パブリック・エナミー「ブラック・プラネット」

パブリック・エナミーの3作目のアルバム「ブラック・プラネット」は、1990年4月10日にリリースされた。当時、渋谷にある大学に通っていたのだが、おそらく講義を受けた帰りに寄った渋谷ロフト1階のWAVEでかかっているのを聴いて、これはまたとんでもないアルバムになっているのではないかと感じさせられた。そして、もちろんCDを買って帰った。パブリック・エナミーはヒップホップのグループではあったのだが、当時のポップミュージック界において、ロックも含め最もエキサイティングなアーティストだったといえるのではないだろうか。社会的なメッセージ性を含む歌詞と力強いラップ、サンプリングやブレイクビーツを多用した、攻撃的でひじょうにユニークなサウンドなど、それはかつてパンクやニュー・ウェイヴが担っていたような役割をも果たしていたようなところもあり、実際にこの頃のパブリック・エナミーを支持していた人たちの中には、パンクやニュー・ウェイヴのファンもひじょうに多かったような印象がある。

1987年はザ・スミスが解散して、パブリック・エナミーのデビューアルバム「YO!バブ・ラッシュ・ザ・ショウ」がリリースされた年として記憶されている。1985年にはペイズリー柄のシャツが流行っていたので、池袋の西武百貨店かどこかで買ったそれらを着ていることが多かったのだが、翌年にRUN D.M.C.がエアロスミスとコラボレーションしたカバー曲「ウォーク・ジス・ウェイ」をヒットさせ、ヒップホップをメインストリーム化すると、そのファッションも実はカッコいいのではないかという感じになってきて、アディダスのスニーカーの紐を取って履いたり、ジャージのような服をストリートウェア的に着るようになったりもしていた。ロックのレコードはあまり買わなくなり、ヒップホップをよく聴くようになった。「ミュージック・マガジン」が年間ベストアルバムを発表する号で、ヒップホップ部門では「YO!バム・ラッシュ・ザ・ショウ」が選ばれていたような気がする。六本木WAVEで買ってきて聴いてみたところ、とてもカッコよくてすぐに夢中になった

ヒップホップはニューヨークで流行しているサブカルチャーで、ラップ、ブレイクダンス、グラフィティアートなどから成る、というような記事を80年代前半に「宝島」か何かで読んだ。ラップを取り入れた「ラプチュアー」を、ブロンディが全米シングル・チャートの1位にしていた。トム・トム・クラブ「おしゃべり魔女」なども、ラップを取り入れたダンスポップでありニュー・ウェイヴだといえるだろう。日本ではコミックソング的なスネークマンショー「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」、山田邦子「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」などにラップからの影響が感じられたりもした。シティ・ポップ的でもある音楽性であった佐野元春が大滝詠一のナイアガラ・トライアングルへの参加などもあってブレイクし、ベストアルバムオリコン週間アルバムランキングで1位になったぐらいのタイミングで単身渡米し、ニューヨークで地元のミュージシャンたちと新しいレコードをつくった。約1年後に届いたニューアルバム「VISITORS」はヒップホップからの影響が強く感じられるもので、ファンの間でも賛否両論だったのだが、ひじょうに先駆的な作品だったとして高く評価されるようになる。吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」は、本当にラップからインスパイアされた曲だったようだ。

ラップにはメロディーがなく、英語で歌詞の意味も分からなければまったく楽しむことができないのではないかとか、日本語には合わないのではないかとか、当時はいろいろなことがいわれていたのだが、後にポップミュージックのメインストリームになり、日本にも定着したことは周知の事実である。そうなる前にラップが最も先鋭的でエキサイティングな音楽ジャンルだった時代があり、それを象徴するような存在だったのがパブリック・エナミーである。

映画「レス・ザ・・ゼロ」のサウンドトラックに「ブリング・ザ・ノイズ」が収録され、これもとてもカッコよかった。このサウンドトラックからヒップホップでシングルカットされたのは、LL・クール・J「ゴーイング・バック・トゥ・カリ」の方だったが。このサウンドトラックにはエアロスミスやスレイヤーの曲なども収録されていたが、最もヒットしたのはバングルスによるサイモン&ガーファンクル「冬の散歩道」のカバーで、全米シングル・チャートで最高2位を記録していた。映画は後に「アメリカン・サイコ」で議論を巻き起こすブレット・イーストン・エリスの小説を原作とし、タイトルはエルヴィス・コステロの曲名から取られていた。当時、アメリカ文学ではジェイ・マキナニーとブレット・イーストン・エリスは読んでおいた方がいい、などといわれがちであった。ジェイ・マキナニーの「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」も「再会の街 ブライトライツ・ビッグシティ」の邦題で映画化され、サウンドトラックからはドナルド・フェイゲン「センチュリーズ・エンド」がシングルカットされたりもしていた。まったくの余談だが、宇野維正さんとの共著「2010s」での田中宗一郎さんによるあとがきは、「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」に影響を受けているのではないかというようなことを感想文のようなもので書いてみたところ、ご本人にも喜んでいただけたのでとても良かった。

「ブリング・ザ・ノイズ」なども収録した1988年のアルバム「パブリック・エナミーⅡ」が最高傑作とされているのだが、密度の濃さでいうと「ブラック・プラネット」も相当なものである。ちなみに「NME」では「YO!バム・ラッシュ・ザ・ショウ」と「パブリック・エナミーⅡ」がいずれも年間ベストアルバムの1位に選ばれているのだが、同じアーティストが2度、しかも連続で1位というのは後にも先にもパブリック・エナミーのみである。パブリック・エナミーがアルバムをリリースしなかった1989年の1位は、ストーン・ローゼズのデビューアルバムではなく、デ・ラ・ソウル「3フィート・ハイ&ライジング」だったので、本当にヒップホップがエキサイティングな音楽として見なされていたわけである。「ブラック・プラネット」は、1990年の年間ベストアルバムで、ハッピー・マンデーズ「ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス」、シニード・オコナー「蒼い囁き」に次ぐ3位に選ばれていた。

「ブラック・プラネット」の最後には「ファイト・ザ・パワー」という曲が収録されていて、パブリック・エナミーの曲の中でも最も有名なのではないかとも思われる。当時、全米シングル・チャートにはランクインしていなく、全英シングル・チャートでは最高29位と、それほど大きくヒットしたというわけではないのだがひじょうに評価が高く、2021年にアップデートされた「ローリング・ストーン」誌が選ぶ歴代ベストソングのリストでは、アレサ・フランクリン「リスペクト」に次ぐ2位にランクインしたりもしている。個人的にこの曲を歴代ベスト的なリストのわりと上位に入れることが多く、マイルドに攻めているのではないかというような自覚があったのだが、「ローリング・ストーン」のような大御所が歴代2位にしてしまったので、もはやまったくそんなことはなくなってしまった。

当時のパブリック・エナミーの音楽の過激さを保持しつつも、わりとポップでキャッチーでもあり、2020年には続編的なバージョンがリリースされたりもした。とはいえ、この曲といえばなんといっても、スパイク・リー監督の映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」である。「ローリング・ストーン」は2022年に発表した80年代ベスト映画のリストでこの映画を1位にしてもいるので、こういったタイプの表現をかなり好んでいるとも思えるのだが、公開から30年以上経っているのにテーマがまったく古くなっていないということでもある。この映画はアメリカでは1989年6月30日に公開されていたのだが、日本では約9ヶ月以上も遅れて、1990年4月21日に公開されている。つまり、パブリック・エナミーが「ブラック・プラネット」をリリースした少し後、ということである。個人的にも日比谷シャンテでこの映画を見てひじょうに盛り上がり、その後、ビデオカセットやDVDも買って、ほぼ毎年見ているような状態なのだが、夏の少し前に公開したのは正解だったような気がする。当時のシャンテのパンフレットにはシナリオが掲載されていたような記憶もあるのだが、いまや記憶が定かではない。ジム・ジャームッシュやアキ・カウリスマスなどの作品なども、よくここで見たような気がする。