松本伊代「ラブ・ミー・テンダー」【名曲レヴュー】

松本伊代の2枚目のシングル「ラブ・ミー・テンダー」が、1982年2月5日に発売された。オリコン週間シングルランキングでは最高11位、TBSテレビ系の「ザ・ベストテン」では最高9位を記録し、デビューシングル「センチメンタル・ジャーニー」に続き2曲連続でのランクインとなった。

当時、アイドル歌手のデビュー曲というのは3月か4月あたりにリリースされることが多く、その後、3ヶ月おきぐらいにシングルをリリースしながら年末の賞レースに備えていくという感じであった。しかし、松本伊代のデビューシングル「センチメンタル・ジャーニー」は、1981年10月21日に発売されていた。

それ以前にすでにTBSテレビ系のバラエティ番組「たのきん全力投球!」に田原俊彦の妹役で出演するなどしていたと思うのだが、レコードデビュー時にはいきなりロッテガーナチョコレートのテレビCMに起用されるなどして、かなり注目されていた。

歌詞に「伊代はまだ16だから」と本人の名前が入っていることがひじょうに話題になったのだが、NHKでは本人の宣伝にあたるというよく分からない理由で、「伊代」のところを「私」に変えて歌わなければならなかった。歌声がひじょうにユニークなのはこの頃からなのだが、松本伊代の典型的なボーカルとして知っているイメージよりは声が低く、ハスキーに感じられるところもあり、まだスタイルが未確立だという印象も受ける。個人的にはそこがひじょうに気に入ってもいるのだが。

そして、コミカルなキャラクターも当時はまだそれほど知られてはいなく、正当的な美少女というイメージで売り出されていたような記憶がある。この曲はオリコン週間シングルランキングで最高9位、「ザ・ベストテン」では最高6位のヒットを記録する。アイドル歌手のデビュー曲としては、上々の結果だということができる。

アイドル歌手のデビューシングルは通常、3月か4月あたりに発売されていたということに先ほどふれたわけだが、実はこの年には伊藤つかさ「少女人形」が9月1日、薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」が11月21日と、いずれもヒットしたアイドルのデビューシングルが秋に発売されている。とはいえ、伊藤つかさも薬師丸ひろ子も女優業をメインとしていたからか、賞レースの新人賞にはノミネートされていなかったような気がする。

一方、松本伊代は賞レースの新人賞にもいろいろノミネートされることになるのだが、1981年のデビューでありながら、秋にデビューしたからか1982年の新人という扱いになっていた。この年には特に人気となるアイドル歌手がたくさんデビューしたことから、「花の82年組」という言葉があったりもする。数年後にベストテンの常連になった歌手だけでも中森明菜、小泉今日子、石川秀美、堀ちえみ、早見優、男性アイドルではジャニーズ事務所のシブがき隊がいた。

「センチメンタル・ジャーニー」というタイトルはドリス・デイが歌い「感傷旅行」のタイトルでも知られるスタンダードナンバーを思い起こさせもしたのだが、2枚目のシングルとなる「ラブ・ミー・テンダー」といえば、やはりエルヴィス・プレスリーのバラードを連想しないわけにはいかなかった。エルヴィス・プレスリーのファンにとっては、あまり望ましくないことなのではないかとも思われたのだが、この曲の作詞者は「センチメンタル・ジャーニー」に続いて、大のエルヴィス・プレスリーファンとして知られる湯川れい子であった。当時の洋楽ファンには、アール・エフ・ラジオ日本で放送されていた「全米トップ40」のメインパーソナリティーとしても知られていた。

ブリッジのところなどはオールディーズの名曲でフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズのヒットで知られる「恋は曲者(原題:Why Do Fools Fall In Love)」に少し似ているところもあったが、この曲はこの年にダイアナ・ロスにカバーされ、全米シングル・チャートで最高7位を記録してもいた。歌詞には「どうして女の子は涙ぐむの ねえ 恋するの」と、「恋は曲者」の原題に近い内容を歌っているところもある。ボーカルスタイルは、すでによく知られる松本伊代らしいものになっているように感じられる。松本伊代はやはり声が低かったザ・ロネッツのロニー・スペクターのボーカルを参考にするようにといわれ、曲が入ったテープを渡されたとも語られている。

「ラブ・ミー・テンダー」においては、高音部でファルセット気味になるところが守ってあげたい感じにさせたり、テレビのパフォーマンスにおける横歩き的な振り付けがとても可愛らしかったり、曲が一旦終わったかのようで実はまだ終わっていなかったという仕掛けのようなものも楽しく感じられた。「どうして」と歌われるところの声を伸ばした最後に小さな「ん」が入っているように聴こえなくないところもとても良い。「センチメンタル・ジャーニー」で「何かに誘われて」と歌われるところなどでも、同じような手法が用いられていたような気がする。しかし、個人的な思い入れということになると、それどころではない。

「センチメンタル・ジャーニー」の頃には新人アイドル歌手としてもちろん好意的に見ていたわけだが、本格的に好きになったのは年が明け、「ラブ・ミー・テンダー」がリリースされる前の時期である。きっかけはよく分からないのだが、高校受験の直前であり、精神的にひじょうに不安定になっていたという要因がひじょうに大きかったのではないかとも思われる。それまでもアイドルポップスは大好きだったし、ニューミュージックが盛り上がっていた70年代後半には低迷していたものの、80年代に入ってから松田聖子などの活躍もあり、人気が復活していることを好ましくも感じていた。しかし、ある特定のアイドルに対し、特別に思い入れるということはそれまでにはなかったし、そういった熱狂的なファンになりうるような資質が自分には欠けているのではないかとも感じていた。

当時、ワニブックスから「ハートともだち ー胸さわぎのとき」というフォト&エッセイ集が発売されていて、これのラジオCMでも「ラブ・ミー・テンダー」が使用されていた。この本も旭川の平和通買物公園にあった書店のうちのどこかで買ったのだが、とても大切に見たり読んだりしていたことが思い出される。家族にはアイドルのフォト&エッセイ集などを買っていることが知られたくなかったので、学習机の一番下の引き出しの奥に保管していた。

「ラブ・ミー・テンダー」はすでにラジオでかかったりテレビで歌われたりもしていたものの、まだレコードは発売されていなかった。その前にやはりデビューシングルである「センチメンタル・ジャーニー」は買っておかなければいけないだろうと思ったのだが、すでにかなりヒットしていたし、いまさら買うのがなんだかとても恥ずかしくも感じられた。それで、平和通買物公園のミュージックショップ国原、玉光堂、ディスクポートなどではなく、中学校の近くにあった時計店で買った。時計店なのに、レコードも扱っていた。当時は特に疑問にも感じていなかったのだが、こういったタイプの店は他にもあったのだろうか。

当時の松本伊代のキャッチコピーは「瞳そらすな僕の妹」であり、「センチメンタル・ジャーニー」のB面に収録されていた「マイ・ブラザー」の歌詞も兄に宛てたような内容であった。松本伊代よりも年下であった身としてはひじょうに微妙な気分でもあったのだが、当時の松本伊代がキラキラしすぎていて、そんなことは概ねどうでもよかった。

「ラブ・ミー・テンダー」のシングルは発売されてすぐに買って、ジャケット写真を見ながらとにかく何度も繰り返し聴きまくった。レコードはビクターのロゴが入った紙袋に入っていたのだが、すでにピンク・レディー、サザンオールスターズ、プラスチックス、スペクトラムのそれを持ってもいて、自分はビクターのレコードを随分と買いがちだなと感じた。

高校受験の当日も朝に「ラブ・ミー・テンダー」とB面の「虹色のファンタジー」(この曲もとても良い)を何度もリピート再生することによって気合いを入れたのだが、同じ高校を受けるクラスメイトの父の車が約束の時間になっても豊岡4条1丁目の農協の前に来なくて、内心かなり焦っていた。やっと来たのでもちろんすぐに行ったのだが、運転をしていたクラスメイトの父は宮本武蔵も巌流島の決闘に遅れて行ったなどと呑気なことを言っていた。

松本伊代のレコードを何度も聴いて気合いを入れた状態で臨んだ甲斐あって高校受験には合格したわけだが、それで自分へのご褒美的に兄が札幌の大学に通っているという友人から噂を聞いてとても気になっていたタワーレコードにはじめて行って感激したり、その帰りに玉光堂で佐野元春・杉真理・大滝詠一「ナイアガラ・トライアングVol.2」を買ったりすることになる。

「ラブ・ミー・テンダー」はB面の「虹色のファンタジー」と共に発売40周年を記念して再レコーディングされたわけだが、これもまた素晴らしい内容になっている。