RUN D.M.C.「ウォーク・ジス・ウェイ」について。

1986年9月20日付の全英シングル・チャートではRUN D.M.C.の「ウォーク・ジス・ウェイ」が先週の15位から9位に上がり、初のトップ10入りを果たしている。この週の1位は先週に続いてコミューナーズによるハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツのカバーで、テルマ・ヒューストンのバージョンも有名な「ジス・ウェイ」、つまりトップ10内に「ジス・ウェイ」がタイトルに入った曲が2曲ランクインしていたことになる。他にはジャーメイン・スチュワート、ピーター・セテラ、カッティング・クルー、ボリス・ガードナー、キャメオ、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド、”G”アンドDJスヴェン、ユーリズミックスがトップ10内に入っていた。 ”G”アンドDJスヴェン は「ウォーク・ジス・ウェイ」の1ランク上にマドンナ「ホリデイ」をベースにした「ホリデー・ラップ」をランクインさせていたため、ラップの曲が2曲並んでいたことになる。

一方、アメリカにおいて「ウォーク・ジス・ウェイ」はこの2週前の9月6日付でトップ10入りを果たし、この週には6位にまで上昇していた。1位はヒューイ・ルイス&ザ・ニュース「スタック・ウィズ・ユー」で、他にトップ10内にランクインしていたのはRUN D.M.C.の他だとライオネル・リッチー、グロリア・ローリング&カール・アンダーソン、ベルリン、マイアミ・サウンド・マシーン、バナナラマ、グラス・タイガー、ダリル・ホール、レジーナと、イギリスとまったく被っていない。つまり、この週にアメリカとイギリスの両方でトップ10に入っていた唯一のシングルが、RUN D.M.C.の「ウォーク・ジス・ウェイ」だったということになる。

RUN D.M.C.はこの曲によって初めて全米シングル・チャートにランクインしたのだが、この時点ですでにリリースしていたデビュー・アルバムの「RUN D.M.C.」はゴールド・レコード、その次の「キング・オブ・ロック」はプラチナ・レコードをそれぞれヒップホップのグループとしては初めて受賞するほどには売れていて、1985年には「ライヴ・エイド」にも出演していた。シングルもR&Bチャートにはいくつもチャートインしていて、一部ではすでに人気を得ていて、評価も高かったのだが、それがまだ一般大衆にまで届いていなかったという状態だったのだろう。

1981年に放送を開始したMTVでは、当初、白人アーティストのビデオしか流されなかったという。それを変えたのはマイケル・ジャクソンがモンスター級のヒット・アルバム「スリラー」からシングル・カットした「ビリー・ジーン」のビデオであった。ジャンルを超えてあまりにも要望が強すぎて、オンエアしないわけにはいかなかったのだろうか。マイケル・ジャクソンは「スリラー」の前のアルバム「オフ・ザ・ウォール」もじゅうぶんに売れていて、「今夜はドント・ストップ」「ロック・ウィズ・ユー」という2曲の全米NO.1ヒットを生んだりもしていたのだが、マイケル・ジャクソンとプロデューサーのクインシー・ジョーンズはこの結果にまだ不満であり、ソウルやR&Bではなく、ロックやポップスを聴いている層にまでアピールすることを意図して、「スリラー」を制作したといわれている。先行シングルがポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」だったことや、「今夜はビート・イット」にギター小僧のヒーロー、エドワード・ヴァン・ヘイレンを起用したのもそれに則ったことだったのだろう。結果的にこれが功を奏して、MTVではヘヴィーローテーションされ、レコードも売れまくることになった。

RUN D.M.C.はすでにハード・ロックなどのフレーズに乗せてラップをするということをやってはいたのだが、3作目のアルバム「レイジング・ヘル」ではデフ・ジャム・レーベルの創設者でヒップホップをメジャーにしたが、ロック好きでも知られるリック・ルービンを共同プロデューサーに迎えたことにより、この路線がさらに強化されたといえるかもしれない。

エアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」は1975年のアルバム「闇夜のヘヴィ・ロック」の収録曲で、翌々年に全米シングル・チャートで最高10位を記録していた。1973年のデビュー以降、「ドリーム・オン」「スウィート・エモーション」などをヒットさせ、ハード・ロック・バンドとして日本でもひじょうに人気があったらしい。しかし、そのうちメンバーのドラッグへの依存やバンド内の人間関係の悪化などもあり、低迷するようになっていき、80年代には完全にピークを過ぎたバンドという扱いであった。

「レイジング・ヘル」制作中にリック・ルービンはラップを乗せるためのネタの候補として「闇夜のヘヴィ・ロック」をかけ、RUN D.M.C.のメンバーがフリースタイルでラップをしたところ、それがかなり良かったので、いっそのことこの曲をカバーしてはどうかという話になったようだ。RUN D.M.C.のMC、ジョセフ・シモンズとダリル・マクダニエルズはこの時点でエアロスミスのことを知らず、この曲をカバーしようというリック・ルービンのアイデアにもまったく乗り気ではなかったのだが、DJのジャム・マスター・ジェイだけは良いのではないかと感じていたようだ。とはいえ、この曲がシングルとしてリリースされ、ヒットしてしまうとは発案したリック・ルービンさえ予想していなかったという。

RUN D.M.C.による「ウォーク・ジス・ウェイ」はエアロスミスのカバーであるだけではなく、本家からボーカリストのスティーヴン・タイラーとギタリストのジョー・ペリーが参加するという事態にまで発展した。ちなみに、エアロスミスのオリジナル・バージョンが日本で発売された当時の邦題は「お説教」だったらしい。RUN D.M.C.の「ウォーク・ジス・ウェイ」は全米シングル・チャートで最高4位を記録して、エアロスミスのオリジナルが記録した最高10位を超えてしまった。イギリスではRUN D.M.C.のバージョンが最高8位だったのだが、エアロスミスはこの時点でシングルもアルバムも一切、チャートに入ったという記録がない。

当時、ロック・バンド、ECHOESの辻仁成が1987年の秋から「オールナイトニッポン」のパーソナリティーを務め、オープニング曲にエアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」を使っていた。リスナーからのハガキで、オープニングのRUN D.M.C.の曲も良いですね、というようなものがあり、これはRUN D.M.C.ではなくてエアロスミスなんだよね、と説明をしていた記憶がある。

RUN D.M.C.の「ウォーク・ジス・ウェイ」はスティーヴン・タイラーとジョー・ペリーも出演したミュージックビデオも印象的で、RUN D.M.C.の部屋とを隔てていた壁をスティーヴン・タイラーが破壊するシーンは、まるでロックとラップとの間にあったそれを視覚化しているようでもあった。個人的にはこの年の夏休みに帰省した時に札幌のすすきのの方にあった友人のアパートに入り浸っていることが多く、夜は彼が居酒屋のアルバイトに行っていたので一人でテレビを見たりしていたのだが、MTVでこの曲やマドンナ「パパ・ドント・プリーチ」などのビデオをよく目にした記憶がある。

この曲のヒットにより、ラップがより幅広い層に広がっていくことになるのだが、私は小田急相模原の斜め向かいあたりにあったレコードレンタル友&愛で「レイジング・ヘル」のレコードをレンタルした後、渋谷に西武のWAVEに対抗してダイエーが出店したがそれほど長くは続かなかったCSVというレコード店でCDを買ったはずである。当時はまだラップは曲単位で聴く分にはまだ良いのだが、アルバム1枚となると退屈してしまうのではないかという偏見があったのだが、このアルバムはバラエティーにとんでいてかなり楽しめた。

RUN D.M.C.はアディダスのスニーカーを紐を外して履くなどのファッション面でも話題になり、日本の男性ファッション誌などでも取り上げられていたような気がする。

この年の秋に日本では近田春夫がPresident BPMの名義でラップのレコード、「MASSCOMMUNICATION BREAKDOWN」をリリースし、それには後にスチャダラパーのデビュー・アルバム「スチャダラ大作戦」をプロデュースする高木完と、その収録曲「N.I.C.E.GUY」をリミックスする藤原ヒロシによるTINNIE PUNXや、ハード・ロック・バンド、EARTHSHAKERのギタリスト、SHARAなども参加していた。日本では当時はまだラップをソウルやR&Bのリスナーよりも、パンクやニュー・ウェイヴを好んで聴いていたような人達が楽しんでいたような印象もあるのだが、実際のところはどうだったのだろう。

「ウォーク・ジス・ウェイ」のビデオを見ると、そこにラップとロックという新旧の対比のようなものが感じられ、ロックは過去のものでこれから廃れていって、ラップこそがいま最も新しく刺激的なポップ・ミュージックであり、かつてロックが果たしていたような役割を担っていくのだ、というような印象を少なくとも当時の私は感じていたのだった。日本においても先ほど名前を挙げたTINNIE PUNXの「I Luv Got The Groove」などもジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツのヒットで知られる「アイ・ラヴ・ロックンロール」を引用しながらも、「もはやこれまでロックンロール」「ロックンロールはロックじゃない」などという内容であった。

「ミュージック・マガジン」の1986年11月号に掲載された「レイジング・ヘル」のクロス・レヴューでは、「『ウォーク・ジス・ウェイ』のヴィデオ・クリップでのエアロスミスの情けなさときたら大笑い」と書かれていたりもする。しかし、ボン・ジョヴィやガンズ・アンド・ローゼズがブレイクしていくこともあり、これ以降、当時の中高生の間ではハード・ロックがまた流行っていくという状況もあったように思われる。

そして、エアロスミスなのだが、この「ウォーク・ジス・ウェイ」効果によって人気が復活、というか新たなリスナーを獲得して、次のアルバム「パーマネント・ヴァケイション」はアメリカのみならず、イギリスでも初めてチャートに入ることになった。このアルバムからの先行シングル「デュード」は私も純粋にカッコいいと思って、当時、まだ宇田川町にあった頃のタワーレコード渋谷店で7インチ・シングルを買った記憶がある。エアロスミスのレコードを買うのは、それが初めてであった。

つまり、「ウォーク・ジス・ウェイ」のヒットによってラップは一般大衆に広まり、エアロスミスはまた人気が出て、リスナーも聴く音楽の幅が広がるという、いろいろな人達にとって幸福な影響がおよぼされたということである。

それにしても、「ウォーク・ジス・ウェイ」がなければ、エアロスミスの人気が復活して後に映画「アルマゲドン」の主題歌「ミス・ア・シング」を大ヒットさせることもなく、漫才コンビ、笑い飯の最高傑作(だと個人的には思っている)「宇宙戦争」も生まれなかった可能性がある。これも私が「ウォーク・ジス・ウェイ」がヒットして良かったと思う理由のうちの一つではある。