wood light dark vintage

宇多田ヒカル「BADモード」アルバムレヴュー

宇多田ヒカルの8作目のオリジナルスタジオアルバム「BADモード」が2022年1月19日にリリースされたので早速聴いてみたのだが、先行で発表されていた楽曲の素晴らしさからわりと期待値が上がりがちだったものの、それを優に超えてくる驚愕のクオリティーであり、しばらく聴くのはこれだけでもいいのではないか、というような気分にすらなっている。

アルバムとしては前作「初恋」から約3年7ヶ月ぶりとなるわけだが、その間に日本の元号は平成から令和に変わり、新型コロナウィルス禍が訪れて去る気配を見せていない。

この間、宇多田ヒカルはいくつかの新曲を配信でリリースしていて、それらの多くはアニメやテレビドラマやCMに使われていた。特にアニメ映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のテーマソングに起用された「One Last Kiss」などはオリコンやBillboard Japanのシングルチャートで1位に輝いたのみならず、評価もひじょうに高かった。

宇多田ヒカルの音楽は紛れもなくJ-POPシーンのメインストリームではあるわけだが、実際にはJ-POPらしからぬところもひじょうに多く、今回の「BADモード」にはそれを特に強く感じる。今回、共同プロデューサーを立てた楽曲がひじょうに多いのだが、小袋成彬の他にはイギリスのA・G・クック、フローティング・ポインツ、アメリカのスクリレックスなどとなっている。

このアルバムに収録された楽曲はメインストリームのJ-POPとして機能しながらも、海外のコンテンポラリーなポップ・ミュージックとも通じている部分がひじょうに多く、R&B、ヒップホップ、エレクトロニカなどの要素が入っているのだが、オルタナティヴ・ポップとでも呼んでおくのが最も相応しいような気がする。

音数が少なく、ムダが徹底的に削ぎ落とされているようなのだが、その数少ないすべての要素がきわめて有機的に機能している素晴らしさというのか、アートフォームとしての美しさを感じずにはいられない。才能のあるアーティストがこのようなアプローチを取った作品が個人的にはかなり好きだな、というようなことを感じたのだが、おそらくプリンス&ザ・レヴォリューション「パレード」とかそのあたりのことである。

ポップ・ミュージックとしてひじょうに先鋭的でありながらも大衆性も兼ね備えているというかなりすごい作品ではあるのだが、それと同時にシンガー・ソングライター的というか、宇多田ヒカルというアーティスト個人がひじょうに強く表現されているアルバムであるようにも感じられる。もしかすると、これまでのアルバムの中で最もそうなのではないかという気すらしている。

タイトルトラックでもある「BADモード」がアルバムの1曲目に収録されているのだが、あるとても大切な関係性について、あたかも軽快であるかのように重要なことだけが歌われているのだが、「ネトフリ」「ウーバーイーツ」などという単語が歌詞に用いられていながらも、けしてあざとさは感じられず、きわめてナチュラルである。

とても大切であるという以外に具体的にどのような関係性のことを歌っているのかははっきりしていなく、それゆえにいろいろな解釈(家族、恋愛、友情など)が可能である。しかし、何が歌われているのかその最も重要なところは分かるし伝わる。「絶好調でも BADモードでも 好き度変わらない」ということなどである。

この曲で歌われているとても怖いこととは一体、何なのだろうか。それがはっきりとは分からないのだが、多くの人々は何かしらとても怖い経験をしていると思われ、それゆえに大切に思える何かが尊いと感じられるということはあるように思える。

歌詞は日本語だったり英語だったりするのだが、これぐらいのバランスが海外でも日本でも生活したことがある宇多田ヒカルというアーティストにとっては、最もナチュラルなのではないかというような気がする。それぞれの言語で歌われる歌詞には、それらが選ばれた必然性が感じられたりもする。

「君に夢中」はラヴソングなのだが、美しいピアノのフレーズと打ち込みによるユニークなリズムに乗せて、どうしようもなく人を好きになってしまった時の感情や心境が生々しくリアルに歌われていく。しかも、どうやら「許されぬ恋ってやつ」だというところがまたとても良い。

「One Last Kiss」はこのアルバムの流れで聴いてもやはり素晴らしいのだが、シンセポップで宇多田ヒカル「traveling」やビヨンセ「クレイジー・イン・ラヴ」に加え、「ヨシュア・トゥリー」の頃のU2を思い起こさせるところなどもあり、とにかくすごいことになっている。

海外のポップ・ミュージックから同時代的にいろいろ影響を受けているのだが、メロディーやボーカルに日本的な情緒性も感じられ、そこがオリジナリティーになっている。

「気分じゃないの(Not In The Mood)」の情景描写やスコッチを呑んで作詞をしているくだりなどに、作詞家としての新機軸が感じられたりもする。この曲でも歌詞に日本語と英語が用いられていて、しかも同じ内容がそれぞれの言語で歌われていたりするところがおもしろい。あとは幼い男の子のような声が聴こえるところがあるのだが、これはどうやら宇多田ヒカルの長男のようである。

「Face My Fears」はゲームソフト「キングダムハートⅢ」のオープニングテーマとして、スクリレックスとの共作で2019年にリリースされていた曲である。ピアノをバックにしたしっとりとしたバラードかと思いきや、途中から怒涛のビートと加工されまくったボーカルなどが印象的なフューチャー・ベース的な楽曲になっていく。

配信されている「BADモード」は計14曲で約1時間14分なのだが、10曲目までがアルバム収録曲で残りの4曲はボーナストラック扱いのようだ。とはいえ、いずれもとても聴きごたえがある。

アルバムの前半には先行して配信シングルとしてリリースされていた楽曲が多く、オルタナティヴでありながらメインストリームのJ-POPとしてもとても良い曲が続くのだが、後半にはよりディープなエレクトロニカ的な楽曲も収録されていて、アルバム全体に奥行きをあたえている。

圧倒的な情報量とすさまじいクオリティーが最適にミニマルなサウンドと表現力豊かなボーカルによって実現されているのだが、最新型のポップ・ミュージックとして刺激的であるのみならず、今日の日常を平気で生き抜いていくためのアティテュードとでもいうようなものすら提示されているようでもある。初めて聴いてから24時間も経っていないのだが、仕事と睡眠の時間以外ほぼずっと聴いていて、もしかするとこれまでのアルバムで最も良いのではないかといまは感じている。

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