ラモーンズ「ラモーンズの激情」

ラモーンズのデビュー・アルバム「ラモーンズの激情」がリリースされたのは1976年4月23日で、全米アルバム・チャートにおける当時の最高位は111位だったようだ。つまり、当時はあまり売れなかったが、後に歴史的名盤として評価されるようになるアルバムのうちの1つということである。パンクやインディー・ポップやオルタナティヴ・ロックと呼ばれる音楽のすべてが、このアルバムからの影響をいかなるかたちでにせよ確実に受けているともいわれる、ポップ・ミュージック史における超重要作品の1つだといえ、14曲も入っているのに約29分間で聴き終えてしまえるところもとても良い。そして、ジャケット写真がとてもカッコいい。当初はビートルズ「ミート・ザ・ビートルズ」のようなジャケットにしようと写真が撮影されたようなのだが、出来がよくなく、代わりに「パンク」という雑誌に掲載されていた写真を125ドルで買い取って使用したのが、現在のジャケットである。

ビートルズということでいうと、そもそもこのラモーンズというバンド名そのものが、ビートルズのメンバーであったポール・マッカートニーに由来している。シルヴァー・ビートルズというバンド名で活動していた頃、ホテルにチェックインする際にポール・ラモーンという名前を使っていたようなのだが、まずはディー・ディー・ラモーンがそれにインスパイアされたアーティスト名を使うことにして、後に他のメンバーも全員がラモーン姓を名乗ることになった。ちなみに、メンバー間に血縁関係がある者は1人もいない。

バンドは1974年にニューヨークで結成されたのだが、ジョーイ、ジョニー、ディー・ディー、トミーの4人のメンバーはいずれもミドルクラス的な地域の出身だという。CBGB、マクサス・カンザス・シティといわれる、後にニューヨーク・パンクの聖地として知られるようになるライヴハウスなどで演奏活動を行っていたところ、音楽ジャーナリストに注目され、レコード契約にまで結びついたということである。それで、デビュー・アルバム「ラモーンズの激情」がレコーディングされるのだが、ライブではもっと速いスピードで演奏されていたようである。「ラモーンズの激情」の1曲目に収録され、別バージョンが先行シングルとしてもリリースされていた「電撃バップ」のビデオが公式で公開されているのだが、「ラモーンズの激情」のプロモーション的な映像のつもりで見てみると、アルバムに収録されたバージョンよりも速くて驚かされる。

「電撃バップ」という邦題にあまりにも慣れ親しんでしまったのだが、現在は邦題も原題をカタカナ表記した「ブリッツクリーグ・バップ」になっているようだ。この「ブリッツクリーグ」という聞き慣れない単語は、ドイツ語で陸空軍による電撃戦というような意味を持つようである。「ラモーンズの激情」にはこれ以外にも、ドイツ軍に関連いると思われるフレーズを含む曲が収録されている。「ヘイ・ホー、レッツ・ゴー」というかけ声のようなものがあまりにも有名だが、シンプルにしてキャッチーで、ラウドでありながらポップというラモーンズサウンドの真髄とでもいうべき楽曲になっていて、パンク・ロックというジャンルのテンプレートになったようにも思える。

パンク・ロックといえばまずは一般的にセックス・ピストルズやザ・クラッシュのようなイギリスのバンドが思い浮かんだりもするわけだが、まず最初に盛り上がったのはニューヨークである、という話は雑誌のロック史的な記事などでなんとなく知っていた。CBGBやマクサス・カンザス・シティといったライヴハウスがわりと重要であり、他にブロンディ、トーキング・ヘッズ、テレヴィジョンなどもこのシーンから出てきた、というような内容である。また、パンク・ロックが登場し、支持を得るようになる背景としては、ロックという音楽ジャンルが成熟していくにつれ、産業化、肥大化していって、当初の原初的な魅力が失われていったというような状況があり、それに対してのアンチテーゼだったともいわれていた。「ラモーンズの激情」がリリースされた頃のアメリカではイーグルスのベスト・アルバム「グレイテスト・ヒット1971-1975」やピーター・フランプトンの「フランプトン・カムズ・アライブ」などが売れまくっていた。

個人的にはこの頃、北海道の苫前町という小さな町で小学生だったのだが、パンク・ロックのことなどはまったく知らなかった。オリコン週間シングルランキングではダニエル・ブーン「ビューティフル・サンデー」がずっと1位だったのだが、子供たちには田中星児によるカバーバージョンの方が有名だったと思われる。プロ野球に関心を持ちはじめ、ルールを把握してテレビで見るようになった時期でもあった。1970年後半にポップ・ミュージック界ではパンクとディスコが流行っていたといわれているが、ディスコはまだ洋楽を主体的に聴いてはいなかった小学生にも馴染みがあったのだが、パンクのことはよく知らない上に、ラジオなどで耳にすることもなかったように思える。それで、この辺りは完全に後追いである。80年代に入るとアナーキーやスターリンといったパンクバンドが、日本でもメディアでよく取り上げられるようになるのだが、その頃になると海外ではニュー・ウェイヴやシンセ・ポップなどが主流になっていた。

1980年後半にパンク10周年と日本でもバンドブームが盛り上がっていたこともあり、「ラモーンズの激情」がリリースされた頃には小さな子供であった世代の人たちの間でも、ラモーンズが支持されるようになった印象がある。当時はザ・ブルーハーツがセンセーションを巻き起こし、その後、JUN SKY WALKER(S)など、ビートパンクと呼ばれるパンクバンドが次々と登場してはブレイクしていった。セックス・ピストルズやザ・クラッシュといったバンドはとっくに解散していたのに対し、ラモーンズは当時からまだずっとやっていたので、ライブを見ることができたというのもひじょうに大きい。1988年にリリースされた「ラモーンズマニア」というベスト・アルバムなどは、入門編として機能していたようにも感じられる。

「ラモーンズの激情」に収録された14曲はいずれもひじょうに演奏時間が短く、シンプルで分かりやすい。使用されているコード数も、ひじょうに少ないのではないかと思われる。テーマは10代の苦悩というポップ・ミュージックらしいものであり、暗さとどこかユーモラスなところもある。アルバムの4曲目に収録され、シングルカットされたのだがやはりヒットしなかった「アイ・ウォナ・ビー・ユア・ボーイフレンド」はラヴソングであり、甘いメロディーが特徴的である。ノイジーなサウンドと甘いメロディーとの組み合わせという点では、後のジーザス&ザ・メリー・チェインなどにも強く影響をあたえたように思える。いまとなってはとてもポップなサウンドのようにも思えるのだが、それはこのアルバムがポップ・ミュージック界に多大な影響をあたえた後の世界だからなのだろう。このアルバムがリリースされた1976年当時に、どのような感じで聴こえていたのかは、いまや想像をすることしかできない。イギリスではこの年の10月にダムドが「ニュー・ローズ」、11月にセックス・ピストルズが「アナーキー・イン・ザ・UK」と、それぞれデビューシングルをリリースしている。日本では11月25日にピンク・レディーが2枚目のシングル「S・O・S」をリリースし、オリコン週間シングルランキングで初の1位に輝くことになる。