荒井由実「ひこうき雲」について。

荒井由実のデビュー・アルバム「ひこうき雲」は、1973年11月20日に発売されたと記憶されている。当時の日本ではフォークソングとアイドル・ポップスが流行していたようだが、オリコン年間ランキングでは宮史郎とぴんからトリオが「女のみち」「女のねがい」で1位と2位を独占している。それよりも下の順位を見ていくと、フォークソングではガロ「学生街の喫茶店」、かぐや姫「神田川」、チューリップ「心の旅」、アイドル・ポップスでは天地真理「恋する夏の日」「若葉のささやき」、浅田美代子「赤い風船」、麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」が上位にランクインしているし、桜田淳子、山口百恵がデビューして、森昌子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれたのもこの年のことだったようだ。当時、北海道の羽幌町という小さな町で小学校に入学したばかりだった私でも、この辺りについてはかろうじて記憶がある。あとは石油が不足するオイルショックやトイレットペーパーなどの価格が高騰し、モノ不足が深刻化するなどの状況もなんとなく把握はしていた。とはいえ、荒井由実の「ひこうき雲」については、記憶がない。

このアルバムは1976年のオリコン年間アルバムランキングで、11位を記録したのだという。リリースされた3年後に一体何があったのだろうとその年のランキングを見てみると、1位の「およげ!たいやきくん」、2位のグレープ「グレープ・ライブ 三年坂」に続いて、3位が荒井由実のベスト・アルバム「YUMING BRAND」、5位に1975年にリリースされた「COBALT HOUR」、11位が「ひこうき雲」で14位が1974年リリースの「MISSLIM」と、それまでのすべてのアルバムが上位にランクインしていた。シングルランキングでは、「あなたに帰りたい」が週間1位、年間10位を記録している。このデータを見ると、この年の日本ではちょっとしたユーミンブームのようなものが巻き起こっていたのではないかとも推測することができる。

とはいえ、この年には北海道の苫前町というやはり小さな町で小学4年生だった私にはその記憶がほとんどないのである。この年のオリコン年間シングルランキングで上位に入っている、子門真人「およげ!たいやきくん」、ダニエル・ブーン「ビューティフル・サンデー」、都はるみ「北の宿から」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」などについては、はっきりと覚えている。また、年間20位にランクインしている岩崎宏美「ファンタジー」については、書店で流れているのを聴いて、この曲はなんだかとても好きだな、という感覚を強烈に覚えた記憶がある。「あの日にかえりたい」は、もしかするとラジオで流れていたのかもしれないのだが、はっきりとは覚えていないというような感じである。

そして、翌年は1977年で、ピンク・レディーが大ヒットを連発した年なのだが、周りの景色が急速に都会化したような記憶がある。その理由は個人的にはとてもシンプルで、この年に苫前町から旭川市に引越したことがひじょうに大きい。この頃に一人でラジオを聴く楽しみも覚え、ニューミュージックと呼ばれる都会的で洗練された音楽が流行りはじめていた。シティ・ポップという言葉はおそらく当時、まだ普及していなく、後にそう呼ばれる音楽はニューミュージックに含まれていた。というか、歌謡曲と演歌ではない日本のポップ・ミュージックはほとんどニューミュージックに分類されていたような気もする。

レコード店にも行くようになるのだが、荒井由実「ユーミン・ブランド」のジャケットはよく見かけたような気がする。中身の音楽に興味があったわけではなく、ジャケットに立体メガネのような仕掛けが施されているのがおもしろいと思ったのだ。

荒井由実は1976年11月29日に松任谷正隆と結婚し、松任谷由実となったのだが、私がその存在をはっきりと認識したのはそれ以降のことなので、荒井由実の音楽がヒットしている世の中で生活はしていたのだが、リアルタイムでは松任谷由実しか知らないという、ひじょうに絶妙に微妙な感じになっている。

中学生になるとモテようとしたり、それ以外の理由で流行歌以外にもいろいろな音楽を聴くようになるものだが、ユーミンこと松任谷由実のこともその過程で知っていった。1981年には映画「ねらわれた学園」の主題歌として、シングル「守ってあげたい」がリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録する。この曲のキャッチコピーは「才能のきらめきは不思議世代を惑わすか」であり、明らかに荒井由実時代にリアルタイムではなかった、新しい世代をターゲットにしていたのであろう。この頃、荒井由実がかつて三木聖子に提供した「まちぶせ」を石川ひとみがカバーしてヒットさせるということもあり、ユーミンというアーティストの存在がより身近なものになった。

私が高校に通っている間にリリースされた松任谷由実のアルバム「PEARL PIERCE」「REINCARNATION」「VOYAGER」「NO SIDE」はすべて話題になり、オリコン週間シングルランキングで必ず1位に輝いていた。この時代はアイドル・ポップスの全盛期でもあり、松田聖子や原田知世に提供した曲がヒットしたりもしていた。FMラジオなどでもよくかかっていて、ポップ・ミュージックとしてひじょうに優れていることも分かっていたのだが、女子が聴くアーティストというイメージがひじょうに強く、レコードは1枚も買っていなかった。周囲でも中島みゆきのレコードを買っている男子はいたのだが、松任谷由実のレコードは女子しか買っていなかったような気がする。これは旭川の公立高校だったからそうなのであり、たとえば東京の私立高校などではまた違っていたのかについては、調べられていない。

1985年からは東京で生活をはじめ、その秋のプラザ合意をきっかけとしてバブル景気に突入していったりもするのだが、松任谷由実の曲は「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマに使われたり、「ひょうきんベストテン」で山田邦子によってパロディー化されたりもするようになっていく。単なるミーハーである私もシティ・ボーイ的なライフスタイルにアジャストしようという努力だけはしたことがあるのだが、その流れで松任谷由実の音楽も生活に取り入れるようになっていく。とはいえ、1986年の「ALARM à la mode」は小田急相模原のレコードレンタル友&愛でレンタルして、翌年の「ダイアモンドダストが消えぬまに」で初めてレコードを買った。

この頃は再生メディアの主流がアナログレコードからCDに切り替わっている途中だったのだが、それによって旧作のCD化が進んで、かつての名盤、名曲にもアクセスがしやすくなっていった。この頃、アルバイトで稼いだお金のほとんどを本かCDに費やしていたのだが、そうなってくると新作だけではなく過去の名盤などもいろいろ聴いていきたくなる。それで、おそらく1988年の初めぐらいだったと思うのだが、相模原のすみやというCDショップで荒井由実と吉田拓郎とボブ・ディランのベスト盤を買ったのだった。

荒井由実のベスト盤というのは「YUMING SINGLES 1972-1976」というCDで、1987年3月25日に発売されていたらしい。オリコン週間シングルランキングでは、最高45位を記録していたようだ。デビュー・シングル「返事はいらない」のシングル・バージョンが初CD化されたのが、売りになっていたような気がする。松任谷由実の新しめのアルバムは聴くようになっていたので、その初期の作品集のような軽い気持ちで聴いてみたのだが、そのクオリティーの高さに驚かされた。70年代の音楽であるにもかかわらず、まったく古さを感じさせない。当時はフォークソングが全盛だったと思われるのだが、実に都会的で洗練された音楽である。キャロル・キング「つづれおり」、ジョニ・ミッチェル「ブルー」といった、70年代初めの女性シンガー・ソングライターの名盤にも通じるような、エバーグリーンな音楽の魅力をひじょうに感じた。

そのはじまりとなったのが、この「ひこうき雲」というアルバムだったようだ。デビュー・シングル「返事はいらない」はこのアルバムよりも前に、かまやつひろしのプロデュースでリリースされていたのだが、300枚ぐらいしか売れていなかったようだ。「ひこうき雲」に収録されているのは、シングルとは別のバージョンになる。

荒井由実は中学生の頃にはすでに六本木のディスコで踊ったり、文化人が集うことで知られる麻布台のレストラン、キャンティに出入りしたりしていたようなのだが、そういった縁もあり、17歳にして加橋かつみに「愛は突然に…」を提供し、作曲家としてデビューを果たしたという。多摩美術大学に入学した1972年に、アルファレコードから「返事はいらない」でデビュー、翌年にはアルバム「ひこうき雲」がリリースされた。レコーディングにはキャラメル・ママという、当時の日本のポップ・ミュージック界における錚々たるメンバーから成るバンドが参加した。ベースが細野晴臣、キーボードが松任谷正隆、ギターが鈴木茂、ドラムスが林立夫である。演奏はうまくいったのだが、ボーカルのレコーディングにひじょうに苦労したといわれているようだ。

アルバムの1曲目に収録されたタイトルトラック「ひこうき雲」は、2013年に公開されたスタジオジブリのアニメーション映画「風立ちぬ」の主題歌に使われたことでも知られる。小学生時代の同級生に筋ジストロフィーを患っている男子がいて、高校生の頃に亡くなったという。葬式に参列した荒井由実は高校生になった彼の写真を見て、記憶の中の姿とのギャップに衝撃を受け、それがこの曲のモチーフになったといわれている。当初は雪村いづみのために書かれ、レコーディングされたのだが発売はされなかった(後にアルバム「COME ON BACK」の収録曲としてリリースされることになる)。

「きっと言える」「ベルベット・イースター」といった代表曲や、ポップでキャッチーな「恋のスーパー・パラシューター」なども収録された、ひじょうに充実したアルバムである。

1973年のリリース当時、このアルバムがどのようなインパクトをあたえたのかについては、想像することしかできないのだが、その後のニュー・ミュージックやシティ・ポップの時代を先取っていたと同時に、日本のポップ・ミュージック史に残るクラシックであることには間違いがない。