンターという大きな書店があることも、この時に初めて知った。自分が書いた文章が載っている「よい子の歌謡曲」が置かれているのをみて、大感激した。地元では「よい子の歌謡曲」が書店に置かれているところすら、見たことがなかったからである。

日常生活において、レコード店と書店はひじょうに重要であるというか、レコードや本が買いやすいというのが、東京で生活することに憧れた理由の1つでもあった。それで、六本木WAVEと青山ブックセンターというのはまったくもって素晴らしいわけだが、文京区千石4丁目33-11にあった大橋荘で生活をしながら、日常的に六本木に行くとなると、わりと遠いということが少しずつ実感として分かってくる。それでよく行くようになったのが、巣鴨から山手線でわずか2駅の池袋なのだが、ここにはレコード店だとパルコに入っていたオンステージヤマノや西武百貨店のディスクポート、書店だと西武百貨店やパルコの書籍売場がわりと充実していたのと、他にも新栄堂や芳林堂などいろいろあったので、基本的にはここでことたりていた。

しかも、「ビックリハウス」の愛読者で糸井重里が司会をするNHK教育テレビの「YOU」でRCサクセションのライブを見たりしていた高校時代であったこともあり、いわゆる西武パルコ文化にどっぷり浸かっていたので、当時の池袋といえば聖地のようなものであった。サンシャイン60の方まで歩いていくと東急ハンズもあったので、生活に便利なものがいろいろ買いやすくてよかった。途中に映画館があり、当時は似ているのか似ていないのかよく分からない看板がよく描かれていたのだが、富田靖子が主演した「さびしんぼう」のそれをなぜかよく覚えている。レコードや本を買うという要件が池袋でほぼ事足りていたので、渋谷や新宿まで行くことはほとんどなく、それでも気合いを入れてたっぷり見たり買ったりしたい時には、六本木のWAVEや青山ブックセンターまで行っていた。

それでも、山手線で池袋に行くまでもなく、もっと手軽にレコードや本や雑誌が買いたくなる衝動というのは日常的に訪れていたので、そのような時には大橋荘から徒歩圏内の店もよく利用していた。研数学館には地下鉄都営三田線で通っていたのだが、千石駅の地上に上がった辺りに当時は書店があって、そこはとりあえず覗いて見ていた。新刊として並んでいた橋本治「その後の仁義なき桃尻娘」をなんとなく買って、それから「桃尻娘」シリーズや橋本治の著作にどっぷりハマるというようなことがあった。巣鴨には駅のロータリーのところに成文堂書店というのがいまでもあって、ここでは村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」からとんねるず「天狗のホルマリン漬け」まで、本当にいろいろな本や雑誌を買ったものである。「ビックリハウス」の休刊を知ったのも、この店で最新号を見つけた時だったと思う。他にはロータリーの向こう側の福々まんじゅうの並びや、通りを渡った反対側にも小さな書店があったように記憶している。また、地蔵通り商店街の入口近くにも、小さな書店と文具店があったはずである。当時、高校時代の同級生で紋別の看護学校に進学した女子と文通をしていたので、この文具店でレターセットをよく買っていた。また。橋本治の著作をいろいろ買っている中で、「S&Gグレイテスト・ヒッツ」はこの地蔵通り商店街入口近くの書店で買ったはずである。

東京でも銀座、原宿、六本木、渋谷、新宿、池袋ぐらいはなんとなく知っていたのだが(上野、秋葉原、浅草あたりも)、巣鴨という街の存在は住んでみるまでまったく知らなかった。大家から地蔵通り商店街が「おばあちゃんの原宿」などと呼ばれてもいて、毎月「4」の付く日にはひじょうににぎわうというような説明は受けたし、実際にそうであった。時々、散歩をしていたのだが、マツモトキヨシという名前の薬局を見つけたのもその時であった。人の名前が店名になっているなんてなかなか変わっているな、と感じたことを覚えている。高校時代にカセットテープなどをよく買いにいっていたクスリのツルハは後にツルハドラッグになるのだが、この頃にはまだ東京で見かけるようなこともなかった。

レコード店といえば、まずは西友の2階にあった店である。おそらく新星堂だったのではないかというような気がなんとなくしているのだが、確証はない。とんねるずのデビューアルバム「成増」のジャケットがディスプレイされていた印象である。西友では地下で食料品などをよく買っていた記憶がひじょうにある。スーパーといえばサミットの方が少しだけ近かったのだが、西友の方がなんとなく親しみがあって、よく使っていたような気がする。これも西武パルコ文化の刷り込みによるものだろうか。1階にチケットセゾンの窓口もあって、手塚眞が監督をして、近田春夫のアルバムが原作になっていた映画「星くず兄弟の伝説」の前売券をここで買ったはずである。ステッカーがもらえてとてもうれしかったのだが、この映画を見るために初めて新宿の歌舞伎町に行って、とても緊張したことを覚えている。あと、この西友のチケットセゾンでは、一橋大学の小平祭というのに出演していた爆風スランプのライブチケットも購入した記憶がある。デビュー当時の爆風スランプは渋谷陽一がやたらと推していて、NHK-FMの「サウンドストリート」で初めて知ったはずである。このライブを見るために国立まで行ったのだが、ここが忌野清志郎の歌詞に出てくるあの街なのか、と軽く感激したりもしていた。まだデビュー前の米米クラブがオープニングアクトとして出演していたのだが、すでに熱心なファンがついているようだった。米米クラブの名前はチケットに記載すらされていなく、なんだかとても得をした気分になった。

巣鴨のレコード店といえば、もう1つDISC510というのを忘れてはいけない。別名は後藤楽器店であり、「後藤」だから「510」ということであろう。当時はよくある街のレコード屋さんという感じで、山下達郎やブルース・スプリングスティーンの旧譜などをここで買った記憶がある。常連と思われる女子大生風の客が若い男性店員に何か良いレコードはないかと尋ねていたのだが、最高な音楽として、Toshitaro「Am9にジェイー鋭角ボーイでいてくれよー」をすすめていた。当時まあまあ流行っていたような気もするのだが、シティ・ポップリバイバルでも顧みられている気配は感じない。いま調べてみたところ、オリコン週間シングルランキングでの最高位は38位で、5万枚ぐらいは売れていたようである。このDISC510ではおそらく仲井戸麗市「THE 仲井戸麗市 BOOK」や松本伊代「センチメンタル ダンス クラブ」なども買っているのだが、翌年に大学受験に合格してこの街を出ていく直前に、パブリック・イメージ・リミテッド「アルバム」を買ったのが最後だったような気がする。後に巣鴨の地の利を生かして、演歌を主体としたショップにリニューアルしていたが、2016年に閉店したはずである。

この年といえば、おニャン子クラブやとんねるずを全国的にブレイクさせたテレビ番組「夕やけニャンニャン」の放送が4月から開始されるということもあったわけだが、おニャン子クラブのデビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がリリースされるのは7月5日であり、番組開始当初のオープニングテーマ曲はチェッカーズ「あの娘とスキャンダル」であった。チェッカーズの藤井フミヤといえば、ジェットストリームという清涼飲料水のCMで「ジェットストリーム 君に向かって」などと歌った後で、「せっかく夏だし」と言っていたことが思い出される。

予備校に通いはじたばかりで、まだ仲間たちと街をふらついたりする習性がなかった頃にはすぐに大橋荘に帰ってきて、夕方5時には自然と「夕やけニャンニャン」を見るようになっていた。「セーラー服を脱がさないで」の発売記念イベントが池袋サンシャインシティで行われると番組で告知されていて、近くなので興味本位で行ってみようかとも思ったのだが、あまりにも人が集まりすぎて危険を察知したので中止したとのことであった。「夕やけニャンニャン」はネタ的にウォッチしているだけというスタンスではあったのだが、そのうち「セーラー服を脱がさないで」のレコードもやはり買っておいた方が良いのではないかという気分にもだんだんなっていった。

とはいえ、その頃にはすでにかなりヒットしていたこともあって、いまさら買うのはひじょうに恥ずかしい。しかも、よくレコードを見に行ったり買ったりしていた西友のレコード売場やDISC510の店員には知られたくない。そこで、適当に歩いているうちに見つけた2度と来ることのないレコード店で買うことにしようと決めて、夕方に地蔵通り商店街を歩きはじめた。店が次第に少なくなっていき、特にレコード店などは見つかりそうにない。途中によく分からない線路などもあったのだが、後に都電荒川線のそれだったことを知る。滝野川とかいう見慣れない地名にいつの間にか変わっていて、橋本治「桃尻娘」シリーズの登場人物である滝上圭介を思い出したりもするのだが、いま思うと「滝」の字しか合っていなかった。「川」については、木川田源平からの連想であろう。「桃尻娘」シリーズについては、初めて読んだのが主人公である「桃尻娘」こと榊原玲奈が予備校生という設定の「その後の仁義なき桃尻娘」で、自分自身も予備校生であったという偶然の運命がとても良かったと思ってる。

もはやレコード店を見つけることなどほぼ不可能なのではないかというぐらいに通りは暗くなっていたのだが、それでも歩きはじめたからには止まることができないという気分もあって、まだまだ歩き続けていると、少しずつ街が近づいている気配が感じられて、いつの間にか板橋駅であった。それで、ロータリーのところにいかにも街のレコード店という風情の店があったので、そこで「セーラー服を脱がさないで」のシングルを買った。大橋荘にはステレオを持ち込むことが禁止されていたので、レコードプレイヤーをコードでラジカセにつないで、とても小さな音で聴いていた。

巣鴨駅を福々まんじゅうや成文堂書店とは反対、つまり千石に近い方に出ると、ディスカウントショップのようなものがあって、そこで乾電池などを買っていたような気がする。その並びにもいろいろな店があって、伯爵という喫茶店などは令和4年3月現在もまだ存在している。街によくあった写真店のような店だと思うのだが、なぜか若林志穂「テレフォン・キッス」のポスターが貼られていた。調べてみたところ、東京都新宿区出身、板橋区志村二中卒業ということなのだが、なにかゆかりがあったのだろうか。写真店といえば道路の反対側でもう少し千石の方に近づいたあたりにもあって、ここではカセットテープが安く売られていたので、よく買っていた。

大橋荘には風呂がなかったので、草津湯という近所の銭湯に通っていたのだが、隣にはコインランドリーがあった。草津湯の脱衣所にはテーブル型のゲーム機のようなものが置かれていて、おそらく安価で遊べるようになっていたような気がする。「オレたちひょうきん族」では明石家さんまが絶妙にアダルトなギャグなどをやることがあったのだが、その中で女性の乳房を手で揉むような仕草をしながら「やめられまへんなぁ」というものがあった。「オレたちひょうきん族」は土曜の夜に放送されていて、エンディングテーマ曲はEPO「DOWN TOWN(ニューレコーディングバージョン)」から、この年の秋に山下達郎「土曜日の恋人」に変わった。この番組を見たままの勢いで街に繰り出しかねない勢いでもあったのだが、個人的にはこの番組を見た後に草津湯に行くことが多かった。すると、テーブル型の機械でテレビゲームをやり続けている小学生ぐらいの少年が「やめられまへんなぁ」というようなことを言っていて、果たしてこれは良いのだろうかと感じたりもしていた。

大橋荘は大鳥商店街というものに面していたのだが、すぐ近くには大鳥神社があって、土曜などには祭囃子的なサウンドが聞こえてくるようなこともあった。草津湯や隣のコインランドリーから大鳥商店街に戻る角のところがあって、ここではオリジナルの惣菜がたくさん入った弁当に、購入時に大きな炊飯器からあたたかいご飯を入れてくれるということをやっていたりした。この店の前に公衆電話があって、草津湯からの帰りだと思うのだが、若い女性が濡れた髪のまま長電話をしていた。なぜか同時にヨーヨーもしていたが、よく見ると大盛堂書店の隣のビルの地下にあった、あべにゅーという喫茶店のウェイトレスのように見えた。

予備校で仲よくなったうちの一人が駒込に住んでいるということで、一緒に帰ったり、あべにゅーに入りびたるようになったりもした。あべにゅーだったかアベニューだったかは記憶があやふやなのだが、コーヒーが300円でおかわりが何杯も自由にできたはずである。時間ばかりはあり余っていたので、何時間もくだらない話をしてはコーヒーをおかわりして、2人でシュガーポットを空にしてしまうようなこともあった。内心では店に対し申し訳ないと思ってもいたのだが、くだらない話が楽しくていつまでも終わらないのと、とにかく時間があり余っていたのだ。そのうち食事も注文して、それからまたコーヒーをおかわりする。ウェイトレスが笑顔で何度でも聞きにきてくれるのだ。店では洋楽の有線放送が流れていて、a-ha「シャイン・オン・TV」、バルティモラ「ターザン・ボーイ」、レディ・フォー・ザ・ワールド「Oh,シーラ」などをよく耳にした記憶がある。成文堂書店や福々まんじゅうの方のロータリーには、よくベビーカステラの屋台が出ていたような気がする。

1985年の千石・巣鴨・水道橋については、今後、飽きない限りなるべく記憶を記録していきたい。