USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」

1985年3月23日の全米シングル・チャートで1位だったのは、これが3週目となるREOスピードワゴン「涙のフィーリング」であった。最も高い順位で初登場したのは、USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」である。当時の全米シングル・チャートの集計方法は今日とは異なっていて、上位にはなかなか初登場できないようになっていた。この21位初登場というのはかなり高い方であり、直近ではマイケル・ジャクソン「スリラー」が初登場20位を記録していたぐらいであった。

「ウィ・アー・ザ・ワールド」はアフリカを飢餓から救おうという目的を持ったチャリティーシングルで、大勢の有名アーティストが参加したことで話題になった。この翌週には21位から5位に大きく順位を上げ、さらにその翌週の2位を経て、4月13日付のチャートではフィル・コリンズ「ワン・モア・ナイト」を抜いて1位に輝いた。4週連続1位はこの年に全米シングル・チャートで1位になった曲の中では最長記録だったのだが、年間チャートでは20位であった。

この曲が生まれるきっかけとなったのは、1984年のクリスマスシーズンにイギリスで大ヒットしたバンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」であった。「哀愁のマンデイ」のヒットなどで知られるアイルランド出身のニュー・ウェイヴバンド、ブームタウン・ラッツの中心メンバーであったボブ・ゲルドフは、アフリカの飢餓についてのテレビ番組を見て心を痛め、この問題を解決するために自分にも何かできないだろうかと考えた。このことについてウルトラヴォックスのミッジ・ユーロに相談したことからチャリティーシングルのアイデアが具体化していき、当時の人気アーティスト達も多数参加することになった。デュラン・デュランのサイモン・ル・ヴォン、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージ、ワム!のジョージ・マイケル、ザ・スタイル・カウンシルのポール・ウェラーやU2のボノなどがボーカリストとして参加して、フィル・コリンズがドラムスを演奏したこの曲は大ヒットして、ワム!「ラスト・クリスマス」を抑えて全英シングル・チャートの1位に輝いた。

アメリカでもこういったタイプのチャリティーレコードがつくれないだろうかと考えたのが、「バナナ・ボート」のヒットなどで知られるニューヨークはハーレム生まれのベテランアーティスト、ハリー・ベラフォンテであった。マネージャーやプロデューサーとして活動していた音楽業界人のケン・クレーゲンに相談したところ、クライアントであったライオネル・リッチーとケニー・ロジャースが紹介された。スティーヴィー・ワンダーの協力も得られることになり、続いて楽曲の共同プロデューサーとしてクインシー・ジョーンズも加わった。そして、「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」のプロデュースなどでかかわっていたマイケル・ジャクソンに連絡をすると、ボーカリストとしてのみならず、ソングライターとしての参加も快諾された。

当初はソングライティングにスティーヴィー・ワンダーも加わる予定だったのだが、スケジュールなどの都合もあり、曲はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーによってつくられることになった。マイケル・ジャクソンがファミリーと暮らすカリフォルニア州の自宅でつくられた楽曲は、1985年1月22日にケニー・ロジャースのスタジオでレコーディングがはじめられ、この時に参加していたのは、ライオネル・リッチー、マイケル・ジャクソン、クインシー・ジョーンズなどであった。バックバンドとして参加したミュージシャンのうち、ドラムス、ベース、ピアノを演奏していたのは、マイケル・ジャクソン「今夜はドント・ストップ」で初共演した人たちであった。

ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンのガイドボーカルが収録されたカセットテープがレコーディングに参加予定のアーティスト達に送られ、プロダクションミーティングを経て、最後のレコーディングは1月28日にハリウッドのA&Mレコーディング・スタジオで行われた。ソロパートを歌ったアーティストは登場順にライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダー、ポール・サイモン、ケニー・ロジャース、ジェームス・イングラム、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、ウィリー・ネルソン、アル・ジャロウ、ブルース・スプリングスティーン、ケニー・ロギンス、スティーヴ・ペリー、ダリル・ホール、ヒューイ・ルイス、シンディ・ローパー、キム・カーンズ、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、コーラスで参加したのがダン・エイクロイド、ハリー・ベラフォンテ、リンジー・バッキンガム、ザ・ニュース、シーラ・E、ボブ・ゲルドフ、ジャッキー・ジャクソン、ラ・トーヤ・ジャクソン、マーロン・ジャクソン、ランディ・ジャクソン、ティト・ジャクソン、ウェイロン・ジェニングス、ベット・ミドラー、ジョン・オーツ、ジェフリー・オズボーン、ポインター・シスターズ、スモーキー・ロビンソンという豪華さである。

これらのアーティスト達はUSAフォー・アフリカと呼ばれることになるのだが、USAは必然的にアメリカ合衆国をも意味してしまうのだが、実は「United Support of Artists」の略であった。プリンスもこれに加わるはずだったのだが、当日レコーディングに参加することができず、そこのパートはマイケル・ジャクソンが歌っている。プリンスは「ウィ・アー・ザ・ワールド」のアルバムに、「4・ザ・ティアーズ・イン・ユア・アイズ」という曲を提供した。また、「ウィ・アー・ザ・ワールド」と被らないように、自身の作品のリリース時期をずらしたともいわれている。参加アーティスト達がただ豪華なだけではなく、ジャンルや性別、年代なども多岐にわたっているところが特徴的であり、イギリスのバンド・エイドと比べてもそれは明らかであった。

ブルース・スプリングスティーンは当時、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の大ヒットで絶好調だったのだが、「ウィ・アー・ザ・ワールド」においてもエモーショナルなボーカルが印象的であり、日本のアホな大学生などがカラオケでふざけて歌う時にも、雑に真似られがちであった。また、この1984年に「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」「タイム・アフター・タイム」などがヒットしてブレイクしたばかりのシンディ・ローパーも圧巻のボーカルパフォーマンスでひじょうに目立っていた。これもカラオケで真似られがちであった。バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」と同様に、レコーディング風景が撮影されたミュージックビデオも実に見ごたえがあった。ビリー・ジョエルは1983年のアルバム「イノセント・マン」からシングルカットされた曲が次々とヒットし続けていたのだが、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のビデオで久々に見るとヒゲが伸びまくっていて動揺した。

バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」のビデオもやはり豪華アーティストがたくさん出ていて素晴らしかったのだが、個人的にはやはりポール・ウェラーである。クリスマスシーズンの土曜の夜に友人の家のはなれにあつまってパーティーのようなことをしていたのだが、バンドがアースシェイカーの「モア」を演奏するなどしてひじょうに盛り上がった。その現場には高校3年の女子も男子もいたのだが、夜が深くなるとチルアウトしていた。照明を落とし、テレビの灯りだけがともる中で寝転んでいたような気がする。この時に「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」のビデオもオンエアされて、みんなで見ていたような気がする。「TV海賊チャンネル」の「ティッシュタイム」のコーナーで、一人の女子が陽気にティッシュペーパーを宙に舞わせて大笑いしていた。彼女がアルバイトをしていたすすのの水商売の店に一度だけ行ったことがあった。札幌の短期大学を卒業後、ニトリ家具に就職したはずだが、当時はローカル企業というイメージであった。

USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」のビデオもまだ旭川の実家にいる時点で見ていたはずなのだが、当時は大学受験にも失敗して高校の友人たちとは離れ離れになるなど、なにかとセンチメンタルな気分であった。定住者として最後に買ったレコードは、1985年3月5日に発売された松本伊代「あなたに帰りたい(Dancin’ In The Heart)」だったような気がしていたのだが、よくよく考えると3月21日に発売された佐野元春「Young Bloods」の12インチシングルの方だった可能性がひじょうに高い。

「ウィ・アー・ザ・ワールド」が21位に初登場した1985年3月23日付の全米シングル・チャートは、旭川に定住していた最後の週のチャートでもあり、翌週には文京区千石の大橋荘での生活がはじまっていた。西武・パルコ文化のメッカ的なイメージがあったのと、単純に巣鴨駅から電車で近かったので、日曜日には池袋に行くことが多かった。パルコブックセンターやオンステージヤマノ、ディスクポートなどがあったからである。西武百貨店のエスカレーターの近くに大きなモニターがあって、そこで「ウィ・アー・ザ・ワールド」のビデオがよく流れていた記憶がある。少し離れたところからそれを見ていた。今日、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のビデオをYouTubeなどで簡単に見ることができるのだが、あの最初に回る地球のイラストが出てきて、USAフォー・アフリカのロゴが表示され、様々なアーティストのサインが加わる感じなどを、当時の東京で暮らしはじめた頃のあやふやな気分と共に思い出すことができる。

このスクリーンではザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」のビデオも見た記憶があるのだが、すでに新しい曲が出ていたのにどうしてこれだったのかが不思議なところである。池袋のパルコでシンプル・マインズ「ドント・ユー」やティアーズ・フォー・フィアーズ「ルール・ザ・ワールド」を聴いて、80年代らしいメジャーなサウンドだなと感じたのはおそらくもう少し先のことである。