1985年の大学受験

旭川空港からTDAこと東亜国内航空の旅客機に乗って、羽田空港こと東京国際空港で降りたわけである。同じ高校から東京の大学を受験した友人や知人数名も一緒だったはずである。それからモノレールで浜松町まで行って、そこから品川に行くために国鉄の電車に乗ったのだったと思う。現在ならば京急でそのまま品川まで行くのだが、当時はそれができなかったのか知らなかっただけだったのかはよく覚えていない。

とにかく品川で降りたのは品川プリンスホテルを予約していたからであり、東京の大学を5校受験するために、約2週間ほど東京に滞在する予定だったので、そのうちの一部をここで取ってもらっていたのである。東京に来るのはこの時で人生で3度目であり、1度目は1980年の夏休み、父に連れてきてもらい、赤坂見附のラジオたんぱで小森まなみの「ヤロメロジュニア出発進行!」の公開生放送を観覧したり、後楽園球場で日本ハムファイターズと西武ライオンズとの試合を観戦したりした。試合前に柏原よしえがデビューシングル「No.1」を歌うのを見ることができて感激した。

2度目は1983年秋の高校の修学旅行で、メインは京都や奈良だったのだが、帰りに東京で自由行動の時間があった。上野公園の近くのどこかで全員で昼食をとった後に解放され、数時間後に集合という流れであった。個人的には修学旅行のメインはむしろ東京での自由行動であり、京都では資料提出用に寺などの写真だけは撮って、後は京都タワーのバッティングセンターなどで過ごした。ロックファッションの店でセックス・ピストルズやPILの缶バッジは買ったが、東京で使うためにお金はなるべく使わないようにしていた。

「宝島」で知っていた六本木WAVEが開店してからそれほど経っていなかったので、友人たちと直でそこに行って、カルチャー・クラブやホール&オーツなど別に旭川のミュージックショップ国原やファッションプラザオクノ地下の玉光堂でも買える輸入盤レコードをわざわざ買ったりもしていた。グレイに黒字のビニール袋がポストモダンでとてもカッコいいと思った。その後、渋谷にも行ったのだが、土曜日だったということもあり、やたらと人が多かったということだけはなんとなく覚えている。センター街のよく分からないラーメン店で食事をした。

上野公園に戻ると、原宿のクリームソーダに財布などを買いにいったグループが映画「フラッシュダンス」に主演していたジェニファー・ビールスを見たと興奮していたり、物静かな音楽ファンの男子がどこかの中古レコード店で当時は廃盤でプレミアが付いていたビリー・ジョエルのデビューアルバム「コールド・スプリング・ハーバー」を買ったと自慢げであった。

それから約1年3ヶ月後、今度は大学受験で訪れていたわけだが、髪を短く切っていたため、それを友人のKが風見慎吾に似ていると言って、電車の中で何度も「涙のtake a chance」を歌ってきてひじょうに面倒くさかった。風見慎吾は「欽ちゃんの週刊欽曜日」に出演していた頃にリリースした「僕笑っちゃいます」がヒットするなどして人気者になったのだが、「涙のtake a chance」では当時としてはかなり新しかったブレイクダンスをパフォーマンスに取り入れるなどして話題になっていた。

品川プリンスホテルに泊まるのは1人だけだったため友人や知人たちと別れ、品川駅で降りたのだが、いきなりよく分からない男子大学生のような人に捕まり、いかがわしいクーポン券の束のようなものを5,000円ぐらいで売りつけられた。これがあるといろいろ安くなって大学生活がよりエンジョイできるとか、東京の大学生はみんな持っているとかそういうセールストークが真っ赤な嘘であることには気づいていたものの、旭川ではこういった人たちに捕まったこともなく、対処の仕方がまったく分からなかったため、これは買ってしまう以外に終わらせる方法はないのだろうという気分になって、まんまと金を払ったのだった。

ホテルにチェックインして部屋に入ってから、あまりに悔しくてそのクーポン券の束のようなものはごみ箱に捨てた。もしかすると実際に使う可能性があるクーポン券も含まれていたかもしれないのだが、その事実を一刻も早く忘れたかったのである。

土曜の深夜に「オールナイトフジ」や「ミッドナイトin六本木」といった北海道では放送されていない番組を見て感激した。特に「オールナイトフジ」には大好きな松本伊代が戸板女子大学の学生であり、麻生祐未と共に司会者としても出演していたので、「オリコン・ウィークリー」などでその存在は知っていたものの、見ることができずにモヤモヤしていたのであった。

また、「お笑スター誕生」でアゴ&キンゾーやシティーボーイズなどとしのぎを削っていた頃によく見ていてわりと好きだったとんねるずをその後はほとんど見かけることがなかったのだが、実は「オールナイトフジ」への出演でブレイクしかけていて、「一気!」というレコードまで出すことになったと知りうれしく感じていたのだが、「オールナイトフジ」が放送されていない北海道にいてはその実態を把握することがまったくできない状態であった。

しかし、品川プリンスホテルの部屋のテレビで「オールナイトフジ」を見ると、確かにとんねるずは暴れまくっていて、かなりの勢いを感じさせもした。それ以上に「ミッドナイトin六本木」でアダルトビデオ紹介のコーナーに出演し、「海綿体充血!」などと叫んでいた大川興業にも興味をひかれた。「オールナイトフジ」はフジテレビ系で「ミッドナイトin六本木」はテレビ朝日系、日本テレビ系の「TV海賊チャンネル」は北海道でも放送されていて、よく見ていたのだが、TBS系の「ハロー!ミッドナイト」はやっていたのだが、おそらくほとんど見た記憶がない。

また、テレビ朝日は当時、平日も深夜番組に力を入れていて、木曜の「ミントタイム」と金曜の「タモリ倶楽部」は北海道でも放送されていたのだが、他の曜日の番組は見ることができずにいた。特に月曜に放送されていた「グッドモーニング」はモーニングショーのパロディーを深夜にやってしまうというコンセプトであり、かなり衝撃を受けた記憶がある。

当時の深夜番組ということでやはりお色気的な要素がひじょうに強いわけだが、特に水島裕子による「てん・ぱい・ぽん・ちん体操」や、南麻衣子、小川菜摘、深野晴美から成るオナッターズのパフォーマンスにはかなりのインパクトがあった。オナッターズのデビューシングルとしてもリリースされた「恋のバッキン!」はひじょうに中毒性が高い楽曲である。小川菜摘は後にダウンタウンの浜田雅功の妻となる人である。

とはいえもちろんテレビばかり見ていたわけではなく、もちろんメインは大学受験だったわけなので、下見や受験そのものに行ったり、ホテルの部屋で少しだけ勉強もしていた。しかし、品川プリンスホテルにはブックストアもあったので、やはり入りびたってしまうこともあり、村上春樹が翻訳したスコット・フィッツジェラルドの作品集「マイ・ロスト・シティー」を買って読むなどもしていた。

そして、やはり東京に来たからにはもちろん六本木WAVEにも行ってしまうわけであり、その目的の1つには当麻町に住んでいた友人からこれらを買ってきてほしいと渡されたダンスミュージック系12インチシングルのリストと現金数万円のこともあった。品川から六本木まで行くには国鉄の山手線で恵比寿まで行き、そこから営団地下鉄日比谷線に乗り換えるのだが、山手線の車窓から外を見ていると、おでき薬局なる店の看板がやたらと目に入り、なぜに薬局の名称におできを付けてしまうのかとやたらと気になった記憶がある。

地下鉄を六本木駅で降りて階段で地上に出ると、いきなり頭上に高速道路が通っていて、都会的な気分が高まってきた。そして、六本木WAVEのロゴが夜には燦々と輝いて見えるのだが、そのビルに音楽や映像の最先端がぎっしり詰まっていた。ビルディングの下から上までがすべてレコード店で、何やら文化的な薫りも漂っている。カフェバー的な「雨の木」(レインツリーと読んでいたはず)という店や、レコーディングスタジオなども入っている。

友人から預かってきたメモを店員に渡して大量の12インチシングルを買ったわけだが、自分ではアフリカ・バンバータとジョン・ライドンのユニット、タイム・ゾーンの「ワールド・ディストラクション」や、実は尾崎豊や爆風スランプのレコードも買っていた。日曜日の午前中に行くとまだ客は少なく、フィル・コリンズ「ワン・モア・ナイト」が1階でかっかっていたこともなぜかよく覚えている。

それから六本木WAVEからそれほど遠くない場所に、青山ブックセンターという素晴らしい書店を発見した。なんと、伝説のミニコミ誌「よい子の歌謡曲」が普通に売られている。これはアイドルポップスをはじめとした歌謡曲や流行歌などについて、「ロッキング・オン」的なアプローチの論評やレヴューなどを掲載した個人的にはとてもおもしろい雑誌であり、旭川の書店では売られていないので、通信販売で購入したり、スタッフの方からバックナンバーを譲っていただいたりしていた。

そして、なんといっても旭川の高校生であった自分自身が原稿用紙に書いて送ったレヴューのいくつかが実際に掲載されてもいたのだ。まさにその号が店内に普通に陳列されていて、あの旭川のとても寒い部屋の机で書いた原稿が東京のしかもトレンディースポットである六本木の書店に並んでいる雑誌に載っているのかと思うとうれしくて仕方がなかったのであった。

品川プリンスホテルの部屋が取れなかった数日間の間、神谷町にあった虎ノ門パストラルに泊まっていたので、六本木WAVEがより近くてとてもよかった。

それでも品川プリンスホテルに泊まっていた頃に、どこかから適当に歩いてたどり着こうとしたら本格的に迷ってしまい、歩いていたスーツのサラリーマン的な男性に訊ねたりしたのだが、目蒲線なる未知の単語に出会ったりもして、なかなか楽しかった記憶がある。そして、歩道橋を渡ったような気がするのだが、この時の記憶が松尾清憲「サンセット・ドリーマー」とダブっているのである。

それはそうとして、大学受験と銘打ちながらも、ほとんどが東京観光のようなものだったこともあり、受験には実質的に失敗したことになる。実は1校だけ合格してはいたのだが、そこには入学せずに浪人を選ぶことになる。それならばそもそも行くつもりもない大学を受験するなというのは正論で、渡り廊下走り隊レベルで「完璧ぐ~のね」なのだが、当時はそんなこともなかなかよくは分かっていない。

それで、もちろん受験はしたわけだけれど、それ自体についてはそれほど覚えてはいない。ホテルの部屋に高校で同じクラスだった友人のKやHが訪れて、バカバカしい時間を過ごしたりするのだが、夜もふけてきたので電気を消して、文化放送の「ミスDJリクエストパレード」をつけていた。ホテルの部屋のベッドに備えつけのラジオだったと思う。この番組は「オールナイトフジ」などで盛り上がった女子大生ブームのようなものに便乗していたようにも感じるのだが、実際のところはよく分からない。松本伊代が担当していた曜日、すなわち「伊代の日」でザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」やリトル・リヴァー・バンド「愛と追憶の日々」のリクエストを読んでもらったことがある。

その日のパーソナリティーが誰だったかはまったく覚えていないのだが、尾崎豊の「卒業」やおそらく最後には菊池桃子の「卒業」がかかった。同じタイトルだがそれぞれ別の曲である。この年にはさらに斉藤由貴や倉沢淳美も「卒業」というタイトルのそれぞれ別の曲をリリースしていた。倉沢淳美は「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演して「めだかの兄妹」「もしも明日が…。」などをヒットさせたわらべで「かなえ」役だった人である。

Hは菊池桃子「卒業」のメロディーで、学級担任の教師Kの息子がキン肉マン消しゴムを机に並べている様を授業で説明したり、校則に違反して車を運転していた男子学生を停学にした件などを替え歌にしておもしろ可笑しく歌っていたのだが、不意に「卒業なんかしたくないよ」などと言い出し、真っ暗なホテルの部屋に何だかセンチメンタルな気分が漂ったのであった。

ホテルの部屋ではテレビドラマ「毎度おさわがせします」も見ていて、レコードデビュー前の中山美穂や横山やすしの息子としても注目された木村一八などが出演していたのだが、テーマソングのC-C-B「Romanticが止まらない」が強く印象に残り、当時はほとんど無名だったのだが、これはなんとなく売れそうだと感じたりもしていた。

最後にこのテキストのサウンドトラックとして作成したプレイリストを貼り付けておきたい。普段は主にApple Musicを利用しているのだが、プレイリストの貼り付けがうまくできないのでSpotifyにてお届けする次第である。

オナッターズ「恋のバッキン」はApple MusicにはあるがSpotifyにはないので上の方で公式ミュージックビデオを貼り付けたのであった。