フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」発売30周年について。

(前回から続く)

1991年7月10日にリリースされたフリッパーズ・ギターのアルバム「ヘッド博士の世界塔」が30周年ということで、ファンジン「FOREVER DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER」なる素晴らしいものが発売されたようである。装丁もカッコいいのだが、内容もとても良さそうである。そして、な、な、なんと、私のようなハンパ者にまで寄稿させていただいているという懐の深さ。これはぜひ買って読むべきであろう。

ヘッド博士の世界塔保存会@doctorhead1991 

【7/10発売・予約注文開始】 ファンジン『FOREVER DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER』 1991年『ヘッド博士の世界塔』発売日の30年後の7月10日発売。 BASEショップ「ヘッド博士の世界塔保存会… https://t.co/WCURNPw7ZP2021年07月04日 12:02

ところでフリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」が発売されたその日、東京の天候は曇り、最高気温は26.7度だったようだ。いわれてみればそんな気もするが、おそらく適当な記憶である。そして、当時からCDは発売日の前日に販売店に入荷した。発売日よりも早く手に入れる、つまりフライングゲット転じてフラゲ日などとは、当時はまだ言われていなかったと思う。しかし、新作のCDを発売日の前日に買うのは普通であった。それで、私もおそらく7月9日にはすでに買っていたのではないか、というような気がする。おそらく六本木WAVEでだったと思うのだが、当時、ポピュラーのCDを扱っていた3階ではなくその上の4階で働いていたので、出勤前か休憩時間に従業員割引を利用して買ったのではないだろうか(一昨年に「ヘッド博士の世界塔」について書いた文章を読み返してみるとどこで買ったのかよく覚えていないということが書かれてもいるので、この記憶も怪しいものではあるが)。

初回盤だったので、3Dメガネのようなものがパッケージに付いていて、フリッパーズ・ギターの写真が飛び出して見える仕様にもなっていたはずである。これは子供向け雑誌の付録などでよく用いられていたやつで、なかなか楽しいなと感じたものである。そのパッケージそのものはいつの間にかどこかに行ってしまったので手元には無いし、その飛び出す写真についてもはっきりと覚えてはいないのだが、インターネットで検索すると画像が出てきたのでなんとなく思い出した。

たとえばこの前の年の6月に渋谷ロフトのWAVEで「カメラ・トーク」のCDを買ってオレンジ色のキーホルダーのようなものをもらった時のように、鮮烈には覚えていない。

1990年5月5日にリリースされたシングルはフリッパーズ・ギターが初めて日本語の歌詞で歌ったものだったが、これを聴いて大きな衝撃を受けたということについては、少し前にも書いたような気がする。私が高校生の頃に好きで聴いていたアズテック・カメラやザ・スタイル・カウンシルなどに近い感じの音楽を、オリジナリティー溢れる日本語でやっているというところに驚きを禁じえなかった。このシングルに収録された2曲をも含むアルバム「カメラ・トーク」はそれはもう素晴らしく、インディー・ポップやネオ・アコースティックに留まらぬバラエティーにとんだ音楽性や歌詞に感じられる文学性や批評性、爽やかなようでいて苛立ちや怒りを含んでもいる精神性など、いずれも最高であった。

その後、1991年3月20日にリリースされたシングル「グルーヴ・チューブ」では音楽性の変化が特徴的だったが、これはマッドチェスター・ムーヴメントを経て、ダンス・ミュージックの要素を取り入れたインディー・ロックが流行していたイギリスのポップシーンに呼応するものでもあるのだろうと、ごく自然に受け止めることができた。それで、この曲も含むアルバム「ヘッド博士の世界塔」を楽しみにはしていたのだ。

どのような経緯だったかはよく覚えていないのだが、まず初めに「奈落のクイズマスター」を聴いたような気がする。プライマル・スクリームの1990年のシングル「ローデッド」に影響を受けているなと感じたし、そのタイトルが歌詞に出てきたりもするので、おそらくこれは確信犯である。それでも、日本語の歌詞であることも含め、オリジナリティーは十分に感じられたし、日本のポップ・ミュージック界でこんなことをやっているアーティストは他にいないように感じられた。

しかし、実はこの少し前にプライマル・スクリームはシングル「ハイヤー・ザン・ザ・サン」をリリースしていて、ジ・オーブとコラボレートしたこの曲において、最新型のポップ・ミュージックとしてさらに上の境地に達したな、と感じてもいた。このような事情もあり、それほどめちゃくちゃガツンときた訳でもなかったというか、もちろんとても良いのだがわりと想定内だと感じていないこともなかった。

フリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」をリリースした翌々月にニルヴァーナの「ネヴァーマインド」が出て世界的に大ヒット、オルタナティヴ・ロックのメインストリーム化をもたらし、ポップ・ミュージック史に大きな影響をあたえたわけだが、翌年になるとイギリスの「NME」あたりもアメリカのオルタナティヴ・ロック特集を組んだりもする。確かスーパーチャンクが表紙の号で聴くべきアメリカのオルタナティヴ・ロック・アルバムをいくるか挙げていて、そこで紹介されていたソニック・ユースの「EVOL」というアルバムを買って聴いてみた。「スターパワー」という曲のイントロが流れた途端、「奈落のクイズマスター」のあの部分はこれから取られていたのかとか、どれだけ広範囲のネタを扱っていたのだと感心させられたりもしたのだが、その時点でフリッパーズ・ギターはすでに解散していた。

さて、「ヘッド博士の世界塔」は日本のロック&ポップス史に残る名盤の1つとして、はっぴいえんど「風街ろまん」、大滝詠一「A LONG VACATION」、フィッシュマンズ「空中キャンプ」、あるいはゆらゆら帝国「空洞です」、岡村靖幸「家庭教師」、はたまたコーネリアス「FANTASMA」、小沢健二「LIFE」などと並び称されたりもするのだが、SpotifyやApple Musicといったストリーミングサービスで聴くことができないばかりか、ダウンロード購入すらできない状況である。その真相は定かではないが、膨大な量のサンプリングが用いられているからではないか、という説もあるような気がする。シングルとしてもリリースされた「グルーヴ・チューブ」「星の彼方へ」だけは聴くことができるが。

「ヘッド博士の世界塔」を再生すると、まず1曲目が「ドルフィン・ソング」なのだが、いきなりビーチ・ボーイズ「神のみぞ知る」で聴いたようなサウンドに出会う。ビーチ・ボーイズといえば1966年のアルバム「ペット・サウンズ」がポップ・ミュージック史上最も優れたアルバムだとされることも少なくなく、「神のみぞ知る」はその収録曲でもある。私はこの「ペット・サウンズ」というアルバムのCDを80年代後半に町田のRECOfanと思われる店で買っていたのだが、そのうち売却し、実は「ヘッド博士の世界塔」がリリースされる少し前に六本木WAVEで買い直していたのだった。

70年代後半から80年代にかけて、多くの日本人にはアメリカに対する憧れが強烈にあって、当時、中学生だった私も例外ではなかった。高校に入学した1982年は「花の82年組」とも呼ばれる人気の女性アイドルがたくさんデビューしたのだが、個人的にはハワイ育ちの帰国子女でもあった早見優がとても好きで、ファンクラブにも入っていた。確かその会報でだったと思うのだが、好きな音楽としてハワイに住んでいた頃によく聴いていたというビーチ・ボーイズとカラパナを挙げていた。NHK-FMの「朝のポップス」というまったく何のひねりもないタイトルの番組か何かで「サーフィンUSA」をカセットテープにダビング、当時の言葉でいうところのエアチェックをしてわりと気に入っていたのだが、その勢いもあり、旭川のミュージックショップ国原で「サマー・プレゼント」という2枚組ベストアルバムを買った。その数年前に来日記念盤として日本独自に発売されたアルバムのようだった。ご機嫌なサーフ・ロックやバラードがたくさん入っていて最高だったのだが、「神のみぞ知る」などはなんとなく地味でいま一つだと感じていた。まだ15歳で、ポップ・ミュージックを受容する素養が未成熟だったためだと思える。

「ヘッド博士の世界塔」をリリースした後、アルバムを引っ提げてのツアーを前にしてフリッパーズ・ギターは突然、解散したらしく、すでにライブのチケットが販売されていたこともあり、無責任ではないかなどと新聞の読者欄に投書が掲載されたりもしていた。このようなこともあったため、フリッパーズ・ギターの解散が「ヘッド博士の世界塔」が発売される前からあらかじめ決められていたとはあまり思えないのだが、この「ドルフィン・ソング」などを聴くと、いきなり解散への伏線だったのではないかというようなフレーズが次々と用いられていたりもする。そして、「ほんとのこと知りたいだけなのに 夏休みはもう終わり」というフレーズである。

フリッパーズ・ギターの解散の理由として当時、様々な噂が飛び交っていたような気もするのだが、ちなみにフリッパーズ・ギターのメンバーである小山田圭吾と小沢健二とはいずれもイニシャルがK.O.であることから、この2人によるソングライターチームをDouble K.O.Corporationと称していたりもした。これで歌謡界を席巻するというような野望もあったのかどうかは定かではないが、代表作として1990年7月1日に渡辺満里奈がリリースしたシングル「大好きなシャツ(1990旅行作戦)」が挙げられる。発売日は「カメラ・トーク」の翌月であり、タイトルには「ラテンでレッツ・ラブまたは1990サマー・ビューティー計画」に通じるところも感じられる。そして、「大好きなシャツ」は英語で「Favourite Shirts」であり、1980年に活躍したイギリスのバンド、ヘアカット100のヒット曲と同じタイトルである。ヘアカット100の「Favourite Shirts」はフリッパーズ・ギターがライブでカバーもしていて、解散後に発売されたコンピレーションアルバム「on PLEASURE BENT」に収録されてもいる。シングル「恋とマシンガン」のカップリング曲でアルバム「カメラ・トーク」にも収録された曲といえば「HAIRCUT 100(バスルームで髪を切る100の方法)」である。

それはそうとして、渡辺満里奈といえば秋元康がおもに歌詞を書いていたアイドルグループ、おニャン子クラブの元メンバーであり、「ヘッド博士の世界塔」の5年前にリリースされたアルバム「PANIC THE WORLD」(偶然にも「ヘッド博士の世界塔」と同じ7月10日に発売されている)収録の「夏休みは終わらない」では内海和子、永田ルリ子、岩井由紀子と共に前列で歌うメンバーに抜擢されていた。

フリッパーズ・ギターの解散後だったと思うのだが、六本木WAVEで働いていると、小山田圭吾の姿をほとんど毎日、時には1日に3回ぐらい見かけることもあった。小沢健二も時々は見かけた。渡辺満里奈も。

「グルーヴ・チューブ」はやはりポップ・シングルとしても最高だなと感じるのだが、大好きだったいとうせいこう「MESS/AGE」収録曲とも共通していたというサンプリングネタについては気がついていなかったので、それほどちゃんと聴いていなかった可能性も高い。ピアノのフレーズなどはハウス・ミュージックやその影響を受けたマッドチェスター以降のインディー・ロックにありがちなパターンで、この辺りもイギリスのシーンに呼応しているなと感じさせるところだった。あと、なんとなくセクシーな匂わせのようなことを歌っているところも、とても良いと思えた。

続いて「アクアマリン」という曲なのだが、タイトルは宝石の名前だと思われる。とはいえ、個人的にはカルロス・トシキ&オメガトライブ「アクアマリンのままでいて」を連想させられた。そして、ずばりマイ・ブラッディ・ヴァレンタインである。この年の2月に「トレモロ」というタイトルのEPがリリースされていて、デジパックのCDシングルを私も買っていたのだが、その1曲目に収録された「トゥ・ヒア・ノウ・ホエン」を思い起こされた。アブストラクトでオリジナリティーに溢れたサウンドが印象的であった。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインはこの年にこの曲を含むアルバム「ラヴレス」をリリースし、後にポップ・ミュージック史に残る名盤の1つとしての評価を定着させるのだが、発売日は11月4日でフリッパーズ・ギターが解散した後であった。また、当時は「愛なき世代」の邦題で日本では発売されていた。

「ゴーイング・ゼロ」は歌詞がポストモダン的というか、意味性のようなもののために努力をするなんていうことはムダとでもいうような思想を軽やかに発しているようにも思え、サウンド的にはオルガンのような音色が印象的である。これに対して当時の自分自身がどう感じていたのかはよく覚えていないのだが、まったくその通り、よくぞ言ってくれた、という感じではなかったのではないかと思える。

実は「ヘッド博士の世界塔」の前の週に近田春夫が率いるヒップホップ・バンド、ビブラストーンのアルバム「ENTROPY PRODUCTIONS」が発売されていたのだが、音楽性ももちろんそのメッセージ性のようなものがかなり良いのではないかと強く感じてもいた。それで、フリッパーズ・ギターの歌詞には「~だろう」というような仮定形のようなフレーズがやたらと多いのだが、そういったフニャモラー的でもある気質のようなものに共感していた点は多分にあった一方で、おそらくこれだけではいけないのではないか、という感じもうっすらとはしていたような気もする。

それで、続く「スリープ・マシーン」にもそのような気分は継続しているように思える。「ヘッド博士の世界塔」がフリッパーズ・ギターの最高傑作だったり日本のロック&ポップス史に残る名盤の1つとして評価されることに異論はまったく無いし、間違いなくその価値はあると思えるのだが、個人的にはやはり「カメラ・トーク」に感じられる苛立ちや怒りのようなものの方が尊くも感じられ、やはりこちらの方が好きなのだという感じはこれからもずっと続くのではないかと思う。だからこそ、純粋に音楽作品として「ヘッド博士の世界塔」には向き合えるという側面もあり、これはこれで良いのではないかと思える。

この後、「ウィニー・ザ・プー・マグカップ・コレクション」「奈落のクイズマスター」「星の彼方へ」と続き、「世界塔よ永遠に」と続くわけだが、スライ&ザ・ファミリーストーンだとかローリング・ストーンズだとかルー・リードだとかザ・ストーン・ローゼズだとかといった、大ネタを用いつつオリジナルな音楽をクリエイトしている。それで、やはりフリッパーズ・ギターはこの先に進みようはもしかすると無かったのかもしれないなとか、これが最後のアルバムになったということは必然だったのではないだろうか、などと感じたりもするのだ。しかも、解散後、コーネリアスこと小山田圭吾も小沢健二も世間一般的にはフリッパーズ・ギター時代を超える高評価なりポピュラリティーを得る作品をつくっていくのだから素晴らしい。

実は「カメラ・トーク」に比べると「ヘッド博士の世界塔」にはあまりにも思い入れがそれほど強くなかったこともあり、書くべきこなどそれほど無いだろうと感じてはいたのだが、やはりこういった立場としてリアルタイムで聴いていたことについて記録しておく価値はまあまああるのではないかと思い直したというか、ただ単純にやっておきたかったということが一番大きいのだが、やはり特別な作品だなということはいえるのである。

と、ここまでの文章は実は数日前に書き上げていて、これをこのまま30周年記念日の午前0時に上げるつもりだったのだが、なんとなく書き足りなく感じたこともあったりするので、ここからは2021年7月9日の夜に書いている。実はこの日の夜はフライデーナイトなので、仕事が終わってから30年前に「ヘッド博士の世界塔」のCDを買った(はずの)六本木を訪れてみようと思っていたのだが、いろいろな状況をふまえ、これは明らかに不要不急の外出にあたるだろうという考えもあって、京王線の下り電車で帰ってきた。その間も「ヘッド博士の世界塔」を聴いていた。

あまりにも好きすぎる「カメラ・トーク」との比較とか、世間一般的にあまりにも「ヘッド博士の世界塔」が高く評価されている印象があったことなどから、個人的にそれほどものすごく大好きすぎるアルバムというほどでもなかったのだが、ここ数日間、聴いているうちにやっぱりこれはとても良いなと思わざるをえない。この30年間で、いま最も「ヘッド博士の世界塔」が好きなのではないかといっても過言ではない。

そもそも、昨年に「カメラ・トーク」30周年の文章を書いて、あの牧村憲一さんにまでRTしていただき感激したのだが、「ヘッド博士の世界塔」にはそれほどの思い入れがなく、書くこともあまり無いだろうと考えていたのだ。ちょうど先に挙げたファンジン「FOREVER DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER」への執筆のオファーもいただいたことから、これについてはもうこれでいいや、と考えていたようなところがある。だがしかし、直前になって、やはりこれはもうちょっと書いておかなければ、というか書いておきたいという気分が盛り上がり、数日間にわたる短期集中連載のようなかたちになったわけである。

そうすると様々なフリッパーズ・ギターの音楽を愛する方々からダイレクトな反応をいただいたりして、リスニング体験がさらに充実したのであった。

「カメラ・トーク」の頃には周囲にフリッパーズ・ギターの音楽の素晴らしさを語り合えるような人達がいなく、そういう人達のことを雑誌などで知ってはいたのだが、出会う機会はまったくなく、本当に実在しているのかどうかについてすらあやふやであった。1991年の春ぐらいに六本木WAVEで働きはじめると、そういう人達はやはり実在したのだということがはっきりと分かり、いろいろ楽しくはなったのだが、その一方で私はフリッパーズ・ギターの音楽のファンとしては三流以下だなと思い知ることにもなり、それが思い入れがやや薄れることになる原因の一つだったかもしれない。たとえばフリッパーズ・ギターが推奨しているようなマニアックなレコードなどを私は買ってはいなかったし、クラブイベントのようなものにも一切行ってはいなかった。それで、おそらくCDを聴いているだけの私はフリッパーズ・ギターの音楽の魅力を完全には理解できていないのだろうなと思っていたし、実際にそれは事実であるに違いない。

「ヘッド博士の世界塔」がリリースされてから少しして、フリッパーズ・ギターの解散が発表され、それを私は誰かか何かによって知らされるのだが、それほどショックを受けたというような記憶はない。それで、一般的なファンの人達ともひじょうに温度差があるのではないかと思う。現在、私は「ヘッド博士の世界塔」をフリッパーズ・ギターがリリースした最後のオリジナルアルバムだと認識して聴くわけであり、それ以外の聴き方をするのはひじょうに難しいといえる。そして、この作品そのものにその必然性のようなものを感じたりする。これが後づけによるものなのかそうではないのかは定かではないのだが、とにかくすさまじい情報量と後はどうにでもなれ感とでもいうようなものが潔いまでに感じられたりもする。

しかし、「ヘッド博士の世界塔」がリリースされてからフリッパーズ・ギターが解散するまでの間は、けしてそんなこともなかったような気がする。「カメラ・トーク」はディスクマンで外で聴いていた印象もひじょうに強いのだが、「ヘッド博士の世界塔」はおそらく部屋の中だけでしか聴いた記憶がない。

「ゴーイング・ゼロ」に「上を向いた涙なんてのは鼻で笑おう」というフレーズがあり、「上を向いた涙」といえば日本のポップ・ミュージック史上唯一の全米NO.1ヒットである坂本九の「上を向いて歩こう」が思い出される。個人的にはRCサクセションのレパートリーとしても印象深い曲である。このタイトルの意味は涙がこぼれないように上を向いて歩こうということなのだが、永六輔によるこの歌詞は悲しいことや苦しいことに負けずに前向きにいこう、とでもいうような広い意味で解釈されているような気がする。しかし、ルーツをたどっていくと、そこには学生運動の挫折体験があるということである。

ベースラインがビートルズ「タックスマン」とかザ・ジャム「スタート!」とかでお馴染みのパターンだったり、オルガンのような音は当時のイギリスのインディー・ロック・バンド、インスパイラル・カーペッツやザ・シャーラタンズなどに通じるところもあったりしてなかなか面白い。続く「スリープ・マシーン」は「グッド・バイブレーション!」というソウルフルなボーカルにファンキーなギター、80年代の新人類が夢中になった「現代思想」にも通じる「逃走論」的というか、「さぁ逃げるのさ」というフレーズからはじまっている曲である。それで、バブル・アワーなる単語がタイトルのカッコ内にも登場しているのだが、バブル景気がすでに終わっていたとされているのだが一般的にはまだそれがじゅうぶんに認識されていなかった頃のリリースでもある。それで、「スリープ・マシン」といえばフリッパーズ・ギターのメンバーと同世代の人達が若かりし頃には、雑誌に睡眠学習機の広告がよく載っていたものである。

それで、次の「ウィニー・プー・マグカップ・コレクション」なんかもそうなのだが、実はわりとヘヴィーな状況について歌われているようにも思え、実はこれは当時のフリッパーズ・ギター自身の境遇のことなのではないかというような解釈もあり、そうすると「ドルフィン・ソング」「世界塔よ永遠に」などの歌詞の内容もスッキリと合点がいき、この作品をもっての解散やその後の充実したソロ活動にきれいにつながっていくように感じられる。これも単なる深読みにすぎない可能性はもちろんひじょうに高いのだが、このような楽しみまであたえてくれるのだから、やはり特別なアーティストでありアルバムであったことは間違いがない。

それで、曲そのものとしては「人生ってやつは」などというようなフレーズがまず印象的で、これで思い出すのは「ヘッド博士の世界塔」の10年前、1981年にリリースされたうやはり日本のロック&ポップス史に残る名盤、大滝詠一「A LONG VACATION収録の「スピーチ・バルーン」において、やはり松本隆が書いた詞に「人生」という単語が含まれていて、大滝詠一はこれを歌うことにひじょうに抵抗があったというような話が確かあったような気がする。

「今すぐして さあ早く ロボトミーにして僕を」というフレーズにはひじょうに切迫感というかギリギリな感じが出てもいつのだが、一方でこれがより人間味のようなものから離れていくような、80年代初頭のテクノブームにおいてプラスチックスが「I WANNA BE PLASTIC」と歌ったのにも通じる感じもあるのだが、これが当時のニューミュージック的なメンタリティーに対する対抗だったとするならば、フリッパーズ・ギターのそれはバンドブームによってメインストリーム化した「やさしさロック」のようなものだったのだろうか、などと妄想したりもする。

音楽的にはラウドでヘヴィーなロックサウンドとモータウン的なビート感が合わさり、そこに表面的にはフニャモラーであるものの、実際のところは正直しんどそうにも感じられる歌詞とボーカルという、ひじょうにユニークなものとなっている。「奈落のクイズマスター」については、やはり間奏のソニック・ユース「スターパワー」的なところがとても効いているなと感じるし、当時、クイズマスターというのは大橋巨泉のことだというようなこともふざけて語られていたような気もするが、これは「クイズダービー」の司会をやっていたということであり、はらたいらさんに3000点だとか竹下景子がお嫁さんにしたいタレントNO.1だとか、そういう認識が多くの国民の間で共有されていた一方、その10年前に大滝詠一「A LONG VACATION」から「カナリア諸島にて」などがこの番組のスポンサーであったロート製薬のCMに使われていたことによってお茶の間にも知られるようになったかもしれない、というようなことには何らかの足しになるのかどうかはさっぱり分からないがふれておきたい。

「星の彼方へ」は8月25日にシングル・カットされ、ミズノ・スキーウェアカラーカルヴィンサーモなる商品のCMソングでもあったようだ。当時、スキーは若者に流行のレジャーであり、三上博史と原田知世が主演した映画「私をスキーに連れてって」は1987年、広瀬香美の「ロマンスの神様」が1993年、GO-BANG’S「あいにきてI・NEED・YOU」や高野寛「虹の都へ」「ベステン ダンク」などもスキーウェアのCMソングであった。その後、同じウィンタースポーツでもスノーボードに人気を奪われていくわけだが、その存在をはじめて知ったのはフリッパーズ・ギターが解散した翌年、1992年の冬だったような気がする。

大学の同級生で(私よりも早く)卒業後、ヴァージン・ジャパンに就職するものの、ポニーキャニオンに買収されると同時に失職した知人と六本木WAVEの売場で再会し、それがきっかけで六本木で一緒に飲んでいる時に、仲間達と盛り上がっていて、誘われたのだが行かなかった。1997年の初め頃、現在の妻と渋谷にレモンヘッズのライブを見に行った時、物販でTシャツを売っている彼と再会し、やはり音楽の業界にいることを確認したのだが、会ったのはそれが最後であった。

「ヘッド博士の世界塔」の最後に収録された「世界塔よ永遠に」については言わずもがなというか、私のような者が解釈することすらおこがましいというようなものなのだが、とてもヘヴィーな状況についても実は歌われているのではないか、というような気はするし、やはりフラグだったのではないかと思えなくもない。とにかくトータルしてやはりなんだかとてつもない作品ではあるし、似ているものが他になかなか考えつかない。1991年の夏休みはもうすでに終わっているのだろうとは思えるし、その証拠にたとえば六本木に行くとしても、いまなら渋谷から都バスより新宿から都営大江戸線の方がアクセスは簡単だ。とはいえ、六本木WAVEや青山ブックセンターですらもうそこには無いので、行くだけの価値はそれほど感じられない。MOTIのバターチキンカレーならば食べに行きたいような気はするが。

「ヘッド博士の世界塔」という作品そのものが、たとえばビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」やビートルズ「ラバー・ソウル」などがそうであるように、ある時代の文化の最先端を真空パックしているようなところがあり、その時代ならではなところがある一方で、普遍的な強度をも備えている。その楽しみ方は、この作品がそもそも初めて発表された当時、つまり1991年7月10日にどこで何をしていたか、あるいはしていなかったりそもそも生まれてすらいなかったかによってそれぞれであり、それはまた時と共に変化していく。そして、たとえば私がこの作品を必要とする限り、おそらく夏休みはまだ終わっていないのであり、そもそも終わらせる気が一切ない、というか終わらせないことに必死である、ということがいえるかもしれない。

「ヘッド博士の世界塔」、発売30周年おめでとうございます。

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