スティクス「パラダイス・シアター」

1981年4月4日の全米アルバム・チャートにおいて、スティクス「パラダイス・シアター」がREOスピードワゴンを抜いて1位に輝いた。翌々週の4月18日付のチャートでは「禁じられた夜」が再び1位に返り咲くのだが、3週後の5月9日付では「パラダイス・シアター」が抜き返し、翌週にはまた「禁じられた夜」が1位、6月27日付のチャートにおいてキム・カーンズ「私の中のドラマ」に抜かれるまで、1カ月以上もその座を保持し続けたのだった。「禁じられた夜」が初めて1位になったのはジョン・レノン&ヨーコ・オノ「ダブル・ファンタジー」を抜いた2月21日付のチャートにおいてなので、それから約4ヶ月以上の間は、「禁じられた夜」か「パラダイス・シアター」がずっと1位だったことになる。この年の年間アルバム・チャートにおいても、1位が「禁じられた夜」で2位が「パラダイス・シアター」になっている。他にもフォリナー「4」、ジャーニー「エスケイプ」が全米アルバム・チャートで1位に輝いたこの年は、産業ロック黄金時代の真っ只中だったということもできる。それは、エイジア「詠時感/時へのロマン」が年間アルバム・チャートで1位に輝いた、この翌年にピークに達したような気がする。さらにその翌年である1983年からは、2年連続でマイケル・ジャクソン「スリラー」が年間1位であった。

産業ロックとはREOスピードワゴン、スティクス、フォリナー、ジャーニー、エイジアなどの音楽を指し、ロックではあるのだがパンク/ニュー・ミュージック的なセンスやアティテュードとはほぼ真逆のベクトルを持つ音楽だといえる。パンク/ニュー・ウェイヴ的価値観が覆そうとした、初期衝動的なエッセンスを失い、産業化、肥大化したロックの現状を象徴するような音楽だったともいえる。1981年、イギリスではヒューマン・リーグ「愛の残り火」、ソフト・セル「汚れなき愛」がシングル・チャートで1位に輝くなど、シンセポップがメインストリーム化していたのだが、アメリカでは産業ロックが全盛であった。この年に開局した音楽専門のケーブルテレビチャンネル、MTVの影響などによって、後に第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンが勃興するわけだが、これによってアメリカとイギリスでヒットしている音楽の違いが少なくなっていったような気もする。

当時の日本において、洋楽を主体的に聴きはじめようとするにあたって、全米ヒットチャートからまず入っていこうという姿勢はわりとありがちではあったわけだが、そのタイミングでものすごく売れていたのが、1981年の春ぐらいであればREOスピードワゴン「禁じられた夜」やスティクス「パラダイス・シアター」などであった。たとえばなんとなくモテそうというような不純(個人的には純粋)な理由で洋楽を聴きはじめた場合、実は産業ロックのようなものを聴いていてもそれほどモテないということに薄々気づきはじめた頃に、デュラン・デュランやカルチャー・クラブなどが流行りはじめ、どうやらそっちの方がモテそうだということであっさりと乗り換えるというようなことは、実際にありがちだったのかどうかは定かではないのだが、個人的にはひじょうに理解がしやすい。というか、正味の話、自分自身がそれそのものである。それ以降は、パンク/ニュー・ウェイヴ的なものが大好きというブランディングを10代なりに行っていくので、産業ロックを聴いていた過去というのは黒歴史として葬りがちであった。しかし、洋楽を主体的に聴きはじめた多感な時期になけなしのお小遣いでレコードを買い、繰り返し聴いていたものの刷り込みというのはなかなか強力なものであり、ふと偶然にREOスピードワゴン「キープ・オン・ラヴィング・ユー」を聴いてしまった時の胸のときめきのようなものには抗いがたいものがあり、同世代であるレモンヘッズのイヴァン・ダンドがこの曲をカバーしていた時には、これでいいのだと感じたものである。

産業ロックという単語そのものは、「ロッキング・オン」の渋谷陽一がNHK-FMの「サウンドストリート」あたりで言っていたので初めて聴いたような気がするのだが、日本でしか通じない言葉らしい。産業を英訳するとインダストリーなので、産業ロックに近い言葉としてはインダストリアル・ロックがあるが、そうなるとポストパンクから派生したキリング・ジョークだとかフィータスだとかの音楽を指すことになり、まったく違ったものになってくる。また、日本で産業ロックと呼ばれている音楽の一部を、海外ではソフトロックと呼んだりもするのだが、日本でソフトロックというとそれとはまったく異なった、小洒落た感じの音楽を指すようになる。

それはそうとして、スティクス「パラダイス・シアター」がリリースされ、全米アルバム・チャートをかけ上がっていた頃、個人的には中学生だったわけだが、土曜の深夜にまだ「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」を聴いていたのか、すでに「全米トップ40」を聴くようになっていたのかは、はっきりと覚えていない。いずれにしても、夜ふかしはしていたはずである。そして、日曜日のおそらく午前中に、ラジオで堺正章がこのアルバムを紹介しているのを聴いて、買おうと思ったのであった。調べてみたところ、どうやらニッポン放送系で朝の8時30分から放送されていた「平凡アワー マチャアキのスタービッグホリデー」という番組だったようである。堺正章については「ハッチャキ!!マチャアキ」などの印象がひじょうに強く、子供の頃はコメディアンだとずっと思っていた。「時間ですよ」「西遊記」、あるいは毎年、元旦に放送されていた「新春スター・かくし芸大会」などで大活躍するのだが、この年の4月からは新番組である「ザ・トップテン」の司会を榊原郁恵と共に務めることになった。かつて井上順などと共に、ザ・スパイダースというグループサウンズのバンドをやっていたことは、その間のどこかのタイミングで知った。

堺正章のラジオ番組を聴いてこのレコードを買おうと思った理由というのは、音楽性というよりは、レコードに光を当てると文字が見えるというようなことが言われていたことだったりもするのだが、旭川の平和通買物公園にあったミュージックショップ国原に行くと、このレコードの輸入盤があったので、2,100円か2,200ぐらいで迷わず買った。ジャケットにはシアターの入口のようなものが描かれていて、とても盛り上がっているのだが、裏ジャケットでは同じ場所なのだがまったく盛り上がってはいない。メンバーのデニス・デ・ヤングによって構想されたこのアルバムのコンセプトは、かつてシカゴに実在したパラダイス・シアターという劇場の盛衰を描くことで、アメリカという国そのもののそれをも表現しようというものだったようだ。

堺正章のラジオ番組を聴いた時には棒の複数形を意味するスティックスがバンド名だと思っていたのだが、実際にはスティクスであり、三途の川を意味するようである。1972年に「スティクス」でデビューして、「パラダイス・シアター」はすでに通算10作目のアルバムとなる。初期はプログレッシヴ・ロック的な長かったり複雑な曲などもやっていたのだが、メンバーチェンジなどもあり、少しずつポップでキャッチーになっていって、1979年には「ベイブ」が全米シングル・チャートで1位に輝いた。「パラダイス・シアター」からは「ザ・ベスト・オブ・タイムス」が全米シングル・チャートで最高3位、続いてシングルカットされた「時は流れて」が最高9位のヒットを記録している。

個人的にビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」「グラス・ハウス」、ジョン・レノン&ヨーコ・オノ「ダブル・ファンタジー」に続き、生まれてから4枚目に買った洋楽のアルバムがスティクス「パラダイス・シアター」になったわけだが、家に帰り、レコードの盤面に光をあててみると、確かに文字が虹色に浮き出してくるように見えて、とても良かった。音楽もキャッチーで分かりやすく、わりと気に入って聴いていたはずである。

スティクスのこの次のアルバム「ミスター・ロボット」が発売される頃には、すでにマイケル・ジャクソン「スリラー」や第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの時代であり、産業ロックは下火になっていたのだが、先行シングルで表題曲の「ミスター・ロボット」は「ドモアリガット、ミスターロボット」というようなカタコト気味の日本語がフィーチャーされていたり、シンセサイザーが効果的に用いられていたりもして、全米シングル・チャートで3位のヒットを記録、日本でもわりと話題になっていた。同じ年にリリースされたジャーニー「セパレイト・ウェイズ」もシンセサイザーが強調され、ドラマティックで暑苦しげなボーカルと演奏が産業ロックでありながらトレンドに寄せている風味もあって、なかなか良かった。デニス・デ・ヤングは1984年にソロシングル「デザート・ムーン」もヒットさせるのだが、日本では谷山浩子が日本語カバーしていたのが印象的であった。「パラダイス・シアター」は全英アルバム・チャートで最高8位を記録していて、イギリスでもわりと売れていたようである。