シュガーヒル・ギャング「ラッパーズ・デライト」について。

1979年9月16日にリリースされたシュガーヒル・ギャングの12インチ・シングル「ラッパーズ・デライト」は11月10日付の全米シングル・チャートに84位で初登場し、翌年の1月5日付ではトップ40入り、翌週に最高36位を記録した。これが全米シングル・チャート史上初のラップの曲だといわれている。ちなみにこの週の1位はルパート・ホルムズ「エスケイプ」、2位がマイケル・ジャクソンの「ロック・ウィズ・ユー」、日本のオリコン週間シングルランキングでは久保田早紀「異邦人」が1位であった。

ラップの起源ということになると、アフリカのグリオと呼ばれる人達なのではないかとか、レゲエにおけるトースティングからも影響を受けているとかいろいろあるようなのだが、今日、われわれが知るところのヒップホップ音楽におけるラップということでは、70年代のニューヨークで行われていたブロック・パーティーが発祥だとされている。これは街の一角にいろいろな人々が集まっては盛り上がる類いの催しではあると思うのだが、その際にやはり音楽が付きものであり、既存のレコードの歌が入っていなく、楽器の演奏だけの部分に乗せてラップをしたのが初めだといわれているようだ。しかし、しばらくの間、これはあくまでローカルな文化に過ぎず、レコードが発売されるようなこともなかった。

最初のラップのレコードは何かというと、1979年の夏にリリースされたファットバック・バンドの「キム・ティムⅢ(パーソナリティ・ジョック)」だとされているようだが、これはよりオーセンティックなR&BソングのB面だったということもあり、それほど話題にはならなかったのだという。そして、同じ年の9月16日にシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・デライト」が発売されるわけである。

シュガーヒル・レコーズのオーナー、シルヴィア・ロビンソンは1973年に「ピロー・トーク」をヒットさせたシルヴィアなのだが、当時、18歳だった息子がヒップホップに入れ込んでいて、それでこれをレコードにするのはどうかと思いついたらしい。「ラッパーズ・デライト」に参加しているラッパー3名、ワンダー・マイク、ビッグ・バンク・ハンク、マスター・ジーはシルヴィア・ロビンソンの息子が探してきたらしいのだが、当時のシーンでそれほど人気があったわけでもなく、それでこのレコードは当初、シーンにおいてあまりまともに捉えられていなかったらしい。

しかし、これが売れていくのだった。この曲ではシック「グッド・タイムス」のひじょうに分かりやすい引用が行われているのだが、これは既存のレコードのインストゥルメンタル部分に乗せてラップを行うブロック・パーティーでの感じを再現したものであろう。それに辺り、シック側の許可は特に取っていなかった、というかその発想がそもそも無かったのかもしれない。それで、シックのナイル・ロジャースがクラブで「ラッパーズ・デライト」を聴き、自分達の曲が勝手に使われていると訴訟沙汰にするのだった。結果、クレジットにシックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズも加えられ、やがてシルヴィア・ロビンソンとラッパー達の名前が削除された。つまり、いまや「ラッパーズ・デライト」はクレジット上、ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズの曲ということになっているようなのだ。

ところで、シックの「グッド・タイムス」といえば、他にも様々な曲に引用されているが、クイーンが1980年にリリースした全米NO.1ヒット「地獄に道づれ」は特に有名なのではないだろうか。その翌年、ブロンディが「ラプチュアー」で全米シングル・チャート1位を記録するが、これにもラップがフィーチャーされていた。また、トーキング・ヘッズのクリス・フランツとティナ・ウェイマスのユニット、トム・トム・クラブといえば、日本の米米CLUBのバンド名にインスパイアをあたえたことでも知られるが、「おしゃべり魔女」は日本でもそこそこヒットしていて、旭川市立光陽中学校の優等生、I君までシングルを買っていたほどだった。原題は「Wordy Rappinghood」で、やはりラップ的なボーカルになっているのだが、邦題においては「おしゃべり」として処理されていた。1980年に全米シングル・チャートで最高87位を記録したカーティス・ブロウ「The Breaks」はヒップホップ初期の有名曲の1つでもあるが、これの邦題も「おしゃべりカーティス」というものであった。

このようにラップを取り入れたレコードはいろいろ出てはいたのだが、アメリカで最初にメジャーに大ヒットするのは1986年にRUN-DMCがエアロスミスと共演した「ウォーク・ジス・ウェイ」であった。この辺りはイギリスの方が早くて、シュガーヒル・ギャング「ラッパーズ・デライト」が全英シングル・チャートで最高3位、同じシュガーヒル・レコーズのグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ「ザ・メッセージ」が1982年に最高8位を記録していた。

この「ザ・メッセージ」という曲はタイトルの通りメッセージ性が強く、タフな生活の実態がテーマになっていたのだが、それ以前のラップはパーティー的な要素がひじょうに強かったともいわれている。「ラッパーズ・デライト」にしても、とにかく盛り上がろうということや、自分がいかに女性にモテるかということの自慢のような内容が多い。

日本では1981年に小林克也と伊武雅刀によるスネークマン・ショー「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」や山田邦子「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」といったコミカルなレコードでラップ的な要素が取り入れられていた印象がある。1983年にベスト・アルバム「No Damage」がオリコン週間アルバムランキングで1位という最高のタイミングで佐野元春が単身でニューヨークに渡り、翌年にヒップホップから強く影響を受けたアルバム「VISITORS」をリリースする。ファンの間でも賛否両論があり、あまりの変わりように泣き出してしまう女性ファンさえいたとされている。同じ年の11月に吉幾三が「俺ら東京さ行ぐだ」をリリースし、大ヒットさせるのだが、あれを日本のラップだというのにはどこかネタ的な意図があるのではないかと思っていたのだが、吉幾三は実際にラップにインスパイアされてあの曲ををつくったのだという。渋谷陽一が「サウンドストリート」でアフリカ・バンバータとジェームス・ブラウンが競演した「ユニティ」をかけたのを聴いてこれはすごいと思い、旭川のミュージックショップ国原で12インチ・シングルを買った。